日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.12.10「マリアへの告知」

Posted on 2017. 12. 11, 牧師: 藤田 穣

聖書 ルカによる福音書1章26~38節

 01:26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 01:27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 01:28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 01:29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 01:30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 01:31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 01:32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 01:33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 01:34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 01:35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 01:36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 01:37神にできないことは何一つない。」 01:38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 最初に神さまは、世界を造り、人間をお造りになりました。神さまはお造りになった世界を「良い」と云われました。しかし、人間は神さまの云うことを聞かないで、悪いことをするようになりました。

 神さまは、世界がもとの「良さ」をとり戻すように、神さまの「言葉を取り次ぐ」預言者を通し、色々働きかけてくださいました。しかし、人間たちはますます悪くなって、神さまの云うことを聞きません。そして、ついには、神さまのお使いとして、神さまの独り子イエス様をこの世界に送り、この世界を救ってくださる決断をなさいました。その神さまの独り子がこの世界を救うためにお生まれになるという予言(お知らせ)があって、ユイダヤの国の人たちは、永い間、首を長くして待っていました。

 

 ガリラヤのナザレという村に、マリアというお姉さんが住んでいました。神さまを信じる心優しい人でした。同じ村に住むヨセフさんと結婚する約束をしていました。

 マリアは、「神さま、いつもお守りくださり、たくさんのお恵みをくださって有難うございます。」と毎日、お祈りしていました。いつものようにお祈りしていると誰かが、そばに立ちました。

静かな声が聞こえました。「おめでとう、マリア。神さまがあなたと一緒におられます。」マリアは、天の御使いの声だと分かりました。どうしたことでしょう。マリアはどきどきしました。御使いは云いました。

 「驚くことはない、マリアよ。あなたは、神さまから恵みを頂いています。あなたは男の子を産むでしょう。その子をイエスと名付けなさい。それは救い主と約束された神さまのお子様です。」

 マリアは、み使いに言いました。「どうしてそんなことがありましょうか。わたしはまだ結婚していませんのに。」み使いは、「あなたは特別に神さまのお力によって赤ちゃんを授かるのです。生まれてくるのは神さまの子どもです。神さまにできないことはありません。」

 マリアは、神さまを信じました。「神さまに従います。神さまのお言葉どおりになりますように。」

 マリアのお祈りが済むとみ使いはいなくなっていました。

 マリアには気になることがありました、結婚の約束をしていたヨセフのことです。「お腹に赤ちゃんがいます。」と言ったらどんなに驚くことでしょう。」でも、マリアは、「神さまがなさることに間違いない。きっと良いように導いてくださる。」と信じました。

「神さまは、こんなに小さなわたしに目を留めて、救い主のお母さんに選んでくださった。神さまにすべてをお任せしよう」と心に決めたのでした。この時のマリアの神さまへの感謝の気持ち「ありがとうございます」は、讃美歌になって今も世界の人々に歌われています。

このマリアの決心は、神さまに従いたいと願うわたしたちにとって大切なお手本ですね。

                 (子どもの礼拝  おわり)

 いくつかのことを取り上げて考える。

 ここは、「受胎告知」と言われ、多くの名画が生まれている箇所です。

神から遣わされた天使ガブリエルは、ユダヤの国のガリラヤのナザレの娘、ヨセフの婚約者マリアに遣わされる。この世界を治める神の眼差しが、名もなき一人の娘に注がるのです。

バプテスマのヨハネの誕生の告知がエリザベトになされてから6ケ月目のことでした。天使は、マリアのところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

 「おめでとう」という言葉は、「喜び」を表す言葉である。「喜びなさい。恵まれた方」 天使は、マリアに、「あなたは既に神から恵みを頂き、今も恵みの祝福のなかにあります。喜びなさい。」となる。

 主があなたと共におられる。という言葉は、マリアが特別に選ばれていることを意味する。 マリアは戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。マリアは、天使の出現にと戸惑ったのではなく、その挨拶に戸惑った。

 戸惑うマリアに、天使は、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」云った。

 天使ガブリエルは、マリアに、有無を言わせず、押し付けたのです。神の恵みは一方的です。余計なお世話と思うこともあります。

 天使が続けて云ったのは、①マリアが神から恵みを頂いたこと ②身ごもる、懐妊すること ③身ごもるのは男の子であること ④その子にイエス(主は救いという意味)と名付けること ⑤その子は偉大な人になる ⑥いと高き方の子と言われる 更に、主は、彼に父ダビデの王座をくださり、彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない、と続く。

 この言葉から、この生まれてくる幼子は、預言者により予告されたダビデ家から出る待望のメシア(救い主)であり、永遠に支配する方であることが明らかにされる。

 ヨセフと婚約中のマリアは、この言葉をどう聞いたのか。マリアは、天使から子どもを授かる時期を知らされていない。当時ユダヤの婚約期間は1年という。そう、遠い先のことではない。そう、結婚してからと考えることもできた筈である。しかし、マリアは、「どうしてそんなことがありましょうか。わたしはまだ結婚していませんのに。」と答えている。マリアは、天使の言葉を、「今、この時、神が自分に語られた」と受け止めている。マリアが夢見ていた、描いていた婚約期間、結婚生活が根底から覆された言葉として受け止めたのだ。

このような思いがけない言葉を聞いたら、自分の状況が整ったら、もう少し先、結婚するまで待ってくれと願う。しかし、神の言葉が語られるのは、神が一番良いとされた時である。今が恵みの時、恵みの日と聞くべきなのであろう。マリアは、正面からそのように神の言葉を聴き受け止めたのでした。

 「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」マリアは、懐妊の可能性を疑問視する。まだ、結婚していない、男性と関係を持ったことはないと答えた。

 天使ガブリエルは、マリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」と云った。

 天使は、「聖霊がマリアに臨み、神の力がマリアを包む。聖霊の力による懐妊が告げられ、それ故に、生まれる子は、聖なる者、神の子と呼ばれる。」と云い、この不可解な懐妊が神の力によってなされることを示し、処女懐胎と神の子との関係が強調される。

使徒信条で「主は、霊によって宿り、処女マリアより生まれ」と告白した通りです。その子は処女マリアから生まれる、聖霊によって生まれる神の子なのです。

 天使ガブリエルは、更に、この告知の信憑性裏付けるひとつの印として、既に年老いた、不妊の女と呼ばれた従姉エリザベツが妊娠6ケ月であることを告げ、最後に、「神にできないことは何一つない。」と断言した。即ち、神の許では、どんなことも不可能ではない、と話を締め括っている。

 

主のはしため

天使の言葉に対するマリアの最後の答えは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」でした。そこで、天使は去って行った。神の言葉がマリアに打ち勝ったのです。

マリアは、自分が神の「はしため」という、「はしため」は、今は蔑称で使われませんが、下女、奴隷のことです。先ほど歌った讃美歌175の2節の歌いだしは、前の歌詞は、「数に足らぬ はしためをも 見捨てず」でした。奴隷は主人の云うことは絶対として、その云うことに従順に従うものです。

 奴隷制度の時代、主人は、奴隷に対し生殺与奪の権利、生かすも殺すも、与えるも奪うもその思いのままでした。マリアの「はしため」発言は、己をすべて明け渡して、神の奴隷となる、すべてを神の言葉通りに委ねる決断のことばでした。マリアにとって、あえて冒険をなす決断でした。

信仰とは、自分を神に明け渡す決断です。神に自分を明け渡し委ねているかどうか、人生の様々の決断において、神を信じているか、どうかが問われるのです。

 エフェソ書6章5節以下でパウロは、奴隷と主人について語っている。「 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。

人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。」と言っている。

マリアは、神に自分を明け渡した従順な奴隷、そして、従順な信仰者でした。「私は主のはしため、お言葉通りこの身になりますように。」これは、マリアの信仰告白です。マリアは、神に信頼し、その言葉に従ったのです。

 マリアは、この恵みをこの後46節以降で、マリアの賛歌として歌っている。このマリアの讃歌 マグニフィカト(我が心、主を崇め)といいます。magnificat anima mea dominuu

 我が心、主をあがめ のラテン語の最初の部分を取っています。

 1章46節以降、そこで、マリアは言った。 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」とマリアは、歌っています。

 

マリアに予想される苦難

 しかし、この従順な信仰の物語は、マリアの今後の人生が苦難の道になることを予想させるのです。マリアが聖霊により即座に身ごもることになるなど、誰が信じるでしょう。婚約者ヨセフは、どう受け止めるのか。 現代的に考えれば、秘かに産んでシングルマザーとして、後ろ指指されながら、秘かに生きなければならない。これは、マリアの望んだことではない。神によって恵みとして与えられた人生なのである。

 年若きおとめにとって何とむごい人生であろうか。

 しかし、マリアの時代、シングルマザーの道は赦されないだろう。マリアは姦淫した女として、死を宣告され、石打の刑に処せられる定めがある。 彼女は、詩編34編20節の詩人のごとく、「主に従う人には災いが重なるが主はそのすべてから救い出し骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。」と神に信頼するのです。

 神さまの冒険

 マリアが、み使いの恵みの招きをうけているとき、神さまは何をされていたのか。神さまは、その働き、その歩みをマリアのうちで、その胎にやどる胎児から始めようとなさる。それは、一番弱い人間の姿である。マリアが姦淫の罪で訴追されるならば、その子の命は危険にさらされる。何故、神さまは、そんな弱い姿で、社会的弱者であるおとめマリアに我が子を託されたのだろうか。常識的に考えれば、とんでもなく、危険な冒険である。マリアの胎内に我が子の命を託す神さまの思いはいかばかりか。そして、救い主は自らの命をか弱きマリアに託してこの世に誕生するのである。

 救い主として立たれる神の子イエスは、このような主である。 主は、彼に父ダビデの王座をくださり、彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない、とみ使いは云われた。

 

この世の支配と言えば、力と権力で圧迫する支配である。トランプ大統領のエルサレムをイスラエルの首都と認める自己の利益のみを追い求める署名は、中東地区の危うい力のバランスを崩す力となり、再び、争いに力を貸すことになる。

 既に、各地で抗議デモが起きており、主イエスの生誕地ベツレヘムでも死者がでている。平和を希求すべき聖地が騒乱の地となろうとしている、天においても、地においても悲しむべきことである。

主イエスの支配はさにあらず。

 マリアの胎内に宿り、幼子として私たちのもとに来てくださる主イエスは、パウロが云うように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 (フィリピ書2章6~8節)とあるように、力ではなく愛で、権威ではなく謙虚さをもって支配される。

 万軍の主なる神は、力ではなく、愛と謙虚をもって支配するべく、か弱きおとめマリアに我が子を託したのである。

 神の言葉は必ず実現する。

  み使いのマリアに対する言葉は、「神にできないことは何一つない」

であった。このギリシャ語を原文とおりに訳すと「どんなことも神の側からは不可能ではない。どんなこと、どんな出来事と訳されたレーマは、言葉という意味があり、そうとれば、「神の約束は決して果たされないことはない」となる。イザヤ書ではこう言われている。

55章11節等、 (そのように、)わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。

「55:9 天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。55:10 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。

55:12 あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく。55:13 茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない。」

 一度発せられた神の言葉は、かならず出来事となり実現する。それは、困難や試練があっても必ず実現するのです。

マリアは、自分の生涯を一貫して神に委ね、イエスの出来事を心に受け止め、イエスの十字架の苦難、贖い、救いを見届けたのでした。