日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.5.28「あなたがたはこれらの証人となる」

Posted on 2017. 5. 29, 牧師: 藤田 穣

聖書 ルカによる福音書24章44~53節

 24:44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 24:45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 24:46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 24:47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 24:48あなたがたはこれらのことの証人となる。 24:49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 24:50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 24:51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 24:52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 24:53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 94歳になる恩師

今年、昭和27年度(1952年)卒川上小学校同窓会の幹事を承った。同窓会の件で、近く94歳を迎える恩師に電話をしました。「藤田ですがわかりますか?」「はい、藤田さんね」、10月に同窓会を行いたいと言うと、「そう、あなたがたは、今年、喜寿(77歳)よね」と言われた。さらに話を続けると、「昨年の同窓会、挨拶に来たK君のこと思い出せなくて悪いことをしてしまった。彼、今も気にしているわよね」と言われた。わたしは、彼はしばらくぶりに出席したのではと言うと、「一昨年も出席していたわよ」という。先生という職業は、因果なもので、道端で教え子に出あって、名前を思い出せなかったら失格だと前に、神学校の恩師から聞いたことがあり、「先生は、いつまでも大変ですね」と告げた。恩師は、思い出せなかった一人の生徒のことを今も気遣っているのだ。昭和27年というと今から65年前のこと、6月で94歳になる恩師の記憶の中に我々は生きている。これほど教え子冥利に尽きることはないと思った。

イエス・キリストほど私たちを含め多くの一人一人を気遣っている人はいないだろう。今朝は、イエスの遺言ともいうべき箇所を学ぶ。

旅空に歩むイエス 

新約聖書学者の三好廸(みち)先生は、ルカによる福音書の研究者ですが、ルカ福音書の注解書の副題に「旅空に歩むイエス」(日本基督教団出版局)とつけました。

 イエスが神の国の福音を伝えた公生涯の3年を考えると、一か所の町にとどまらず、弟子たちとともに、色々な土地を旅をしいろいろな出会いをしました。三好先生によるとイエスの生涯をしるしている4福音書のなかで、ルカ福音書の著者ルカは、イエス・キリストの生涯を「旅」という枠組の下で描き出そうとしているということです。

 それによれば、イエスの旅は、ルカ福音書4章16節以下の場面から始まるといいます。 この箇所を読みます。新約聖書の107頁です。

 04:16イエスはご自分のお育ちになった故郷ナザレに来て、安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 04:17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18節、19節は、イザヤ書61章1~2節と58章6節が引用されている。イザヤ書には、こう記されている。「61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め …悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折る とある。

これが、ルカの引用では、04:18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 04:19主の恵みの年を告げるためである。」 となる。

04:20イエスは巻物を閉じ、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 04:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 イエスは、旧約聖書の約束の実現として、ご自分と共に神の国の到来を告げておられるのです。イエスは、 このイザヤ書の言葉を引用して、ご自分がこの世に遣わされた使命を宣べておられる。わたしが遣わされたのは、人々に「解放」と「自由」を与え、主の恵みの福音を告げ知らせるためである。と述べています。

聴いていた人々はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いたが、気に入らなかっとあります。「この人はヨセフの子ではないか。(大工の倅ではないか)」04:23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」

人々は、自分の気に入るようなイエスを求めます。 故郷の人々の、「あなたが神の子なら、ここでも奇跡を行ったらどうだ」という声が聞こえてきます。04:24イエスはきっぱり言われます。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。イエスの経歴や父親の職業を気にする故郷の人々には、神の恵みの真実の意味が分からない。ところが、信仰がないといわれた異邦人が神様を信じたと、エリヤの故事、エリシャの故事を通して語ります。異邦人であっても、謙虚に神さまを信じたことによって、そこで奇跡が行われ、恵みを受けたのでした。

その謙遜は、神の民と自称するユダヤ人にも求められるものです。ユダヤ人は、アブラハムの子孫だから自分たちは、神さまから恵まれ、赦されており、正しいのだと自負していたのです。

 イエスの説教に感銘を受けたはずの故郷ナザレの村人たちが、イエスの出生を思い出し、イエスから異邦人のような謙虚さを迫られると一転して、イエスに対し、憤慨し、山のがけまで連れてゆき、突き落とし殺そうとしたのです。 

危うく難を逃れたイエスさまは、この時から故郷を離れて、カファルナウムのペトロの家を起点に、「旅空を歩む」人生を踏み出すことになったのです。

 イエスさまのこの後の生涯は、ここで宣言された「解放」と「自由」「主の恵みの福音」を、苦しんでいる人、悲しんでいる人、虐げられている人に告げ知らせるための旅となりました。しかし、この使命は、最初から故郷の人たちに理解されなかったように、この後も、絶えずイエスさまを殺そうとする動きが、その十字架の死に至るまで続くのです。その中で、恵みの福音を宣べ伝え、病める人を癒し、悲しむ人々を慰めたのでした。

 この旅が終わる時がやって来ました。それが、イエスの十字架の死でした。イエスの死体は、墓に納められ、その墓を閉じる大きな石に塞がれ、終わったかに見えました。しかし、復活したイエスさまは、エマオ途上の弟子たちのもとに歩み寄り、再び、先へ歩みを続けるのです。

 今日の箇所は、そのような復活のイエスが弟子たちのもとに姿を現され、自分の地上での旅の終わりをつげ、遺言としてその旅のバトンを弟子たちに託すのです。その弟子たちの旅物語りをルカは、使徒言行録として書き続けたのでした。

イエスさまは、その使命を弟子たちに託すべく遺言を述べられます。 24:44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 24:45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 24:46言われた。  イエスさまが、一緒に旅をした3年間、当時の聖書、モーセの律法、預言の書、文学としての詩編等を通して教えられた。それは、聖書を悟らせるためであった。悟るというのは、ただ知識として理解することではない。心から納得するということです。

 わたしたちも毎週のように、聖書の色々な個所を学んでいます。そこから得る知識については、相当なものでしょう。しかし、それが心から納得したものとして、血となり、肉となり、本当に自分のものになっているでしょうか?なかなか御言葉が自分の中に根をはるまでにゆかないのではないでしょうか。

 イエスさまは、悟らない弟子たちの心を開かれます。この心と訳されたギリシャ語は、感情を受け取る心というよりは、理性、理解力、判断力という言葉です。本当に頭で理解する、分かるということです。信仰者は、聖書のプロとして、聖書を、御言葉を理解しなければならない。最も大事な真理、等しく聖書が語る、神の救いについて分からなければ、悟らなければなりません。

聖書の言葉、救いの福音に心を開かねばなりません。日々、新たな思いをもって、神さまのことばに、思いに心を開き、新たな思いを受けて生かされなければと思います。

 わたしたちが、心を開く内容が、46節以下にあります。 イエスは、言われた。「聖書(旧約聖書)の伝承によれば、『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 24:47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 24:48あなたがたはこれらのことの証人となる。

 エルサレムから始まって、ユダヤ人だけでなく、もろもろの国の人々に対して、あなたがたは、これらのことの証人となる。ガリラヤからエルサレムまでしか旅したことのない、弟子たちにこう言われたのは驚くべきことだったでしょう。

 証すべきこれらのこととは何か。すなわち、キリスト・メシアは、十字架の苦しみを受け、三日目に復活する。キリストは、十字架に架けられて、死に渡されますが、それで終わりではありません。キリストは、死の床から起き上がり、死者からの復活の初穂、初めとされたのです。これらのことは、十字架の受難と復活だけでなく、ここに罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝えることが含まれています。弟子よりも前に、罪の赦しを宣べ伝える者はだれか。キリストの受難と復活によって救いを実現させた神ご自身とみるのが自然です。

神は、私たちの罪の身代わりとして死んだイエスを死者の中から起き上がらせたことによって、私たちの罪を完全に許されたのです。私たちの悔い改めよりも前に、神が私たちの罪を吹き払い、神へと立ち帰るように呼び掛けておられるのです。

 神は、ご自分の道を外し、ご自分に反逆する人間の罪を一方的に許し、創り主なる神に立ち帰れと呼びかけているのです。この呼びかけをイエスの死と復活において証するのが弟子たちの託された使命です。

 しかし、弟子たちだけで証するのではありません。イエスさまが約束されたもの、高いところからの力、つまり、聖霊が共に働いてくださるのです。使徒言行録1章8節の昇天の記事では、「01:08あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」とあります。 あなたがたに聖霊が降るとき、人は変えられ、神の力によって動かされるのです。イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 24:51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。これが昇天です。使徒信条で、「キリストは天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」と告白し続けています。昇天がなければ、イエスは一人の人間でしかない。昇天されたキリストこそ、神の子が人間としてこの世界に生まれ、全ての業を成し遂げられ、天に帰る昇天において真の神となり給うのです。

 ヨハネ福音書16章7節では、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」イエスが聖霊成る弁護士をくださることによって、私たちを守ってくださるのです。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とマタイ福音書28章20節にある通りです。

 主イエスは、昇天にあたり、弟子たちに「さようなら」とは言われません。いつまでも私たちと共にある、聖霊において働いてくださるのです。

 そのイエスは、弟子たちをベタニアあたりまで連れてゆき、手を上げられ祝福されたのでした。・

 

 使徒言行録の昇天の記事は、「01:09こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲が来て彼を運んで行ったので、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 01:10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 01:11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。?彼らは空を見上げていたのであろうか?イエスは、空の彼方へさっていたのであろうか? 聖書は、天が神だとはいってない。デトレフ・ブロック牧師は、「神は天にいるのではなく、神のいるところが天である」と云っております。天使は続ける。天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」 と約束する。 使徒信条で告白した「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁き給わん。この告白が、キリストが再び来られるとの約束の上に置かれているのである。

 イエスが、手を上げられたのは、祝福のためであり、祈りでもあります。イエスの手が天と地を結び合わせるのです。イエスの姿が見えなくなったとき、二人の白衣の天使が、「天に挙げられたイエスは、天に行かれたのと同じ姿で地上に来られる。イエスがこうして再び来られるという信仰、再臨の信仰が初代教会の人々の一般的信仰になりました。

 イエスは今もなお生きて働いておられる。13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのなく(ヘブライ人への手紙13章8節)働いておられる。御言葉を通し、福音の教えを通し、聖霊を通して働いておられるのです。イエスは、今も生きておられる。私たちは、2000年前の弟子たちと同じように、否、それ以上に、明らかに、イエスを見、イエスに聴き、イエスに教えられ、励まされるのである。キリストは、私たちの内に働いておられる。現代に生き、将来に働き続ける、私たちの人生に寄り添って生きてくださる。

韓国系のある教会は、21世紀の使徒言行録を書き記すといっている。今までの2000年の教会の歴史も然りである。キリストの証人として歩む、私たち現代の信仰の旅人もその一端を担っているのだ。私たちは、この教会の45年の歴史のなかで、福音の種まきをし、わたしたちの使徒言行録を紡いでいるのではないか?その上に立って私たち一人一人は、いかなるキリストの証人としてその人生を歩むのか。救いの歴史がそれを問うている。

 弟子たちは、天へとあげられてゆくイエスの姿を伏し拝み、大喜びでエルサレムに帰ります。この喜びに包まれた弟子たちは、神をほめたたえながら、神殿で約束された聖霊の降臨を待ち望むのです。