日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.8.27「心に住みたもう神」

Posted on 2017. 8. 28, 牧師: 藤田 穣

聖書 マタイによる福音書12章43~50節

 12:43「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。 12:44それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。 12:45そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 空き家問題

少し古いが総務省統計局の全国の空き家調査によると、総住宅数は,6063万戸と5.3%の上昇空き家は、820万戸で率は,13.5%と過去最高になった。空き家率の多い県は、山梨県の16.2%を始め、四国4県と続く、少ない、東京、神奈川でも10%を超える。予測によると、15年後の2033年には、2150万戸、30.2%に達する見込みという。

 空き家の70%は、ただ放置されているという。空き家を取り壊して更地にすると固定資産税が高額になるので、とりあえず住宅のまま置いておくということもある。また、現行の建築基準法に合致せず、今と同程度の大きさの住宅が建築できないため処分できないといった場合もある。管理がなされていない空き家は、景観が悪くなるだけでなく、ゴミの不法投棄のたまり場になったり、放火や不法侵入など犯罪の温床になる懸念があるほか、地震などの災害が発生した場合に倒壊して、避難路をふさぐといった大きな問題を生じさせることになる。

 今日の聖書箇所は、心の空き家問題ですが、同じように大きな問題を生じさせるのです。

 悪霊を追い出すイエス

 この前の箇所で、主イエスが悪霊を追い出す場面が記されています」。

 12章22~24節 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。

 主イエスは、人々が連れてきた悪霊に憑かれた盲人を癒した。彼は、物が言え、眼が見見えようになった。すると、群衆は驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。 しかし、ファリサイ派の人々は、「イエスは、悪霊の頭ベルゼブルの力によって、悪霊を追い出しているのだ」と云った。イエスは、悪霊の頭ベルゼブルと結びついていると解釈したのです。これに対し、イエスは、内輪もめする国は亡びるから、悪霊が悪霊を追い出すことはない。イエスの業がベルゼブルの業なら、あなたがたの仲間の魔術師の悪霊追放も同罪である。しかし、私が神の霊によって悪霊を追い出しているなら、神の国はあなたがたのところに来ているといわれました。

 イエス・キリストの到来と活動は、この時代を支配する悪霊の追放であり、神の国・神の支配の到来の現実であった。12:28しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。イエスの活動によって汚れた霊、悪霊が追放され、人間の悔い改めと神への回帰、神の国・神の支配の現実が到来しているのだ。

当時は、病気も災害も悪霊の仕業と考えられていた時代でした。汚れた霊=悪霊とは何か。 聖書では、悪魔は堕落した天使、悪霊も天使たちと天にいたが、悪魔が天に居場所がなくなり、ともに悪霊も天から放逐されて地に投げ落とされた。地上に落ちた悪魔と悪霊は、神に敵対する存在であったが、神の支配下でしか働けない。それでは、何故、神は悪霊の存在、活動を赦すのか。

 ひと言で言えば、それは神の栄光が現れるためである。

 病気は悪霊の性と考えられていた。 彼が眼が見えないのは両親のせいか?ヨハネ福音書9章にある。 09:01さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 09:02弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 09:03イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためであるといわれている。 

 悪霊出戻りの譬え

 主イエスは、悪霊出戻りの譬え話をされます。ここで汚れた霊とあるのは、悪霊のことです。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。 12:44それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。 悪霊が今まで住んでいた人間から出てゆく、追い出されるのが普通ですが、この悪霊は、もっと住みやすい所を求めて歩き回るのです。結局、悪霊は、砂漠をうろつき、休む場所がみつからない。旧約聖書では、乾いた荒れ地が悪霊の住み家とされており、新約聖書では、ガダラの悪霊は墓場に住んでいます。

 しかし、悪霊の安住の地は、砂漠ではなく、人間の心なのです。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。私たちの心を我が家と呼ぶのです。嫌らしいですね。悪霊にとって、人の心はいつでも安住させてくれるところなのです。 古巣が空き家になっていた。空き家というのは、不信仰の心、空虚な心やすべてに満足している心、そこに隙間がある、空洞がある、その人の心は空洞です。その空洞を隠すために、掃除をして、整えられていた。口語訳では、飾り付けがしてあったのです。

 汚れた霊が出て行きましたが、、悔改め、回心したものの心の油断、慢心が、空虚を、心の隙を造るのです。

 悪霊は、自分の住んでいた家が片付き、立派になっているのを見て、さらに強い7つの悪霊を連れて戻ります。7という数字は、完全数だから、悪霊の最強のメンバーを一緒に連れて帰って来たのであろう。今度は、完全に定住するためである。

 何故、悪霊は自分よりも強い悪霊を連れて帰って来たのか?これについて、解釈はいくつかある。

 ①入ることが困難とする説

その人が立派な人間になって魂の健康を回復したので、悪霊は自分だけの力では入ることが困難なので、援軍を連れてきたのであろうとする。

 ②入ることが容易になったからとする説

  悪霊を追い出してほっとしているその空虚な状態が、悪霊たちにとって、

チャンスで、彼らは何の抵抗もなく、楽々と住み込んだのであろう。

両者とも矛盾はしない。しかし、後者の方が正解であろう。

この人の状態は何を意味するのか?

悔い改めた人の状況であるかもしれない。悪霊が追放された住居、その心がどうあるべきか問われる。

  この譬え話は、色々あるが、第1に、何らかの状況で弟子たちにも語られたものであろう。

   この譬えの奥義は、まず、中途半端でなく、心の底から徹底的に悔い改めよということである。いい加減な悔い改めでは、悪霊を完全に追い出すことはできない。またすぐ戻ってきて、今度は、腰を落ち着けて定住する。

   弟子たちの失敗の数々もそこにあるかもしれない。

   マタイ福音書20章20節以下 弟子たちは、自己の本性をむき出しにして争っている出来事がある。彼らはイエスがユダヤの王になることを夢見ていた。イエスが王になった時には、ゼベダイの息子たちの母が願い出る。一人は、右大臣に、一人は左大臣にして欲しいと。それを見ていた他の弟子たちは、血相を変えて、自分こそ右大臣だとイエスに詰め寄った。イエスの教えを最も近くで聞いていた信仰を告白したはずの弟子たちでさえ、むき出しの自分で、弟子たちのうちで順位争いをしているのだ。

イエスは云われた。20:26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 20:27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 20:28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。

イエスの心、弟子知らずである。弟子たちは、」自分の思いで一杯である。

   そして、この弟子の一人ユダがそうであった。ユダは強い人であった。

   イエスが救い主メシアとして、ユダヤをローマ帝国から解放することを願っていた。最後まで自分を主イエスに明け渡そうとしなかった。聖書は、そのようなユダにサタンが入った。そして破滅したと記している。

  悔い改め、自己の主権を、己の心を、神にどう明け渡すかが問題となる。これも心の空洞を生む。

   弟子たちが真実の悔い改めをしたのは、己の心を神に明け渡したのは、イエスの十字架の死、復活の主に出会い、聖霊降臨を受けたときでした。

 

私たち一人一人の信仰の日々においても問われる。私たちが致命的失敗をして堕落するのは、殆ど例外なく私たちがいささかの成功に慢心し、得意の絶頂で、自分の心が満たされているときである。また、サタンとの戦いを制し意気揚々たるときである。イエスすら、「あなたは私の最愛の子、私の心に適う者」との神の声を聞いて、聖霊に満ち溢れているときに、サタンに試みられたのである。

 中途半端な悔い改めが悪霊ので戻りを招く。

 

  第2に、この前の悪霊の論争が、律法学者、ファリサイ派の人々に対するものであり、その続きが「出戻った悪霊」譬え話と考えるならば、この譬えも律法学者、ファリサイ派の人々の心について、語られたともいえる。

  少なくとも、律法学者、ファリサイ派の人々は、自分たちの心は、「きれいで悪霊が入り込む余地はない」と思っていました。律法学者は、一度きれいになった心をどう守るか。それには、律法を守ることを教えたのでした。しかし、そのように掃除がしてあり、飾り立てている心こそ、悪霊の定住する住み家になるのだということです。

  ファリサイ派の人々は、だれよりも、律法順守において飾り立てました。

 それが神さまのためと考えていたかもしれません。

  それが、私たちに対する警告です。

  己の心に律法を置き、努力する、それで、神さまの義を立てると考えたとしたら、そこには、神さまはおらず、置き去りにされているのです。

  旧約の信仰でも、律法を超える信仰がありました。詩編51篇に信仰の核心がある。詩編51篇は、ダビデがウリヤの妻バテシバに恋をし、将軍ウリヤを最前線に送り戦死させ、バテシバを奪ったとき、予言者ナタにン

 厳しく叱責されたときに詠んだ詩です。核心は、2か所です。

51:12神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください。

51:19しかし、神の求めるいけにえは、(律法に定められたいけにえではなく、)打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。

  熱心なファリサイ人だったパウロの告白を聞きたい。

   ローマ書7章11節  罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、  掟によってわたしを殺してしまったのです。

   これは、かってファリサイ派であったパウロの過去の体験の告白です。

  パウロを欺いたものは悪霊である。悪霊は、律法を手段として働く、この場合の律法は神の宿らない、神無き言葉だから、悪霊がそこに住み着くのです。   律法を媒介として悪霊は、ファリサイ派を欺く、彼ら自身は悪霊に欺かれている自覚がない。パウロもそうでした。

   自分は、神様から賜った律法を守っているから、神さまの前に正しくある者と考えていました。十字架にかけられたイエス・キリストを救い主・神と信ずるキリスト教徒を許すことはできませんでした。

   そのパウロは、キリスト教徒迫害のためダマスコ城外に来た時、雷に打たれたように、復活のキリストにとらえられ、回心し、迫害する者から、キリストの福音を伝える者とされたのでした。

 パウロは、 ガラテヤ書2章20節 02:20生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです、と告白している。

  悔い改めて悪霊を追い出しただけでは十分ではない。

 中途半端な悔い改めではだめなのです。ファリサイ派の人であっても、悔い改めの心はあったでしょう。バプテスマのヨハネの弟子たちは、悔い改めて洗礼を受けました。それだけでは、駄目なのです。聖霊降臨後のペトロ説教を聞いた人々は、大いに心を打たれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。すると、ペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言った。

   悔い改めて悪霊を追い出した後に、その心に賜物なる聖霊、神さまを迎えねばなりません。心の部屋にに神さまをどう迎えるかが問題なのです。

「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、聖霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ書2章20節)

神の宮・神殿 Ⅰコリント書3章16~17節 あなたがたは、自分が神の神

殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖

なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

Ⅱコリント書6章16節には、「わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。…』と主は仰せになる。

いつも、神さまがわたしたちと、共にいてくださることを願いつつ歩む信仰生活でありたいと願います。