日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.7.30「一言、仰ってください」

Posted on 2017. 7. 31, 牧師: 藤田 穣

聖書 マタイによる福音書8章5~13節

08:05さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、 08:06「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。 08:07そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。 08:08すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 08:09わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 08:10イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。 08:11言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。 08:12だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 08:13そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 一言の重み

去る7月18日、 聖路加病院名誉院長の日野原重明先生が、105歳で天に召された。英国のBBC放送は、100年以上に及ぶ卓越した人生と報じている。

作家の柳田邦男氏は、ギリシャの哲学者ソクラテスの「医師もまた言葉を使う人である」との言葉を引用し、日野原先生の日ごろの医療活動を、真に「言葉を使う医師」だと評している。

日野原先生は、1912年(明治44年)、牧師夫妻の6人兄弟の次男として山口県に生まれた。10歳の時、病弱の母親が腎臓病で高熱を出した時に夜中に往診に駆けつけてくれた医師の姿に感銘を受け医師を志した。

1937年、京都大学医学部を卒業、研修医の時に初めての臨終の場面に、16歳の少女の臨終時の診療を行った。仏教への信心深い少女は、両親に別れの伝言を私に託そうとしたが、私は「まだ死にはしない、しっかりしなさい」と何の意味もない注射を打ち続けた。何とか蘇生させようと必死に頑張ったが少女は戻ってこなかった。私は少女の最後を鞭うってしまったのだ。なぜ、あのとき少女の手を握り、「お母さんに伝言を伝えるよ、安心して天国に行きなさい」といってあげられなかったのかと後悔した。それは、医師の慢心に気付かせてくれた死であったと後に述べている。これが日野原先生の医師として再出発、全人医療を目指す原点となった。

第2に生き方を決めたのは、1970年、福岡の学会に行くために乗り合わせた「よど号ハイジャック事件」で人質となり、4日間死の恐怖を体験し、解放されるという事件に遭遇した。4日の間、犯人が人質たちに、本を読むかと持ち掛けたときに、応じたのは、日野原先生ただ一人、カラマーゾフの兄弟を借りて読んだという。解放後、改めて自分が命を与えられたと感じた先生に、妻の静子さんは、これからは他人のために生きることねと言われた。

先生は、この言葉に、生涯現役で他人のために生きることをミッション・使命として、人生の終わりまで現役の医師として働いたのは御承知の通りです。

全人的医療を目指し、成人病を生活習慣病と新しい概念を提唱した。予防医療を目指し、私立病院で初めて人間ドックを開設、命を大切にする治療に励む。 

1995年の地下鉄サリン事件では、外来診療をすべて中止、礼拝堂やホールを開放、600人の患者を受け入れ、命を救ったのは画期的なことだった。病院の改築の時に、全館に酸素吸入等出来る設備を設置したことが、功をそうした。

終末期治療の緩和ケアーを整備、病院以外でも日本音楽療法学会、はっぱのフレデイのミュージカルを手掛け、2000年に老人が健やかで生きがいを感じていきるようにと75歳以上の老人を対象に新老人の会を設立した。-

日野原先生は云う。「終わりよければすべてよし」とはシェークスピアの戯曲の一つですが、人生こそ、そのようなものです。納得して死ねるか、最後に「ありがとう」と言って死ねるかどうかだと理解してます。「ありがとう」と自分が生を与えられたことに対する感謝が自然に声が出るようなことがあればいいと思いますね。(日野原重明著:生き方上手他より)

 このような日野原医師に、終末時の医療を託した患者さんの多くが、その言葉に励まされて、安心して天国に旅立つことができたのでした。

常に、後を振り向かない、好奇心に満ちた人生でした。  

聖書に入ります。

百人隊長の懇願

イエスは、山上の説教を終えて、山を下り、らい病人を癒したのち、カファルナウムに入られた。すると、ローマの百人隊長がイエスの許に来た。

カファルナウムには、重要な税関事務所があり、ローマの軍隊の駐屯地があったといわれる。ローマの軍団は6000人からなり、それは、60の百人隊に別れ、この百人の指揮官が百人隊長であった。歴史家ポリピウス(ギリシャ出身、戦争で人質となり、ローマに暮らし、ローマ史を著している)が、ローマの軍隊を説明し、百人隊長の資格として次の点をあげている。「百人隊長は危険を冒す冒険家でありより、むしろ、部下を統率し、着実に行動し、信頼のおける指導者でなければならない。むやみに戦闘に突入せず、攻撃を受けたときにその拠点を守り、部署にあって死ぬ覚悟がなければならない。」

新約聖書に何人かのローマの百人隊長が出てくる。十字架上のイエスを神の子と認めた百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。」(ルカ福音書23章47節)

異邦人で最初にキリスト教に、家族ぐるみで改宗したコルネリウス(カイザリアに駐屯)も百人隊長であり(使徒言行録10章)、パウロのローマへの最後の旅に同行し、囚人パウロを丁重に取り扱い、舟が嵐に遭ったときに、パウロを指導者として認めたのも百人隊長(使徒言行録27章)であった。新約聖書に出てくる百人隊長は優秀な軍人で人格者であった。

さて、百人隊長は、イエスに懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。家の僕は、併行するルカ福音書は奴隷(ドーロス)としている。僕は、家で寝込んでおり、ひどく苦しんでおり、重い中風です。自分の僕の病気の癒しをイエスに懇願したのでした。 

かくも、奴隷を思いやる主人の態度は異常でさえあります。当時のローマ帝国では、奴隷に何の価値も認めていなかった。哲学者アリストテレスは、「主人と奴隷は何の関係もない。奴隷は生きている道具であり、道具は生命のない奴隷である」といい、生殺与奪もは主人の自由であった。

この百人隊長は人格者であった。彼は、自分に尽くしてくれた奴隷を家族の様に愛していたのであろう。

わたしが行って癒してあげよう。または、わたしが行って癒すのか?

イエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。これも驚くべきことです。イエスは、百人隊長の願いを直ちに受け入れたのです。一人の奴隷のために、主よ、と言われた神の御子が足を運んでくださるというのです。しかし、百人隊長は、「わたしは、そんなことをしていただく資格のない者です。わざわざ、おいで下さるのは恐縮です。ただお言葉を頂くだけで結構です。」となる。 

百人隊長は、資格がないと謙遜しているが、百人の兵士を動かす資格を、力をもっています。それにもかかわらず、主イエスの前には、あなたを家に迎え入れるには無資格な者だと告白します。謙遜な態度です。

それは、放蕩息子(ルカ福音書15章)の言葉に似ています。放蕩息子が、落ちぶれて帰ってきて父の前に立った時に言った、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(同章18~19節)と言ったのとまったく同じ言葉です。

私たち人間は、社会的地位や身分の如何にかかわらず、一人として、神さまの前には、立つ資格がないの者として、神の前に立つのです。

しかし、「わたしが行って、いやしてあげよう」のこの新共同訳の訳には問題があるという学者がおります。

この言葉を、疑問符として理解できるからです。「わたしが行って、癒すのか?」、「このわたしイエスに、君の家に行って僕を治せというのか?」の理解です。

百人隊長は、ローマ人・すなわち異邦人です。イエスは、ユダヤ人です。律法によれば、ユダヤ人は、異邦人の家に入れないのです。イエスの十字架の前の裁判のときに、多くのユダヤ人がピラトの官邸に押し掛けたましたが、誰一人として、官邸の庭に入っていません。律法の注解を記したミシュナには、「異邦人の住いは汚れている」とあるからです。

これと同様の出来事が、マタイ福音書15章22節以下のカナンの女の記事にあります。イエスの前にカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 と同じ構図である。

そうであれば、百人隊長の答え、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」とその言葉が生きてくるのです。もちろん、異邦人であるわたしが、ユダヤ人のあなたに来て頂いて、私の家に入っていただく資格のない者であることを承知しております。ただ、一言、仰ってください」。この方が辻褄が合う。彼は、たんに異邦人であるばかりでなく、神の子の前に出る資格のない、自分が罪深い者であることを吐露したのであろう。ここに、彼の謙遜がある。

ただ、一言仰ってください

百人隊長は、わざわざイエスに足労をかけなくとも、ただ、イエスが言葉を発するだけで僕の病気が治ると確信していた。これが彼の信仰であった。彼が、イエスの言葉に信頼する理由は、彼の体験に基づくものであった。「お言葉だけで僕の病気は治ります。何故ならば、

9節以下、「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」彼の言葉は、単純明快であった。百人隊長は、日頃の自分の経験によって、権威ある、力のある者の言葉に力があることを知っていた。

彼の言葉への信仰が表されています。主のお言葉の力、主の権威を率直に告白したのです。聖書の中に示されている神の言葉の通りです。

神が「光あれ!」と言われた。すると光があった。

(創世記1章3節) 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 01:02この言は、初めに神と共にあった。 01:03万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。…01:14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ福音書1章1~3節、9節)

神である言葉が人となって、御子イエス・キリストとしてカファルナウムに来た。「ただ、ひと言仰ってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 」

これが信仰です。

信仰とは、「主はすべてをなしうるお方、しかも、資格のない者にも喜んで応えてくださるお方」であることを信じることなのです。

イエスは、百人隊長の言葉を聞いて驚いた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われたのでした。

11節以下、言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

ユダヤ人は、アブラハムの子ら、選ばれた民として、天の国に入る、特権を持っていると信じてきた。しかし、それだけの理由では天国の喜びから追い出される。彼らが真意神に頼らず、不信仰だからだ。当然入るべきと思われた彼らは追い出される、多くの異邦人がその謙虚さと信仰によって御国にいれてもらえる。彼らは世界の西から来て天国の席に着く。

この言葉は、信仰がいかに律法厳守のみに固執するユダヤ人の信仰に対する常識と異なるかを示している。

信心と信仰

13節以下 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

信じたとおりになる。その時、僕は癒された。信じたことがなる。事実となる。これがキリスト教信仰です。

北森嘉蔵先生が記しておられます。

日本の古来からの言葉は信心、信じる心です。これを極端に皮肉ったのが、イワシの頭も信心からという言葉です。イワシの頭のようなつまらないものでも、信じ込みさえすれば神となり、仏となる。キリスト教信仰では、信心という言葉は使いません。信仰という言葉は、信じて仰ぐです。 

信心は、信じ込む、思い込むという心の内側に内側に巻き込む態度です。心のなかだけで外へは出てこないのです。ところが、信仰の仰ぐは、仰がれるものは、自分の心とか、心理状態を超えて、外なるもの、上なるものです。外にある、上にある客観的事実と関わるのです。キリスト教信仰が関わる事実は神の愛です。神の愛は、聖書によれば事実としてあるのです。病気の治癒でも、人間を幸福にしようという神さまの思い、これが神の愛です。ですから、神の愛の担い手であるイエスを信じるということは、イエスが背負っている神の愛という事実のなかに入ってゆくことです。信仰とは、神の愛という事実のなかに私達人間が入ってゆく、飛び込んでゆく態度なのです。

この百人隊長は、神の愛を信じたことのない人間でしょう。けれどもそのイエスに自分の運命を愛する僕の命を託する否預けることを敢えてしたのです。この敢えてする冒険が信仰の態度なのです。

さて、現在のわたしたちは、どう考えるでしょうか?そんなことを言われてもここにイエスはおられないではないか。という人もおりましょう。

わたしたちは、何故、聖書を読み、学んでいるのでしょうか。そこに生きて働くイエスの言葉があるからです。いまもなお、イエスは生きていて、私たちに語ってくださり、教えてくださり、御言葉を信じ、願えばそのようになる、とおっしゃっている。聖霊の働きを通して、私たちに働きかけ、そのことを分からせてくださる、先週の招詞、ヘブライ人の手紙13章8節にあるように、「 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」、主イエスは聖霊を通し、今も生きて働き給います。この主が働き給う現実を私たちは体験できるのです。それが、キリスト者の信仰生活です。主が今も働いてくださることを願い、祈りましょう。