日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.12.24「飼い葉桶の救い主」

Posted on 2017. 12. 25, 牧師: 藤田 穣

聖書 ルカによる福音書2章1~7節
 02:01そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 02:02これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 02:03人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 02:04ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 02:05身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 02:06ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 02:07初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 クリスマスの縁
 今月、日本ハムの大谷翔平選手が、メジャーへの移籍が決まった。エンゼルス入団の一報に、ビリー・エプラーGMは、驚きの余り椅子から転げ落ちたという。入団の理由について聞かれた大谷選手は、エンゼルスに縁(えにし)を感じたという。大谷選手が候補として挙げたのは、米国西海岸の7チームであった。しかし、彼が直接球場まで足を運んだのは、アナハイムのエンゼルス・スタジアムだけであったという。
 そんなニューがス入った頃、毒舌で知られたサッチーこと、野村沙知代、野村克也元監督夫人の死去の知らせがあった。おしどり夫婦と云われた二人は、監督35歳、夫人38歳の時にたまたま入った喫茶店で席を同じくして、監督が一目ぼれしたという。沙知代夫人にどんな仕事をしているのか聞かれた時、監督は、雨の日には休みになる仕事と云い、夫人は、土木工事の仕事をしている人かと思ったという。夫人は野球に対する関心がなかった。しかし、監督は、話に自然に溶け込み、その場の空気が心地よかったと語っている。そのとき二人は共に既婚者でダブル・不倫になってしまった。すべてを清算して結婚したのは3年後でした。世間では、恐妻家、毒舌のサッチーと言われるが、家ではやさしく尽くしてくれたと監督はベタ褒めであった。この二人の絆も不思議な縁に導かれているのかも知れない。
少し変わった導入になったが、このクリスマス礼拝に出席された方も不思議な縁につながれている。ここにクリスマスを祝うために集まっている方々は、血縁でも親戚でもない。元は赤の他人である。クリスマスの縁、イエス・キリストの縁でここに集まっている。長い方々は、45年間もこの教会で私たちとクリスマスを共に祝っている。イエス・キリストとの不思議な縁において、共に生き交わりをしている。今朝は、ここに集められた不思議な縁のなかでこのクリスマスを喜び、祝っていることを覚え、感謝したいと思います。

 救い主の誕生
 救い主がユダヤのベツレヘムで生まれるという予言は、BC8世紀に活躍した預言者ミカがミカ書5章1節以下で、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者だが、イスラエルを治める者が。お前の中から、わたしのために出る。その出ることは、昔から永遠の昔からの定めである。」(ミカ書5章1節・新改訳)
 同じ時期に活躍したイザヤも、イザヤ書7章14節で、「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエル(神が共におられる)と唱えられる。」(イザヤ書7章14節・口語訳)と預言しました。 
それから約800年後の世界、ユダヤを含む地中海諸国は、ローマ帝国によって統一されておりました。ローマ皇帝アウグストゥスは、支配していた地中海諸国から、税金を集めるために、諸国に「住民登録をせよ」との勅令をだしたのです。
アウグストゥスが皇帝に在位したのは、BC31年~AD14年までです。そして、聖書にあるキリニウスが、シリアの総督であったときは、BC6~4年、AD6~9年の2回でした。最初の住民登録とありますから、BC6~4年の間ということになります。ここから、イエスの誕生は、BC4年と云われます。
税金の徴収は、権力者の証かも知れません。日本でも、豊臣秀吉が天下を取った1582年、「太閤検地」として、全国各地にわたり、税金・年貢米徴収の基礎となる田畑の検地を1間四方を1歩、300歩を1反としてそれを、4段階の等級に分け、米の生産量、石高を算定し、当時の税金、年貢米の負担、納付の基本としたのでした。
ローマ皇帝の勅令ですから、出頭命令のようなもので、自分の都合を理由に断ることはできません。それぞれが、自分の本籍地に行って、登録しなければなりません。ヨセフとマリアは、ナザレからヨセフの本籍地ベツレヘムまで、120KMの道を行かねばなりません。その道の大半が荒れ地で、「良きサマリア人」のたとえに出てくるように強盗が旅人を襲うこともしばしある危険な道でした。しかもマリアは、身重でした。2006年に制作された映画「マリア」で、身重のマリアは、ロバに乗っていました。やっとの思いでヨセフとマリアがベツレヘムに着いたとき、すでに夜も遅くなっていて、泊まれる宿屋は、1軒もありませんでした。映画によれば、街外れの家畜小屋として使われていた岩屋に落ち着いております。
彼らがベツレヘムに滞在しているうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである、と聖書にあります。
 神の御子が人類の救い主として、天の御座からこの世界に来てくださったのに、このおもてなしは何としたことでしょう。旅人が泊まるところは宿屋です。それなのに、私たちの救い主の宿は、家畜小屋、御子イエスが寝かされていたのは、飼い葉桶のなかでした。
 予言者ミカは、救い主が生まれるところは、エフラタのベツレヘムと云いました。ベツレヘムには、「パンの家」という意味があります。エフラタは豊かなですから、豊かなパンの家です。そのベツレヘムのはずなのに、この町の宿屋の1軒すらも、その客間に御子イエスを迎え入れてくれなかったのです。
 この町は、物質的には豊かだったのかも知れませんが、その人々の心は貧しかったと言わざるを得ません。
現代の私たちはどうでしょうか。クリスマス、クリスマスと大騒ぎをしておりますが、一人一人、この心にイエス様を迎え入れる用意をしているでしょうか。そこには、イエスの入る場所がなかったということになってはしませんでしょうか?もう一度、問いたいところです。
クリスマスは、イエス様の誕生を喜び祝う祭りの時です。イエス様を私たちの心の中に迎え入れるお祝いです。どうか、一人、ひとり、喜んでイエス様を迎え入れる時といたしましょう。

 ローマ皇帝と
 ルカは、主イエスの誕生を権力の塊であるローマ皇帝との比較において描こうとしております。同じ王であるべきなのに、主イエスは、王宮で生まれたのではなく、飼い葉桶の中なのです。飼い葉桶の中の王は、天より低きに下り給う王なのです。しかも、この幼き王は両親の庇護なくして生きられない小さき、弱い存在なのです。マタイによる福音書では、ヘロデ王が自己の身に危険な存在となる救い主の誕生を恐れ、ユダヤの2歳以下の幼子を殺したとあります。幼きイエスは、両親と共に難を逃れ、エジプトに退避を余儀なくされました。この世において、イエスの誕生は歓迎されなかったのです。
 ヨハネによる福音書には、「言(神の子)は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」とあります。 救い主の誕生、受肉の中にこの世の拒絶のテーマが秘められています。 東方正教会のイコンに描かれたイエスの産着に亜麻布が描かれている。亜麻布は、死体をくるむものです。それは、十字架の苦難を意味しているのです。

 神さまは、何故、このローマ帝国の時代に我が子を救い主として誕生させたのであろうか。神が選ばれたのは、ローマ帝国全盛の時代です。ローマのオクタビアヌスによって、地中海世界が統一され、全ての道はローマに通ず、パクスロマーナ・ローマの平和と呼ばれた200年続くローマ帝国の時代でした。オクタビアヌスは、元老院から尊厳者・アウグストウスの称号を受け、以後、ローマ皇帝を象徴する称号として使われました。そして、皇帝を神格化し、皇帝礼拝さえ民衆に強要したのです。それが、後の、ローマにおけるキリスト教徒迫害につながるのです。
 皇帝アウグストゥスの、圧倒的な軍事力、経済力、知力によりローマの平和は築かれた。住民登録は、先に述べたように、占領された国を支配するための税金徴収でした。
 この力による平和の築かれた時代に、神は、飼い葉桶の中に御子を嬰児として、誕生させ、福音を告げ、十字架の死に障害を成就させたのです。なぜ、神の子は、小さく弱い存在として誕生したのでしょうか?私たちは、飼い葉桶に生まれた御子をいかに受け止めるか、問われます。
皇帝アウグストゥスが圧倒的権力によって、ローマの平和を謳歌しているとき、ユダヤの片隅で、神の御心により、飼い葉桶の中に誕生したのです。ルカ2章14節、御使いは、「地には平和、御心に適う人にあれ。」(神を喜び給う人々に、平和があるように)と歌いました。それは、神の平和による支配の象徴でした。

真の支配とは。
 人口調査の勅令に支配されたユダヤに、皇帝崇拝が強要された時代に、救い主は、アウグストゥスではなく、飼い葉桶のイエスこそ救い主であるとの狼煙がユダヤの片隅で揚げられたのです。飼い葉桶の救い主は、神の子のへりくだった姿に他なりません。即ち、神が自らをへりくだらせ、僕の形を持って仕える救い主の姿でした。上からの支配でなく、十字架の死に至るまで他者のために仕える僕の道が示されました。パウロは、「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ書2章6~8節)と証しております。
 ここには、現世のこの世の力による支配と愛と憐みに基づく僕として仕える神の支配の相違、対立がある。この後のルカ福音書2章22節以下のイエスの宮参りの時に老シメオンがマリアに告げた、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」に示される。
 クリスマスは、イエス・キリストを通して現された僕として仕える神の愛と憐れみによる平和を示すのです。イエスの少し前に生まれたバプテスマのヨハネに対し、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(ルカ福音書1章76~79節)との言葉が与えられております。 この神の愛と憐れみは、マリアの讃歌にも示されている。「御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(1章49~53節)小さき者、弱き者に神の憐れみが注がれることを示します。それは、神の憐みは、全ての人々がを神の前に平等に、平和に生きることを求めるものでした。
 アウグストの力によってもたらされたローマの平和は矛盾に満ちていました。その権力を経済力を支えたのは、その支配下にあった被占領国であり、当時、労働力とされた奴隷たちでした。同じ人間なのに奴隷は、人格さえ否定された差別と格差の象徴でした。
翻って、現在の世界もはどうでしょうか?世界は力による平和を求めています。水爆、大陸間弾道弾による核保有国としてその存在を認めさせようとする北朝鮮は、飢餓の中にある国民の犠牲によって、核開発をを進めています。米国のトランプ大統領は、力による平和を進めようとしております。同盟国である我が国もそれに追随している感があります。
 このような世界で、私たちは、何のために、誰のために生きるかを問われております。力の世界は、その平和は、差別と格差を生み出すことをローマ帝国の歴史は証明しております。
へりくだられた神の子の誕生、クリスマスは、全ての人々が神の愛と憐れみのもとに互いに僕として仕え合うことを求めております。飼葉桶の中の幼子は、世界の歴史を変えました。仕える僕としてのへりくだりが神の愛と憐れみによる平和の支配の始まりであることが、告げ知らされたのです。私たちも、飼葉桶の神の支配の中にこの身を委ねねばなりません。飼葉桶に表される僕としての神の愛と憐れみの中で相和し、神を喜びとする、この地上の平和の実現に、私たちも参加せねばなりません。