日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.6.4「聖霊の賜物」

Posted on 2017. 6. 5, 牧師: 藤田 穣

聖書 使徒言行録2章37~47節
 02:37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 02:38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 02:39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 02:40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 02:41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 02:42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 02:43すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 02:44信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 02:45財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 02:46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 02:47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 八重子のハミング
 自主的制作の映画「八重子のハミング」が地元の山口県の映画館7館で上映、1ケ月2万人以上の観客を動員話題になった。今、全国で上映されていると云っても各都道府県の単館上映である。わたしは、有楽町のスバル座で鑑賞した。 
50歳で若年性アルツハイマーを発症した妻の介護に奮戦する夫、発症したのは、夫の胃がんの看病の時だった。老々介護ならぬ、病病介護に近い。
夫婦とも教師、妻は音楽教師。夫の家は神社、神官を兼ねる。12年にわたる介護の状況、病気の悪化が描かれる。「妻を介護した12年は、ただただ記憶をなくして行く時間だからつらかったですね。でも、ある時思ったんです。妻は時間をかけてゆっくりと僕にお別れをしているんだと、その時間を僕の思い出にしてゆかねばと。」 幼子に かえりし妻のまなざしは 想い出連れて 我にそそげり 介護の年数と共に講演依頼が増えてゆく。「やさしさの心って何?」アルツハイマーの妻を同伴した。アルツハイマーになった妻を晒し者にしているとの陰口が叩かれたがその講演を聴き、先生と接した人たちは、人間らしさとは。人間の尊厳とは何かを考えさせられる。その八重子先生の葬儀には町中から800人の人が参列したという。映画全編を通し、「怒りには限界があるが、やさしさには限界がない」といわれた言葉が印象的である。
 陽信孝(みなみ のぶたか)
 「八重子のハミング」(小学館文庫)
れた風景を思いださせてくれる やさしさに包まれた暖かな映画である。 聖書によれば、神の怒りには限りがあるが、そのやさしさ(赦し)は限りなしと思わされました。

聖霊の賜物
今朝は、ペンテコステ(聖霊降臨日)の特別な聖日です。イエスが復活されてから、50日目、この50日目がペンテコステというギリシャ語のの意味です。その日、主イエスが約束された天からの聖霊が与えられたのです。
 先週、学びましたが、主イエスは、昇天にあたり、「01:08あなたがたの上に聖霊(神の霊、息)が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)と言われ、「24:49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都エルサレムにとどまっていなさい。」(ルカによる福音書24章49節)と言われた。
主イエスが昇天された後、使徒言行録1章12節以降、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダ等イエスの弟子たちであり、彼らは皆、婦人の弟子たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。(使徒言行録1章12~14節)
 イエスが昇天されたのは、復活されて40日目、それから10日の間、使徒たちと婦人たちや母マリアとイエスの兄弟たちは、主の約束の聖霊が降るのを待ち、心をあわせて熱心に祈っていたのです。
 そして、復活から50日目の安息日に、天から聖霊がくだったのでした。その様子は2章1節以下にあります。その出来事は、超自然的な描写で描かれています。そのことも大事なことですが、最も驚くことは、聖霊に打たれた弟子たちが、共に立ち上がって私たちの言葉に耳を傾けてくださいとイエスを救い主と証する説教を始めたのです。
 イエスの十字架の死に際して、一番弟子のペトロは死んでもあなたについてゆきますと誓いながら、大祭司の官邸の庭で、女中たちの言葉に、イエスの仲間ではないと3度も否定し、主を裏切り、他の弟子たちは、捕まることを畏れ逃げ去りました。彼らは、エルサレムの2階座敷で静かにしていたその理由の一端は、イエスの仲間としてユダヤ当局から捕らえられることを畏れ、身を隠していたということもありましょう。主イエスに対する後ろめたさと弱さのうちに打ち砕かれていた弟子たちが、聖霊が降ると立ち上がり、力強く、イエスこそ、メシア・キリスト(救い主)と証言し始めたのです。
 ペトロは、ヨエル書3章の預言を通して話し始めます。この聖霊降臨はヨエルによって予言されていたものです。
 「3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
 ヨエルは、神の霊がすべての人々に注がれると予言しているのです。特定の人ではなくすべての人に神の霊が注がれることにより、希望の持てなかった若者は未来への幻を見、老人も夢を抱く、将来への展望が開かれるというのです。今朝は、あの2000年前のペンテコステの日に、聖霊を注がれた人たちを通して学びたいと思います。

 ペトロは、2章16節のヨエルの預言から始めて、36節までの間で、こう語っております。ペトロの説教の内容をかいつまむと、
 ①イエスは、数々の奇跡を通して神から遣わされた方であると示された。
 ②それにも関わらず、イエスが殺されたのは、敗北ではなく、神の御計画であった(民の罪を明示しこれを贖うという伏線が背後に窺えます。)
 ③十字架が敗北ではなかったことが、復活によって立証された。
  (詩編16篇10節 02:27あなたは、わたしの
魂を陰府に捨ててかず、あなたの聖なる者を
朽ち果てるままにしておかれない。)
 ④その復活のイエスから聖霊を受けて、我々はその証人として立っているのです。(2章32節)
 ➄この復活者イエスこそ、イスラエルの主として立てられた方である。
 2章36節がペトロの説教クライマックスであります。
  02:36だから、イスラエルの全ての家は、はっ
きり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。この言葉に彼らは心を打たれた、心を刺されたのです。そこには、イエスを十字架に渡すことに関わっていた人々も居たのでありましょう。しかし、その時には、この人たちには、そのことの重大性が分からなかったのです。自分が神さまの前に罪を犯していることに無知だったのです。それは、現代の私たちにも共通するものです。
  彼らは、強く心を刺された、剣で心を刺されるように刺されたのでした。
  「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。自分たちのゆえに、その愚かさのゆえに、神の御子を十字架に架けてしまった。
いくらつぶやいても、嘆いても自分の犯した過ちは消えない。自分の身の置きどころがありません。神の御子を死刑囚として、処刑してしまったのですから…。あなたの罪のために、神の子の命が支払われたのです。あなたがたは、この高価な犠牲を払っていただいたことによって救われるのです。
  
  ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、悔い改めなさい。(メターノエーサテ)は、心を変え、その行動を方向転換することです。今まで、無知であった、道を踏み外していた、反逆していた神への方向転換、主イエスを神の子、キリスト(救い主)として彼に生かされる生活に入ることです。
イエス・キリストの名によって、罪の赦しの印である洗礼を受けなさい。
罪が許されるとは、罪を犯した事実が消えないまま、罪のあるままに許されることです。罪を持ったままの人間として神さまに受けいれられるということなのです。聖書の神は、イエス・キリストの神は、取り返しのつかない罪でも、7度の70倍、赦す、即ち、無限に許すといわれた神なのです。神に立ち帰れとは、そういうことです。清くなって、正しくなって立ち帰ることではないということです。ともすると、このことは誤解されがちです。神さまは、私たちの罪を無にするために、チャラにしてくださるために、独り子イエスを十字架の犠牲、贖いの供え物とされたのです。
    
ゆえに、十字架の主の招きに応えて、めいめい即ち一人一人がキリストの名によって洗礼を受けるのです。
   そして、預言者ヨエルが、預言したように、3:1
その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
   洗礼を受け、新しく神さまへ立ち帰る、180度
神さまに従う方向転換した者に賜物として聖霊が与えられる、聖霊が働いてくださるのです。
   聖霊によって清められ、罪の身から新しく生まれ変わるのです。
    
    主イエスが、弟子たちに、水による洗礼を授けたことはない。バプテスマのヨハネは、03:11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。と語っている。
    洗礼と聖霊はどういう関係にあるか。使徒言行録には、「08:14エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。 08:15二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。 08:16人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。 08:17ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
    
    この後には、聖霊を金で求める魔術師シモンの話がある。
    08:17ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。 08:18魔術師のシモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、 08:19言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」 08:20すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。

    ここの例は、洗礼を受けたが、聖霊を受けていない。逆に多くの場合、
   例えば異邦人コルネリウスの回心 10:44ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 10:45割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 10:46異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 10:47「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 10:48そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。

    賜物の聖霊が降らないところに、洗礼はないのです。聖霊は、イエスが約束されたように私たちイエスを信じる者に、神があたえてくださる最高の賜物です。イエスをキリストと信じ、その信仰が祝福されるのは、聖霊が働いているからです。聖霊の賜物は、一時的なものでなく、永久なのです。・
    まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 ルカ11章13節
      11:18この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

    罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
   40節 邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
   悔い改めること、聖霊を受けることが、この曲がった時代、神の子を神の子として崇めず、メシアをメシアとして受け入れない、創り主なる神を退けた時代のことです。そこからから救われまさい、なのです。主イエスに背を向けていた人々が、イエスをメシア救い主と信じ、イエスに向きを変える180度の方向転換することです。
   それは、今日の私たちにも当てはまります。現代の方が邪悪の深度が増しています。
   それが、この時代、この世界という魔物に囚われていた歩みから、主イエスに向かって生きる新しい歩みがスタートするのです。
02:39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
   全く新しい時代が到来したのです。ユダヤ人も異邦人も、主の招きに応じるならば、罪赦され、神の子となり、聖霊を賜物として受けることが出来る、新しい時代がきたのです。身も心も新たにされ、神に生きる時代が来たのです。

   こうして、このペンテコステの日にキリストの教会に入会した人は、3千人に達したとうのです。状況から考えると、3千人は多すぎると思いますが、多くの人が入会したのでしょう。
   教会員の生活は、使徒たちの教えを守る(現在でいえば、聖書の教えを堅く守る)、交わりをするは、色々なことを共有する、原始共産制といわれる必要な物を必要に応じて持ち寄り分配していたという財産共有がなされていたといいます。パン裂きをする(愛餐会の時を持つ)、祈りをする。
   彼らは心を一つにして、神殿に集まり、家で愛餐の時を持ち、喜びと真心をもって神を賛美し、社会の人に好感をもたれる証の生活をしていたのでした。そこには、教会に入会し、その交わりに加わろうとはしなかったが、クリスチャンに尊敬の念を抱く、外部の人たちがいたのです。また、信者たちの間に、現代の私たちに消えてしまった感激と喜びがあったのではないでしょうか。
そこには、聖霊という賜物が働いていたことでしょう。また、使徒や信徒たちが聖霊の導きを求めていたことでしょう。
 そのなかに、初代教会の生き生きとした信仰 生活がなされていたことを思います。
   これが、聖霊降臨による教会の誕生の時でした。わたしたちの教会が伝道を開始したのも45年前のペンテコステの6月でした。わたしが最初に遣わされた田園調布教会も6月が創立、池田尊兄の祖父さまが牧師手おられた山形・荘内教会も130年前の6月に創立されました。
  この聖霊降臨の時、初代教会の人々のように、私たちも聖霊の賜物をいただいて、新たな力を得て、開かれた教会として、神さまの前に力強く歩む者となりたく願います。