日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.5.14「人は神に似せて造られた」

Posted on 2017. 5. 15, 牧師: 藤田 穣

聖書 創世記1章26~27節、2章4~7節
 01:26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 01:27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
 02:04これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、 02:05地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。 02:06しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。 02:07主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

母の日の由来
今日の日曜日は、母の日ですね。皆さんは、お母さんにどのように感謝を表していますか? 現在の母の日が最初に祝われたのは、1908年、今から110年前のアメリカ東部ウエストバージニア州のメソジスト教会でした。牧師の娘として生まれたアン・ジヤーヴィスは、南北戦争後、母親の健康衛生向上のためのクラブを造り、すべての母親を讃える日の制定を望んだが、果たせないまま天に召された。娘のアンナは、母親の志をついで、母親に感謝する母の日の制定に努力した。母の日を定めることは、両親への尊敬の念を高め、家族の絆を強くすると制定運動を展開、その努力が実り、すべての母親に感謝する礼拝が捧げられた1908年5月10日、アンの命日に一番近い日曜日、アンナの両親が設立に尽力したウエストバージニア州のメソジスト教会で行われました。 
アンナは、母親の好きだった白いカーネーション500本を贈った。カーネーションの花言葉は、愛、純粋さ、忍耐強さ、白い花には、尊敬の意味がある。そして、カーネーションが母の日のシンボルとなった。その後、元気に頑張っているお母さんには、赤いカーネーション、亡くなったお母さんには白いカーネーションという習慣が根付いた。その後、1914年、アメリカの国民の記念日となった。
日本でも明治時代の末に、キリスト教会で始まり、1913年、青山学院大学の米国人宣教師によって母の日の礼拝が捧げられた、昭和に入り、森永製菓が母の日大会を開催したことで日本でも広まりました。戦後の1949年、米国と同じ5月の第2日曜日が母の日として祝われるようになりました。あまり知られていませんが、5月5日のこどもの日は、国民の祝日に関する法律のなかで、子どもの幸福をはかるとともに、母に感謝することが、その祝日を決めた主旨となっています。
私たちは、お母さんのお腹から生まれてきました。聖書によれば、神さまが私たちの遠い先祖の人間を土の塵から造られたとあります。神さまが、何のために、どのように、私たち人間を造られたかを学びましょう。

人間が造られる
神さまはお造りになった世界を楽しそうにご覧になって言われました。「空や海、山や野原、川が出来た。木や草や花もできた。魚や鳥や獣もみな元気に遊んでいる。にぎやかになった。」神さまはこれらを見て良しとされた。そうだ、わたしに似た人間を造ろう。わたしの言うことがよくわかって、わたしの造ったこの世界を守らせるために、人間を造ろう」
神さまはわたしに似ているように人間を造ろうと云われました。まず、土で人の形を作って、その鼻にフーッと息を吹き込みました。すると、土でできた人の形に神さまの命の息が入って、息をして生きる人間が生まれました。この人は、アダムと呼ばれる最初の人間でした。神さまは生き物の最後に、人間を特別にお造りになりました。どんなところがほかの生き物とちがうのでしょうか。神さまがご自分に似せて造られたことに意味があります。
それにより、わたしたちは、神さまを信じて礼拝することが出来ます。神さまにお祈りしてお話しすることができます。動物や植物はお話したり、お祈りしたりしますか?それはないですね。わたしたちは、神さまとお話しする特別な心を持っているのです。それから、わたしたちは、これは良いことかな?悪いことかな?と考えることができます。また、周りの人と仲良くし、大切にする心を持っています。よく考える頭も、人を好きになり、愛する心も神さまが与えてくださいました。色々なことを知っており、私たちを愛してくださる神さまのDNA(遺伝子)を引き継いでいるかのようです。神さまに似せて創られたからです。

アダムの仕事
アダムは、エデンの園というところに住みました。きれいな川が何本も流れていて、緑の木々に囲まれた美しい場所でした。アダムは、この園で畑を耕す仕事を神様から任せられました。アダムはここで土を耕したり、動物や鳥たちに名前を付け、世話をしたり、園に生えているおいしそうな木の実を食べたりしていました。ある日、神さまはアダムが一人で色々なことをしているのをごらんになって、「人がひとりでいるのは良くない。アダムも一人ではさびしいだろう。そうだ、アダムと助け合う相手を造ってあげよう。
神さまは、アダムがぐっすり眠っている間に、アダムの体からあばら骨を一本取り出して女の人をお造りになりました。この人の名前は、エバと云います。眠りから覚めたアダムは、エバを見て、「きみに会えてうれしい」と大喜びしました。今までいつも一人で寂しい思いをしていたアダムは、もう寂しくありません。アダムは、心から感謝しました。そして、アダムとエバは結婚しました。二人はエデンの園で話したり、助け合ったり、楽しく暮らしました。
神さまはこの世界に大勢の人が増えるようにしてくださいました。人は、いつも神さまのお言葉を聞いて、助け合い、神さまがお造りになった世界とすべての生き物が平和に暮らせるよう望んでおられます。
世界中の人がみんな仲良く助け合って、神さまに喜ばれるようになっていけたら良いですね。
                       子どもの礼拝  終了

聖書研究的になるかもしれませんが、2~3のことに触れます。
神の形に似せて創られた
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」何故、我々なのか。聖書の神は唯一神ではなく、多神教の神ではないか?不思議な文章に見える。北森嘉蔵先生はこう説明される。夏目漱石の作品に「吾輩は猫である」という有名な文学作品がある。この吾輩の輩(やから)は、複数なのです。あの猫は、自分に敬意を表させたいと思う訳です。人から敬意を表させたいときには、ただ、「我」と云わずに「吾輩」という表現様式をとるのです。これを、畏敬複数・威厳を示す複数と云います。ヨーロッパでは、王が勅令をだすときに、「我々」を用います。
また、古代イスラエルの研究者 石田友男先生は、熟慮の複数に言及しています。熟慮のとは、自問自答ということです。神はここで、自分自身に、ご自分の決心を語ったのです。人間の創造は、それほど重大なことだったのです。
古今、畏敬や威厳を示す場合には複数形をとることがあり、また、自分自身に語り掛ける熟慮の複数という複数形としての「我々」が、ヘブライ語の用法にあるということなのだそうです。
原文 我々の形(像)に、我々に似せて人を造ろう。このことを神の像(ラテン語:Imago Dei)と云います。神の似姿、神を映すものと云います。神の似姿と云っても、人間の風貌、肉体が神に似ているということではありません。偶像を否定するユダヤ人は、何であれ、神の姿や神の彫像を描かなかったのですから…。似姿とは何か。人間には神と応答し合うことが出来る人格があり、それゆえに、神に類似した尊厳があると解釈できます。
 もう少し、我々のかたち、似たようにという言葉を吟味しよう。
神は、ご自分のかたちに人を創造された。ツエレムとデムート ツエレムは、形が元の原型と同じ、コピーという言葉になります。デムートは類似性を意味する。昔は、人間を肉と霊に分けて考えたが、20世紀の旧約学者たちは、神の似姿とは人間の霊肉全体と解釈しています。
20世紀最大の神学者バルトは、神の似姿とは、「神から語りかけられる汝としての、また、神の前に応答責任を持つ人間わたしの性格」と言ってます。
それは、神の前に、神と対面し応答できる人格の関係と云ってよいでしょう。神の形とは人格ということです。人格とは愛することのできるものと言い換えられます。この人格を神と人間だけが持っていて、他の生物は持ち合わせません。この人格において、神さまと私たちは、「我」と「汝」の関係にあり、同じ人格を持つ人間同士も「我」と「汝」として交わり、愛し合うことが出来るのです。
また、旧約学のフォンラートは、神の似姿とは、生き物を支配する地上における神の代理者としての人間の姿を指すという。神が人間に語り掛けられたのは、ここにある、生き物を支配せよ、であり、その命に服することが人間の神への応答責任である。
神から支配を委託された被造物損ない、交わりの愛に反する環境破壊こそ、神の代理の応答責任を損なうものである。現代の世界はこのことを厳しく問われている。人類は、自然破壊や戦争による破壊、地球温暖化の進展について責任を持たねばならない。

神の像(イマゴ・ディ)としての人間、人間が神にかたどって造られたとは、外面的な姿、形が神に等しいということではない。神の像としての人間は、生物・動物の種でありながら、神に似て、自らを知り、自らの意志で行動することが許されている。人間は、自分が何か、どう生きるかを問うことができる存在である。自分の存在根拠を尋ね求めることができる。
イマゴ・ディの思想は、被造物のなかで、人間のみが神から呼びかけられ、神に応答する責任を負うものである。人間は、神に対し、我と汝の関係にあり、人格的関係なのである。
神の似姿・イマゴ・ディに造られた人間は、神とは違う。詩編8篇5節で「少しく人を神よりも低くった」とあるが、神と通じる部分があるから、神と交わること、神と語り合うことができるのだ。
ヨハネ福音書4章24節で、主イエスは、神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
3世紀の神学者オリゲネスは、神は「息吹である」と訳しました。霊(プニューマ・ギリシャ語)は、「息吹き」「風」とも言います。現代の神学者パンネンベルグは、「神は我々の人生を吹き抜ける息吹きである。すべての命を吹き抜ける、真理と自由の源です。聖霊は自由に働きます。聖霊は、見えませんが風のように力があります。それは、命の源、生命力そのものです。眼に見えなくても動かすことのできない真実です。
 人間はその鼻から神の息を吹き込まれて命ある、生きる者となったのです。
 人間は、神から「汝」と語りかけられる、応答がゆるされる存在、神からこの地上を守る使命を与えるべく造られた存在です。神の命を受け継ぐ存在、霊なる神の働きに応えてゆく存在として、信仰として、この事実を受け止め、応答して行くことが求められているのです。

人は土から造られ、男と女に造られた。
人間は大地の土の塵から創られた。神さまは、天地を「光あれ」と言われ造られました。最近の物理学では、光は、物質の源、最小のものです。神は、その言葉において、光あれ、と最も小さな物質を造られたのです。しかし、人間は、無から創られたのではありません。神さまが造られた土の塵という物質から創られたのです。そのことは、人間が、自然法則にしたがうものであることをも意味します。
 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を造った。その鼻に命の息を吹き込み人はこうして生きる者となった。土の塵から造られた。ここに、人間が他の動物と異なるところです。息を吹き込まれた、息のヘブライ語ルアハは、霊と同じです。人間には、神の霊が与えられているのです。人間が生きるのは、神の息、霊を吹き込まれて生きているのである。人間は本来、神によって生かされている存在なのだ。
 人が一人でいるのは良くない。彼に会う助ける者を造ろう。 02:19主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 …だが、自分(アダム)に合う助ける者は見つけることができなかった。
  神がアダムと同様に土から動物を造ってアダムの所に連れてきたが、アダムにあう助ける者が見つからなかったのです。神様のなさったことが失敗したのです。最後の手段として、アダムを手術して、その体から助ける者を造られたのでした。
 人間が一人孤独で生きることは、神の創造の意志にかなっていない、不完全ということなのです。この助ける者は、何か、助手のように聞こえますが、助ける者の原語のエーゼルは、私たちの助け主、神をさすことが多い。詩編121篇「目を上げて、わたしは山を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。詩編33篇20節「主は我らの助け、我らの盾」という使われ方をしている。こう考えてゆくと、男と女は互いに助け合って生きる相手、パートナーであることを意味するのです。
 人間は、本来、神との関係に生きる、我と汝の関係でお互いに呼び合い,応えあう人格的関係にあります。人格を持つ人間同士、男と女においても同じなのです。
 主なる神は、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むとあばら骨の一部を抜き取り、肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げた。主なる神が彼女をアダムの所に連れてくると彼は大いに喜んだ。ついにこれこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉、これこそイーシャ(女)と呼ぼう。イーシュ(男)からとられたのだから。
人の創造の背後にあるのは、神との交わりの愛の実現にある。その端的な映しとして、互いの交わりにひかれあう男と女がある。その深いつながりを現す言葉に骨肉という言葉があります。血のつながりを意味する言葉ですが、アダムがエバを骨の骨、肉の肉と呼んだところに意味があります。それは、親兄弟をあらわす骨肉の最上形です。この男女の関係は、鎌倉・室町時代に使われた為替証書、割符に例えることができる。一つの木片の中央に証拠となる文字、証印を押したのち、この木片を二つに割り、後で合わせたときにぴったり合えば、その二つの木片がもとは一つであった証拠になる。
一人の人間アダムから造られたエバは、元来、一つの体を二つに割った片割れだから、合わせて一つの体になるのだ。 こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
 アダムが女にエバ(命)という名前を与えたことの意味は奥深い。