日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.10.1「足りないものは何か」

Posted on 2017. 10. 2, 牧師: 藤田 穣

聖書 マタイによる福音書19章16~26節
 19:16さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 19:17イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 19:18男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19:19父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 19:20そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 19:21イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 19:22青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 19:23イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 19:24重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 19:25弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 19:26イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

 他力本願と自力本願
 先日行われたバドミントンのjpオープン・女子ダブルス決勝、高松・松友ペアーが、予選から勝ち上がってきた韓国ペアーと初めての対戦になりました。1ゲーム目に韓国ペアーから攻め込まれ、連続何点か失い、リードを許しました。素人目には、ランク127位のペアーに何故、簡単に点をゆるすのかと思いました。実は、相手のペアーの球筋を見ていたのだそうです。ただ、自分たちの力で押し切るのではなく、相手を見る冷静さに感じ入った次第です。 試合中に相手の戦術を見極めるこの余裕、相撲で言えば、すごい横綱相撲を見せて貰ったのでした。
 世の中には、自分が正しいと思って見ている一面のこととその事実の裏にある真実には違いのあることしばしばあります。信仰の世界においても然りです。

 仏教で救われる、成仏するには、自力本願と他力本願がある。自力本願という言葉は、仏教の用語にありません。自力は、自分の修行により悟りを開くということでしょう。他力本願は、自分の力によるのではなく、自力を捨て、阿弥陀仏の誓願、働きにより成仏する(救われる)ことを願うことです。即ち、阿弥陀仏に頼ることにより救われるということです。鎌倉時代に、浄土真宗の親鸞聖人が広めたという。
歌舞伎のくだりに、「他力本願を只一筋に、南無阿弥陀仏と唱えれば、…皆往生を遂げるに、何の疑いあらんや。」(歌舞伎 漢人漢文手管の始まり)とある。

 親鸞の教えより前に、キリスト教は他力本願の宗教なのです。仏教とキリスト教の違いは、仏教は阿弥陀仏の実在を問いませんが、キリスト教は、イエス・キリストの実在に救いの根拠があります。
 パウロは、ローマ書10章9節以下で、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と証しております。

 今日の聖書箇所に移ります。
 金持ちの青年の質問
 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と質問した。
 彼は20節によれば、青年で、32節では財産家でしたから、金持ちの青年と呼ばれます。彼がひざまずいてまで、切実にイエスに聞きたいと願ったのは、「どうしたら、どんな善いことをしたら、永遠の生命を得られるか。」ということでした。今、こんな青年が現れたら、今どきの青年も捨てたもんじゃないと思います。この後の受け答えを見ても、彼が、いかに真剣に、自分の人生を問い、生きてきたかがうかがわれるのです。
 何故、善いことについて私に尋ねるのか?善いことは父なる神だけである。天の父なる神の思いをこの世で実現することが善いことである。もしあなたが永遠の命、神さまの命に入りたいと思うなら、神がモーセに下さった掟を十戒を守りなさい。青年は、どの掟ですか?と尋ねるとイエスは、十戒の中から、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われた。
 これは、すべて他人に対するもの、隣人に関するものである。そして、最後に、隣人を自分を愛するように愛しなさい。」と言われた。隣人を愛することが神を愛することなのだと言われます。
 青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」と云った。彼は、イエスの云われたことは、すべて守っていると思っています。
 彼は安定した生活をしていました。財産があったとありますから、何不自由なく生きていたのです。神さまに対する信仰もありました。神さまの掟に対する知識もありました。それを守る信仰もありました。私たちから見てもうらやましい位の青年です。
しかし、それでも、彼には満たされないものがありました。神によって満たされる平安がありませんでした。これだけ戒めを守って来たのに、自分は何故不安なのか。自分には、何が足りないのか。不足しているのか? イエスの云われた掟は、すべて守っていたのです。
それで何が足りないのでしょうか?彼の不安は永遠の命を得ていないからと思ったのでしょう。彼には、死の不安もあったかも知れません。イエスさま時代の平均寿命は30歳です。そういう不安もあったかも知れません。

加藤常昭牧師が引用されています。中世の神学者アウグスチヌスは、「善く生きるのは、とこしえに生きるためである。とこしえに生き得ないものは、善く生きても何の益があろうか」
アウグスチヌスは、「いつ死のうが、いくつになって死のうが、今ここで、本当に善く生きることができるということと、永遠の命に生きるということは一つなのだと云っているのです。 

この青年も今ここで永遠の命を得なければならないと思ったのです。あのナザレのイエスならその命を持っている。その望みをかけて、イエスさまの許に来たのです。イエスは、これに対して、17節で、ただ、独りの善き方である、神の戒めに生きなさい。生きることができれば、死から命に移ることが出来ると答えたのでした。
 「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
 これがこの青年の限界、そう、ユダヤ教の律法に熱心な人の限界、自力本願の限界なのです。

 この青年は、律法を完全に守っていると言ってます。神の前に恥ずべきものはない。しかし、神から遠い、神さまに出会っていない、神さまの恵みを感じられないのです。
 同じファリサイ派出身の使徒パウロはこう言ってます。フィリピ書3章5節以下、「 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(この青年と同じです) しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえ(キリストに出会い、捕らわれた故)に、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と告白しています。

宗教改革者ルターもパウロとおなじような存在でした。
ルターは、修道院に入り、血のにじむような修道生活を経験しました。夜中の1時に起きて夜8時まで、9回にわたる祈祷、聖書拝読、作務、礼拝(ミサ)以外の大半を一人で過ごす。ルターの入ったアウグスチヌス修道院では、托鉢があり、大学を中退したての若者のルターには、厳しい日課であったであろう。しかし、彼は、それを完璧にやり通した。ルターは、自分自身の罪についても、真剣に向き合い、自分の子供のころからの罪を6時間に亘って告解、司祭におこられるほど徹底した。当時、修道院に入れば、すべての罪が清められ、天国が約束されると考えられていた。しかし、ルターには、救いの確信、心の平安、内面の安寧のときが訪れなかった。これだけ求めても、心の安息は得られなかった。修道すればするほど、行いでは救われない苦悩に陥ったのでした。
 その後、ルターは、ヴィッテンベルグ大学での聖書研究、講義を通して、新たなる目を開かれたのでした。詩篇31編1節の「あなたの義によってわたしを解放してください」(ラテン語訳)「主よ、…あなたの義をもってわたしをお助けください。」(口語訳)で、はたとゆきづまったという。なぜ「義」(神の裁き、怒り、罰)が、「救い、解放」と結びつくのか。そして、はっとわかったことは「神の義」は「神の恵み」であることでした。
中世のカトリック教会では、信仰の土台が聖書から離れ、聖書にある救いの福音イエス・キリストがどこかに隅に置き忘れられていたのでした。パウロは、ロマ書1章17節において、福音(イエス・キリスト)には神の義が啓示されている。神の義は福音・神の恵みと書いてある。 目から鱗である。神の義は与えられるもので、求めるものではない、自らの行いで義を求めるのは、神の恵みをないがしろにすること。すべての人々にあたえられている恵みをないがしろにする。自分では到達しえない「神の義」こそ「神の恵み」であることだった。
人間の行いや努力が神に受け入れられて義とされるのでなく、イエス・キリストの十字架による神の子の「義」と「救い」が結びついたものと示された。ここからルターの「十字架の神学」が始まりました。
 神が罪人を罰する義ではなく、神から罪人に与えられる義、罪人の罪に関わらず、無条件に与えられる赦しの義。即ち、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じる信仰によって救われる。
 それは、自分の努力や行いによるのではなく、すでになされている神の恵み、イエス・キリストの十字架の恵みを信じ、受容することによるのだ。
 青年の問題の解決は、キリストに在って律法を守ることパウロやルターのように、自力を捨てて他力、キリストに身を預けることなのである。

 この金持ちの青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」口語訳では、「ほかに何が足りないのでしょうか」。21節 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 マルコ福音書では、10章21節、イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 この青年に一つ足りないのは、「あなたが持っている財産を売り払い、それで得たお金を貧しい人に施すことであった。そうすれば、大いなる約束がなされる。「朽つべき地上の財産をみな捨てれば、天の神の所に、永遠に朽ちざる財産を積むことになる」(マタイ福音書6章20節)
 そして、私、「イエスに従いなさい。」なのです。
 しかし、青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 イエスは、自分とこの青年の間を妨げているものは、財産であることを見抜いていた。彼は、イエスに、そこを突かれた。青年は、財産を手放すことが出来なかった。 
イエスは、山上の説教でこう教えられた。6章21節以下、 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」24節、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 神の国に入る条件はイエスの弟子となることである。
 ヨハネ福音書10章7節以下「イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。…わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。…わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
  金持ちが天国に入る困難
  また、イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

 金持ちが神の国に入るのは難しい。ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。ラクダはユダヤでは一番大きな動物である。針の穴は小さいものの代表である。それでは、誰が救われようか? 当時のユダヤ人たちは、富は、人の篤信善行の褒賞であると考えていた。金持ちこそ神の国に入るべきと信じていたから弟子たちも驚いたのでした。
 もしも、金持ちが神の国に入れないとしたら、誰が救われることができようか?イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
 ここに人間の無力と神の全能が宣言される。それは、人間の努力に対する死の宣告であり、神による救いの約束である。
 この前の箇所にあった子どものことを思う。19章13節以下、そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 子どものように素直にイエスの許に行けば良いのである。
 幼子の様に無心になって、唯一人の善い方である、主イエスの父なる神を、自分の中にお迎えすることです。自分を神様に明け渡すことです。否、自分が神に迎えられ、受け入れられることです。
 捨てる力
私たち人間にはできないが、神にはすべてのことができる。 私たちがなすのは、身を委ねること、わが身を捨てることである。捨てがたいものを捨てることです。だから、捨てることの痛みを覚えることがあるのです。それは、父なる神が御子イエスを十字架に捨て給う痛みと重なります。
この新会堂の献堂でも、皆様が、自分の身を裂いて、献金してくださったからこそ、献堂できたのです。それは、神の恵みの結果でしょう。
 十字架に血を流してまでも私たちの罪を受け止め赦す、イエスにすべてを委ねることのできない者が、神の国に身を置くことが出来ようか?
 キリスト以外に何一つ頼りになるものを持たない者が永遠の命を受け継ぐのです。