日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.7.23「求めよ、さらば与えられん」

Posted on 2017. 7. 24, 牧師: 藤田 穣

聖書 ルカによる福音書5章17~26節

  11:05また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 11:06旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 11:07すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 11:08しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 11:09そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 11:10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11:11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 11:12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 11:13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

サンタクロースの存在

 欲しいとお願いしていたものが、叶わない時がある。

そのことによって、それまで信じていた神話が崩れる時がある。皆さんは、いくつまでサンタクロースの実在を信じていただろうか。

 雪ノ下教会の加藤常昭牧師が、自分の思い出を記しておられる。「4歳ころまでサンタクロースの実在を信じていました。クリスマス前夜には、サンタクロースが来るまで目を覚ましていようと努力するが寝入ってしまう。見事寝入ったその朝に、キチンとプレゼントが置いてある。クリスマスが近づいた頃、自分が欲しいプレゼントを書いて、サンタクロースのおじさんへという手紙を書きました。そのころの毎日のお祈りは、願ったプレゼントが届くことでした。

 ある日、わたしが在宅しているときに、三越から大きな包みが届いたのです。真っ先に玄関に迎えに行くと、配達のおじさんが、「坊や、いいね、プレゼントだよ」と言ったとおもいます。愕然としました。クリスマスプレゼントが、もう届いてしまった。しかも三越から届いた。兄と姉はもう小学生でした。その二人がわたしの大発見「サンタクロースって本当は三越だよ」という報告を聞いて、ひっくり返るほどに、笑った姿をよく覚えています。

 今でもその時の場面を覚えています。一種の屈辱感を伴う失望感、あのときに自分はとても大切なものを失ったように思えてならない。 会ったこともないサンタクロース、見えない誰かに手紙を書き、願いを書く、見えない何かを信じて、願い求める、その願いが実現する喜びだ。」

 加藤先生は、現代の人間は、サンタクロースに対する幻滅を味わうに似た経験を繰り返すうちに、祈ることを、願うことを忘れてしまったのではないか?

自分でやればいいし、できなければ仕方がない、そのうちに、私たちと共にいきてくださる神のことを忘れたのではないでしょうか。と言っておられます。

  今日は祈りの姿勢について学びます。

 初めに祈ること

この前の聖書の箇所、ルカ福音書7章1~4節で、弟子たちが主イエスに「祈ることを教えてください」と願い出たのに対し、主イエスが「主の祈り」を教えられました。弟子たちに、どのようなことを祈るべきか教えられました。

 イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。ルカとマタイで資料』が異なるようです。私たちが祈っている主の祈りは、マタイ6章9節以降にイエスが教えられた祈りに基づいております。

 マタイ6章9節以降 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 主の祈りの前半、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。とあります。

  最初にあるのは、神に対する呼びかけと讃美である

  天においては天使たちが御名を褒めたたえており、天においては、神の御支配が行き届いている。神の御心が隅々まで満ちている。しかし、この地上においては、サタンがのさばり跋扈し、これらのことは成就していない。だから、地においても成就するように祈りなさい。 イエスご自身は、サタンの荒れ野の誘惑に勝利している。

イエスは、祈り求めなさい。と言われる。信じる者の集団が、教会がこの主の祈りを祈り、真剣に生きるならば、天におけるように地にも神の支配が、神の御心が行われるようになろうとの思いです。

 そのあとで、この個所の教えがあります。「求めよ、そうすれば、与えられる。」と題しました・

ここでは、祈りの姿勢が問われます。

 祈りの姿勢

 併行のマタイ福音書7章7節以下では、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。とあります。

 求めよ、願い求めよ、ひたすらに願え。探せ、隠れているものを探せ、門をたたけ、たたけば、なかに招き入れられる。

 その祈りの具体的な姿勢が、ルカ福音書で、喩え話で教えられます。

 『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』   

(11章6~8節)   

 日中が猛暑のパレスチナでは、しばしば昼間の陽ざしを避けて、夕方遅く旅をしました。この譬えの人は、そのような旅人でした。旅人が夜遅く到着したが、この家には食料のパンがなかった。 家の主人は、旅人をもてなすために、近所の友人にパンを借りに行く。パン三つは、一人の一日分の量である。

パンは、毎日各家庭で焼かれ、一日に必要な分のパンを焼く。真夜中に相手に迷惑をかけることは承知で、近所付き合いのよしみでこの主人は、パンを借りに行く。近所の友人の家の扉を叩く。『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 家の中の人は『面倒をかけないでくれ。戸にかんぬきも錠前もかけている。子供たちも寝ている。』」

家主は、眠りが妨げられるのを嫌がっています。当時のパレスチナでは、一部屋に家族全員が寝床を敷いて体を寄せ合って寝ていました。いわば、雑魚寝です。隣室には、夜だけ、鶏や山羊などの小家畜を家に入れていました。一度、就寝した人が起き上がろうとしないのは必然でした。

 しかし、借り手は、臆面もなく忍耐強く戸を叩き続けます。ついにその家の主人は、家族全員が起きてしまうのを観念して、起きて、借り手の要求するものを渡したのでした。

 イエスは云う。「よく聞きなさい。友人だからというだけでは、貸してくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」

この執拗な頼み、この言葉は、しつっこい、恥知らず、厚かましいの意味がある、その執拗さのゆえに、いやまた、自分が友人としての面目を失わないために、起きて必要を叶えてくれるだろう。

 友人の願いを断るようであれば、自分が問われる。自分が恥をかくことになる。自分が恥知らずと言われることになる。だから起きてパンを与えるようになる。と話されたのです。日常の関り、友人としての信頼関係から、助けを求めに行けば放っておく筈がないという前提があります。

 ここでパンをあたえてくれる友人は神様です。神さまは私達人間が、神さまに造られた人間が、困って訴える、その訴えに耳を傾けなかったならば、恥知らずの神になる。神が神でなくなる。神は、ご自分の名譽のために、願いを聞いてくださると主イエスは、断言されたのです。

 私は言う。求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見出す、叩け、そうすれば開けてもらえるだろう。

 求めよ、捜せ、叩けについて、聖書から考えてみよう。

 求めよ、は通常の祈りである。必要なものを無いものを求める祈りである。聖書をみると

マルコ11章24節 「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」

 マタイ18章19節 「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」

 ヨハネ11章22節 「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 ラザロの蘇りの場面でのマルタの告白です。

 探せ 神さまを求めるときに使われる。罪により失ったものを探す祈りです。  申命記4章29節 「心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」

イザヤ書65章1節 「わたしに尋ねようとしない者にも、わたしは、尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも、見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも、わたしはここにいる、ここにいると言った。」

 使徒言行録17章27節 パウロのアテネでの演説 24節、世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。

27節 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

 

門を叩け、そうすれば開けてもらえる、これは、招き入れられる、神の国に招き入れられるのです。

11~13節 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 あなた方のなかで、父である者が、その子が魚を求めるのに、魚の代わりに蛇を与えるだろうか。あなた方のお父さんは、あなた方の求めるものをくれるではないか。人間の間でそうだとすれば、天の神さまは、求める者に一番よいものをくださる、と言われたのです。

 祈りは、執拗に願えばよいのか、それで祈りが成り立つのか。そうではありません。私たちの熱心さに加えて、神の熱心が、私たちの傍らにあって、私たちの思いを超えて善きものを与えてくださるのです。主イエスは、一番良い贈り物、聖霊を私たちに与えてくださると云われます。聖霊は、神ご自身の霊、神の息、神の力です。今生きて働き給う神の力です。

 求めよ、さらば与えられん のもとの意味は、求めなさい。そうすれば神は正しい信仰を与えてくださるです。

米国セントルイス イエズス会修道院のJ.ロジャー・ルーシー神父の詩に、 「人生の祝福」という詩があります。 訳者不詳とあります。

大きなことを成しとげるため 力を与えてほしいと神に求めたのに

謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった

より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに

より良きことができるようにと 病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに

賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに

得意にならないようにと 失敗を授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられた

神の意にそわぬものであるにもかかわらず

心の中の言い表せないものはすべて叶えられた

私はあらゆる人の中で

もっとも豊かに祝福されたのだ。

 神は今も働いておられる。ルカは、それを聖霊の働きとして記している。

 私たちの祈りは、今も神さまが生きて働いておられ、私の傍らにおられることを 聖霊において、体験させていただくことを祈ることです。

今日の招詞、ヘブライ人の手紙13章8節のように、「 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」、今も主イエスは聖霊を通し、生きて働き給います。ここに主が働き給う現実がどこにあるのか?それを求め、体験するのが、私たちの祈りであろう。

 これが、「求める者は得、捜すものは見出す」ことの内容であろう。

 北森嘉蔵先生は、異なった形で、「求めよ、さらば与えられん」説明されます。 求めよ、さらば与えられん これは、信仰を求める祈りであります。

北森嘉蔵先生は、この言葉を正しく理解するには、正反対となる言葉を示されます。ヨハネ福音書15章16節、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」とのイエスの言葉です。

わたしとは、イエス・キリストのことです。今日学んできた、求めよ、さらば与えられん は、人間が求めていますが、ヨハネの言葉では、イエス・キリストが私たち人間を求めているのです。

  私たちの経験では、私たちが神を求め、キリストを求め、教会に行き、聖書を学び、信仰に入ろうとします。私たち自身が求めて与えられるということです。そのように思っています。

しかし、信仰に入った私たちが、その経験、来しかたを振り返ってみると、重大なことに気付くのです。自分が求めていたと思っていたのが、実は、自分が神から求められていたことに気づくのです。すなわち、神が、キリストが求めておられたので、自分は、私たちが、神を、キリストを求めるようになったということです。信仰の秘密は、経験を超えたところで、ある事柄が起こっているということです。その経験を超えたところで、起こっているのが、キリストが私たちを「あなたがたはどこにいるのか。私に立ち帰れ」と尋ね求めてくださり、私たちの魂の扉を叩いていて、下さっているという事実です。