日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.7.16「あなたはどうですか?」

Posted on 2017. 7. 18, 牧師: 杉村和子

聖書 ヨハネによる福音書8章1~11節

08:01イエスはオリーブ山へ行かれた。 08:02朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 08:03そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 08:04イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 08:05こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 08:06イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 08:07しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 08:08そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 08:09これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 08:10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 08:11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

私たちの住む世界には約束ごとがある。世界、国、地方、学校、家庭など多岐にわたる約束ごと、即ち、法律、規則がある。法を犯したら裁きを受け、罪を償なければならない。六法全書には、こと細かく、法律が記されている。

ユダヤ人には、律法が事細かく定められており、守らない人は罪人とされた。

律法は、指導者モーセが、神から授与された十戒に基づく、その十戒の7戒に、「姦淫してはならない」とある。

姦淫(姦通)は、現代でいえば不倫、今でも芸能人のゴシップがある。

ある朝、姦通の現場で捕らえられた女が人々に連れて来られた。姦通は、石打の刑、死刑と定められている。何故、イエスのところに連れてきたのか?

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 08:05こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 08:06イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

イエスが石打の刑にせよと云えば、いつも弱い者の味方をしているイエスが何故、となる。イエスが女を赦せば、イエスは十戒を犯す者として糾弾される。

そのなかで、この女性は、石打の刑を覚悟し打ち震えている。

イエスは、かがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 08:07しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 08:08そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

罪のないものが石を投げよといわれると、年長者から始めて一人また一人その場を去って行った。年長者は良きにつけ、悪しきにつけ多くの経験をしている。誰も罪を犯したことのない者はいない。罪とは神に背いて生きることだ。

イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイ福音書5章27~28節)と言われた。口や行動に出さなくても、心の中にその思いがあれば、神の前には罪を犯したのだ。淫らな思いで他人の妻を見る者…殆どの人がそれに該当しよう。キリスト教は難しいといわれる所以である。

完全に正しい人はいない。年長者は、自分の過去を顧みて立ち去り、他の人も続いた。そこには、イエスひとりと女が残った。 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。女は、罰せられなかった。

ユダヤ社会では女性の地位が低い。姦通の相手の男性はどうなったのか。レビ記20章10節に、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」と定められている。

何故、女性だけが連れて来られたのか。イエスを陥れるためとしか考えられない。あなたは正しい、潔白と思っている。「あなたはどうですか?」胸に手を当てて考えてみてください。

当時、女性や子供は、人数の内に数えられなかった。女性は12~13歳で親の決めた人と結婚させられた。女性から離婚を切り出すことはできなかった。

女性は借金のかたに遊女に売られた。今でも、そういうことが行われている国がある。この女は何故、身を売らねばならなかったのか。この女性の背景、環境がそうせざるを得なかったのだ。イエスは、その背景を配慮されたのか。

女性は、「主よ、」と云った。イエスが自分を受け入れ、救ってくれた、信仰から出た言葉である。

人間は、罰によって変わることは少ない。変わったとしても恐れの心からである。心の底から悔い改め変われるのは あいによるしかない。

愛は、その人を丸ごと受け入れること、赦すということです。

子供の頃、悪いことをした理由を両親が聞いてくれて、諭されたら、これからはそうしないと決心できたものです。頭から怒られると、ごめんなさいも言いにくい。

十戒を中心とする戒律、その戒めが、人々を蔑み、人格否定するならば、そんな法は、「ノー」である。イエスは、安息日に人を癒し、安息日に弟子たちが麦の穂を摘んだことをとがめられたとき、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ福音書2章27節)と言われた。

私たちを造られた神は、人間の誰一人として愛されない者はいない。道に背いて戒めを守らない、苦難を与えられ、悔い改め、赦しを乞う、このような人間を神は許し給う。神さまは、その都度赦された。主の祈りの中に、「我らに罪を犯すものを我らが赦す如く我らの罪を赦し給え」とある。神さまは裁かない。イエスの十字架の死によって許されている。それなのに、私たちは自分に甘く、他人は厳しく裁いている。

「人のふり見て、わが身を直せ」という諺があるが、なかなか難しい。

私たちは、神の御心を行うことが出来ない罪が。次第に重くなってゆく。赦してくださいという自分を見る。「罪を犯さないように」それでも、人間は、罪を犯してしまう。

神は無条件い赦してくださる。素直に罪を赦してください。隣人にごめんなさいといえる人生を、 この女性は主の言葉に守られ、この先の人生をあゆんだのではないか。 私たちも、主の祈りを覚えながら、日々、歩んでゆきたい。