日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.6.18「悔い改めの洗礼」

Posted on 2017. 6. 19, 牧師: 藤田 穣

聖書 マタイによる福音書3章1~12節
03:01そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 03:02「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 03:03これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」 03:04ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 03:05そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 03:06罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 03:07ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 03:08悔い改めにふさわしい実を結べ。 03:09『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 03:10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 03:11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 03:12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

通常国会終了
通常国会が終了した。重要法案が審議されたが、内容のある討論はされただろうか。残念ながらそれにほど遠い。安倍一強体制のなかに驕りと緩みがみえる。国会の前半は、森友学園、後半は、過計学園問題に終始した。盛蕎麦、掛蕎麦と揶揄された。蕎麦がのびただけで、中味がなかった。法案を通すことに終始して、きちんとした説明がされないままに、課題だらけでテロ等防止法案可決された。政治家の相手を見下すような不誠実な見せかけの言葉に腹立ちさえ覚えた。官房長官は、1ケ月前の怪文書発言を、言葉のひとり歩きと説明、つい一昨日、撤回するかと質問されたとき、現在の認識でないと突っぱねた。
文科省の官僚は、メールに記載された名前を指摘されたとき、同姓同名の人はいますといって不興をかった。政治家に弁論は大事だが、詭弁のための弁論になっていないか。
拾い上げればきりがない。国会に真実を尽くした審議がないのは嘆かわしい。内閣は、議案を国民が理解できる説明を行わず、数を武器に押し通しただけだ。
私たちの話す言葉は、日本語では言霊という。言葉には霊的な力が宿るという。その人の魂の現れといっても過言ではない。聖書の言葉を学ぶ、私たちは
自らの発する言葉に責任を持たねばならない。その心が言葉が行いとして尽くされねばならない。主なる神ヤハウエは云われた、「我が口よりいづる言も虚しくは我に帰らず わが喜ぶところを成し わが命じ遣りし事をはたさん」
(イザヤ書55章10節・文語訳)

聖書日課に従って、本日の聖書箇所、バプテスマのヨハネから学ぶ。
バプテスマのヨハネ出現の時代は、 旧約の預言者による神の言葉が途絶えて200年、ユダヤの人々は、旧約の外典、儀典を通して神の御心を模索せざるを得なかった。預言者アモス、エレミヤ、ザカリヤをもって語り続けた神は沈黙し給う。この時代、ユダヤは、ローマ帝国の属国となり、ローマの圧政のもとに民衆はあえいでいた。
そんな頃、呼ばわる声が、ヨルダン川の辺に響いた。「悔い改めよ、天の国は近づいた」 その声の主は昔の預言者のごとく、ラクダの毛の外套を着、腰に皮の毛衣をつけていた。彼が洗礼者ヨハネであった。
この時代とはいつ頃だろうか。
ルカ福音書を著したルカは、ヨハネの出現を当時の世界史と結び付けている。
3章1節、皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、とヘロデ大王の息子たちが分割して統治していた。 03:02アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降ったとある。
これは、紀元28~29年、ティベリウスがアウグストの摂政として政治をつかさどった時代から15年とすると25~26年になる。イエスが登場したのが
30歳とすると、イエスが生まれたのは、BC4年頃となる。

洗礼者ヨハネ
バプテスマのヨハネは、祭司ザカリヤとエリザベツ夫妻のひとり息子であり、イエスと親戚関係にあったとルカ福音書は伝える。
ヨハネは、ヨルダン川に現れる前に何をしていたのか。ルカ福音書1章80節は、「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」とあり、幼いヨハネは、死海西北岸のクムラン教団に預けられ、ここで養育されたのではないか」と推測される。 19世紀にクムランの洞窟で発見されたクムラン文書は、イエスの時代を紐解く世紀の発見と云われた。死海の西、その西北岸クムランに、19世紀に発見されたエッセネ派の修道院があり、以来、ヨハネとクムラン教団の関係が俄然脚光を浴びるようになった。
洗礼者(バプティステース)という言葉は、浸す、浸すことによって洗い清める(バプティゾー)という言葉に由来する。ユダヤ人たちは、律法に違反したり、体を汚したりしたときに体を洗っただけでなく、食事の前に身を清めることを厳格に守っていた。ルカ福音書11章37節以下には、イエスはファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。 11:38ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。これが、ユダヤ教の慣習であった。イスラム教もしかり、礼拝の前に身を清めている・
当時、クムラン教団に隠遁していた修道僧たちは、エルサレム神殿を中心とする宗教の欺瞞を厳しく断罪していた。彼らは、この世と隔絶して、厳格な禁欲的な生活を維持していたから、ヨハネの言行とも一致している。この教団では、毎日、水浴が行われ、汚れを洗い清めることも重視されていたことから、洗礼運動にも通じる。ヨハネは、自己の清めと救いのみを求める生活から、自立して、広く民へ救いを呼びかける預言者として、ヨルダンの荒れ野に現れるようになったのであるとみられている。

悔い改めよ、天の国は近づいた
ヨハネが荒野に現れ、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えた。天の国は、マタイ特有の云い方です。ほかの福音書では、「神の国」と言っておりますが同じ意味です。天の国、ここにある「国」と訳された言葉は、「支配」という意味です。ですから、ここでは、天の支配、神の支配という意味です。支配という言葉は、服従という言葉とつながります。神の支配に対し人間が服従すれば、それが、神の人間創造の目的に適うことでありましょう。しかし、神が支配しようとしても、人間は服従せず、神の方を向かずに勝手なことをしていたのです。これが、聖書の云う罪の構図です。
神の支配が近づいているのに、あなたがたは勝手なことをしている。だから、悔い改めて、神の方向を向いた生活をしなさいと言っているのです。
そして、マタイは、説明を加えている。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」イザヤ書40章3節の引用です。70年にわたり、バビロンに捕囚されていたイスラエルの民にエルサレムへの帰還を求める預言者の言葉です。40章の冒頭には、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」とある。捕囚の地バビロンからの解放の福音がかたられているのです。そのような解放の時が来る。その時に備え、道筋を整える、主の道筋、救い主到来の先駆けとして、その道備えをするという訳です。
ヨハネの天の国が近づいたは、神さまがこちらを、我々人間の方を向いてくださった。だから、我々も神に向きなおれ、悔い改めよというのである。
ここでも、神への立ち帰るチャンスとして、悔い改める、自分の生活を180度方向転換する。神の支配に服従する、悔い改めが求められているのです。
マルコ福音書では、イエスにおける神の国は近づいたの発言がある。これはイエス自身と共に到来しつつある、到来したの意味である。
神の国はイエスと共に来られたといっても過言ではない。イエスと共に今も現在する。神は、イエスを通して私たちを向いて下さり、顧みてくださる。神さまは私たちの罪にもかかわらず、イエスに免じて私たちの方を向いてくださるのだ。
さて、このヨハネは、ラクダの毛で作った衣服を身に着け、その腰に革の帯をしめており、その食物はイナゴと野蜜であった。列王記下1章8節に、預言者エリヤの姿について、「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」とあり、このエリヤ像が広くユダヤ人の間に知られていました。マタイがヨハネの姿をこのように説明したのは、エリヤを示そうとしたことに間違いない。のちに、イエスご自身が、「洗礼者ヨハネこそ、来るべきエリヤである」(マタイ福音書11章14節)エリヤは、メシアの先駆けとして再来すると信じられていたのでした。(マラキ書4章5節)
03:05そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 03:06罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 03:07ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た。
何故、大勢の人がヨハネの許に来たのか。私達の聖書にはないが、ほぼイエスの時代当時に書かれたと思われる旧約の続編に第4エズラ書などに、この時代のユダヤ人たちの心象風景が見られるという。第4文書にある祭司エズラは、「なぜ神はイスラエルを助けようとしてくださらないのか」「罪を犯さない人などいない。なぜ神は人間やこの世界をそのようにお造りになったのか」「なぜ一部の義人しか救われないのか。」などと根源的疑問を神に問うています。
旧約学の関根正雄先生は、我々は罪びとである。悔い改めるべし、このままでは我々の側から救いを要求できぬと第4エズラ書を引用している。こういう
気分がユダヤの地に蔓延していたのだろうか。
エルサレムからユダヤ全土から、人々がヨハネの許に来て、己の罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けたのでした。そのなかには、当時のユダヤの指導者であるファリサイ派やサドカイ派の人々まで洗礼を受けに来たのでした。彼らもヨハネを神の使者、預言者として認め、悔い改めの洗礼を受けに来たのでした。
ヨハネは、特に、敬虔な信仰の持ち主こそ、悔い改めよと迫った。では、彼らに何が欠けていたのか。ファリサイ派の人々は、敬虔なるゆえに、自分の罪故に、胸を打ち、罪を悲しんだ。それで良しとした。律法は完全に守ることは人間にできないのです。完全に正しい人はいないのです。パウロも、「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ書3章10節)と云ってます。
ファリサイ派の人々は、100%とはいかないが、これだけ敬虔な信仰生活を送っているのだから、それに免じて赦して下さらなければならぬ。と神に迫っていたのでした。彼らは神の義、神の正しさを知っていた。だから、このままではいけない。一点一画もごまかさずに、律法を守って救われるのだ。そのことを知りながら、最後の一点に甘かったのです。それを見せかけの真実、偽善というやり方でごまかしていたのです。彼らは、罪という言葉が分っていなかったのである。
本来、ファリサイ派、サドカイ派を含めユダヤ人たちが、悔い改めの洗礼を受ける必要はないと思っていました。加藤常昭先生が引用しています。ユダヤ人たちは、「この世の中で地獄に落ちるような罪を犯したとしても心配するな。その地獄の門の前まで来るとアブラハムがいて、『お前はユダヤ人か、お前は地獄に入る必要がない。あっちへ行け』と間違いなく天国に送ってくれる。確実に天国に入れる先祖、アブラハムいるから心配するな。これが、ユダヤ人のなかに蔓延していた信仰でした。アブラハムの子だと思って安心するな。アブラハムの血筋に安住してはいけません。神の裁きの前に立つのは私一人なのです。ヨハネは、警告します。
アブラハムの子を蝮の子らよと罵倒します。誰が迫り来る神の怒りから逃れられるか。あなたが大事にしているアブラハムブランドに何の保証があるか。
同じ発言をイエスも行っている。マタイ福音書23章33節、「蝮の子らよ、どうして地獄の刑罰を逃れることができようか」
03:08悔い改めにふさわしい実を結べ。 03:09『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 03:10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
この石ころからでもアブラハムの子を起こすことが出来る。石は何の価値もありません。その無意味の石から、アブラハムの子を起こすことが出来る。
ヨハネは神がどんなお方かを知ることが重要であると教えるのです。神は、そういう自由をお持ちである。この石ころを、神を知らない異邦人に見立てる人もいます。アブラハムの子だから救われるのか。アブラハムが何故、選ばれたのか。その条件はどこにも書かれていない。神は全く自由にアブラハムを選ばれたのです。アブラハムの子孫に恵みを約束なさったのです。救い主イエスの親に選ばれたのは、普通の村娘マリアであり、一介の大工ヨセフでした。
ヨハネは、あなたがたも石ころの一つに過ぎないと云っているのです。神は、あなた方が美しかったから、賢かったから選ばれたのではない。あなたがたに愛する値打ちがあったから、神が愛してくれるのではないのです。その神の恵みの根源にたって、それにふさわしく生きることが求められているのです。 わたしたちは、自分にふさわしい実をつけるしかありません。
悔い改めて、その印として洗礼を受け。神さまに向きを変えて正しい生活、清い生活をしなさい。10節 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。神の怒りと裁きの言葉が語られます。火は神の最後の裁きの象徴です。
神の裁きの時が近づいている。だから、悔い改めて洗礼を受け、神の方を向いて生活しなさい。 これがバプテスマのヨハネの教え、洗礼運動です。

イエスの洗礼 罪の赦しの洗礼
この後で、11節b ヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 03:12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と云われます。イエスの登場が語られます。 そして、イエスが聖霊と火で洗礼を授けると語ります。
イエスが火をもって来られる。究極の裁きです。良い実を結ばない木は、切られて火に投げ込まれるのです。しかし、イエスは、そうはなさらなかった。
却って、自らを火の中に投げ込んだのです。私たちが神の赦しにふさわしい者となるために、ご自分を火の中に投げ込んで死なれたのです。救いに相応しくない石ころからご自分の子らを起こすためでした。
ヨハネは、神の裁きが近づいている。悔い改めて洗礼を受け、神の前に清い生活をしなさいと教えましたが、イエスは、悔い改めと神の赦しの福音を語られました。私たちが今受けている洗礼は、罪の悔い改めの印であると共に罪の赦しの印の洗礼なのです。ヨハネは、悔い改めまで語りますが、罪の赦しは語りません。これがバプテスマのヨハネの洗礼運動の限界、これが旧約最後の預言者と云われるヨハネの限界なのです。
イエスの福音の本質は、神の怒りと裁きを伝えることでなく、ヨハネとは異なり、神の御心として許しと愛を自らの十字架の犠牲の死を通して、私たちに示してくださいました。水ではなく火の意味は、自らの犠牲・死による贖いの赦しでした。
キリスト教の洗礼は、罪の赦しのバプテスマなのです。そして、水による洗礼だけではありません。あのペンテコステの後のペトロの説教の通り、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2章38節)聖霊が与えられるバプテスマなのです。聖霊、神の息、神の清い風が私たちの魂に宿り、いつも私たちと共に、神が、主イエスが寄り添うてくださるのです。神さまに向き合うだけでなく、神さまが私たちの許に来てくださるのです。旧約の時代と異なり、預言者を通してでなく、聖霊を通し、直接私たちの心に、語りかけてくださるのです。
旧約の預言者エレミヤは、「 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ書31章33節)と預言し、預言者エゼキエルは、「 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」(エゼキエル書11章19節)と神の言葉を預言した。
今や、イエス・キリストにおいて、聖霊による新しい霊を私たちの心に授け、私たちの魂の石のような罪の岩盤を打ち砕き神の御心受け入れる肉の心に変えてくださるのです。 なんという恵みに満ちたことでしょうか。