日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.9.24「赦されたのに赦さない家来」

Posted on 2017. 9. 25, 牧師: 藤田 穣

聖書 マタイによる福音書18章21~35節
 18:21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 18:22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 18:23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 18:24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 18:25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 18:26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 18:27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 18:28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 18:29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 18:30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 18:31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 18:32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 18:33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 18:34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 18:35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 赦すこと
ペトロが、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」とイエスに尋ねました。 
当時のユダヤ教のラビ ヨセ・ペン・イェフダは教えている。「もし、人が一度罪を犯した場合には赦される。二度罪を犯した場合も赦される。三度罪を犯した場合も赦される。しかし、4度目に罪を犯した場合には赦されない」と教えている。
日本でも「仏の顔も3度まで」という言葉があります。慈悲深い仏さまも二度までは赦すが、三度も無礼なことをされれば怒り出すという諺があります。
ペトロは、3回よりも7回と考えたかも知れません。
ルカによる福音書17章1~4節には、イエスは弟子たちに言われた。「…あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と教えている。ペトロの頭にはこのことがあったのだろうか。

このルカにある教えから、ペトロは、7回まで許せばよいのですかと尋ねたのかもしれません。7回という限度を超えたら、8回目には、腹を立ててもよいという気持ちが潜んでいます。これに対して、主イエスは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答えたのです。
 7回の70倍、490回となります。昔、スエーデンの映画に「491」とい映画がありました。聖書のこの箇所から取られた題名でした。「1950年代のスエーデン。犯罪を犯した少年たちのところに、ある日、牧師がテープレコーダーを持ってやって来た。犯罪者の懺悔と讃美歌と説教が入っていた。主は490回の罪を許す、と。そのレコーダーに入っていたのでした。」490回までの罪は赦される。491回目はどうなるのか。そのことが映画のテーマになった。
 しかし、ルカにあるイエスの云われた7回も、この7の70倍も回数ではありません。

 少し寄り道しますが、
 7の70倍とは何か。旧約の故事を思い出します。
創世記の最初の人アダムの長男カインは、兄弟のアベルを殺す人類最初の殺人者になる出来ごとが出てきます。
兄のカインは、自分の献げ物に神が目を留められなかったのに、弟のアベルの献げ物を神が喜ばれたのに腹を立てて、弟を殺してしまったのです。
その後、後悔したカインは主なる神に言います。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが…、地上をさまよい、さすらう者となれば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」 神の前から追放されるカインに、主なる神は言われた。「いや、カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられ、その命を守ったのでした。神がなぜ、そうされたのか、謎であるが、神は明白に、カインの命を守る、意志を示されたのでした。
さて、カインの5代目の子孫、レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。(わたしは鉄の武器を手に入れた。)わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。 カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍。」この項は、旧約聖書最古の詩といわれる。(創世記4章1~24節参照) 
 神は、そのカインを殺す者は7倍の復讐を受けると述べたが、そうならば、私、カインの子孫であるレメクに対する復讐は77倍であると高らかに歌っている。やられたら、やり返す復讐、しかし、神は、ここで血の復讐を制限されたともいえます。血の復讐によれば、カインを殺すものに対する復讐は、その親族までが復讐の対象となるが、7人を超えてはならない。77倍も然りです。 マタイ福音書の7の70倍は、この創世記のレメクと同じに77倍をとる原典もあります。

さて、ここでペトロが言った罪という言葉ですが、何度か言っているようにギリシャ語の罪という言葉の元の意味は、「的外れ」という意味です。それは、正しい的である神を外すということです。私たちが考える犯罪の罪とはニュアンスが異なります。ペトロに、兄弟が罪を犯すならという場合、的外れのことをする、人間関係を損なうようなこと、傷つけるような失礼なことをするという意味でしょう。あるいは、相手がそう思っていなくても傷つけられたと考えることもありましょう。しかし、私たちの間で人の罪を赦すことは難しいことです。

しかし、7回も7の70倍も、ここで数字の回数のことを考えがちですが、7も70も完全数である。私たちは単なる数字と捉えるが、聖書の中では、完全数、完全に、無限に、無制限にと使われている場合が多いのです。ここでイエスは、人は兄弟の罪に対して無条件かつ無制限に赦すべきことを教えているのです。
主イエスは、このカインの故事に関連して関して、教えているのです。復讐の場合は、7倍、77倍と回数が制限されるが、それとは、逆に、罪の赦しについては、完全数として、無制限、無限に赦しなさいと教えられたのでした。

イエスは、私たちに人を赦しぬくことを求められたのです。私たちは、理想的な考えとしては理解できますが、現実には、なかなかそうはいかないというのが素直な感じではないかと思います。
でも、神さまですから、神の御子イエスですから、無制限なのです。人の罪の数など考えることはやめなさい。無限に赦し続けることが、真の赦しなのです。35節にあるように、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、」と言い換えています。赦す一方で何度赦したなどと数えるのではなく、心から赦すことが必要といわれたのです。
兄弟が今までに犯した罪を忘れ、その兄弟を赦したことも忘れるほど心から赦しきるということは、非常に難しいことです。ですから、イエスは、分かりやすい譬えを用いて、教えてくださいました。

王が僕たちと決算をする
王が僕たちと決算をする。これは人生の総決算の時です。天国は王が家来たちと決算をするようなものだと言われます。
王に一万タラントンの(負債)借金がある家来が、王のところに連れて来られます。しかし、返せなかったので、王は、自分自身と妻子をや持ち物をすべて売って返すように命じました。この家来はひれ伏してしきりに願った。「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願った。 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった、というのです。
しきりに願ったは、直訳では、拝み続けて、懇願し続けて、猶予期間をくださいと願ったのです。待ってください(マクロスメオー)は、怒りを先延ばししてくださいで、主君が、忍耐をもって待つて欲しいという意味です。
しかし、家来が返済するといった1万タラントンは、一人の人が一生かけても返済できる金額ではない。自分と妻子を売ったところで焼け石に水である、それほど莫大なものです。・
この家来の借金は、決算の結果、確認されたものです。その負債総額は、一万タラントンにのぼりました。1タラントンは、6000ドラクメ=6000デナリオンです。1デナリオンは、1日の賃金です。年収が300デナリオンとすれば、20年の年収になります。その1万倍ですから、20万年分の借金です。 
現在価値として、分かりやすく1日の賃金を1万円とすれば、10,000*300*200,000=60000000とすれば、現在の金額で6000億円となります。当時、ユダヤ全国からローマ帝国へ納める1年の税金の額が、800タラントン、先ほどの現在価値で480億円ですから、6000億円というのは、一人の借金・負債額としてはとんでもない金額です。
この主人がこの家来に同情してすべてを赦したのは、この家来が懇願し続けたからである。赦されなければ、彼は、家族全財産を失い破産しなければならない。この主人は、この家来に心から同情したのでした。この主人のとんでもなく憐み深いと思います。

ここに神の赦し、憐みが示されます。
私たちも神さまに1万タラントンに近い返済しきれない負債を負うている者ではないでしょうか。この家来と同じように、私たちが人生の歩みを進めているうちに、どんどん神に対する負債(罪)が増えてゆくのです。譬えの家来は何をしでかしたのでしょうか?あまり自分の負債を考えていなかったようにも思います。しかし、王が決算したら1万タラントンもの莫大な負債になっていたのです。この負債の事実は、私たちの側から負債に気付くようなものではないようです。私たちが決算のために王にの前に呼び出されたときに初めて神さまから明らかに示されるのです。
創世記にある、ヤコブの息子ヨセフの物語。ヨセフの兄たちは、父親ヤコブに溺愛されていたヨセフに嫉妬し、彼を穴に投げ入れて見捨てました。彼らは、その罪を完全犯罪と考え忘れておりました。しかし、飢饉の時、エジプトの宰相になった(ヨセフ)のもとから、小麦をヤコブのもとに運ぶ途中、末の弟べニヤミンの袋の口から宰相の持ち物である盃が出てきたのです。彼らは慌てて引き返し、兄弟を代表してユダは、地にひれ伏して宰相ヨセフ言いました。
「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです」と告白したのでした。(創世記44章16節)遠い昔に弟ヨセフを捨てた罪が甦ったのでした。
決算の時に、私たちが忘れていたその罪が明らかにされます。そして、決算において、神さまは、莫大な負債を全部赦してくださいます。
それは、イエス・キリストの十字架の贖いに示されます。イエスは、この譬えの通り、十字架の犠牲になって、私たちの罪を赦し、私たちが神さまの許に生きるように無限の赦しを、愛を示してくださったのです。
パウロは、エフェソ書2章4節で、「 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(エフェソの信徒への手紙2章4~6節)

さて次には、この主人と家来の出来事とは180度異なった光景が展開します。
借金をすべて免除された家来が、出てゆくと、百デナリオンを貸している仲間に会った。彼は仲間を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
この家来は、主君から莫大な借金をしていたのに、そこから横流しして、自分のお金であるかのように、仲間の家来に、百デナリオンを貸したのでしょう。先ほどの現在価値で、百万円を仲間に貸していたのです。彼には、借金の返済を迫る資格はないのに、怒って仲間を老役人に引き渡し、返済を迫ったのです。
私たち人間は、被害者となったときには、敏感だけれども、加害者となったときには、鈍感な者です。借りた金は忘れてしまうが、貸した金は絶対に忘れないのです。
この仲間は、この家来にひれ伏して懇願し続けた。この仲間は、待ってくれれば、返すから、少しずつでも返済すると約束した。しかし、この家来は、主君とは異なり、これを赦さず、 願いを聞こうとせずに、直ちに、仲間の家来を牢屋に入れ百デナリオンの返済をせまったのでした。
これでは、この仲間の待ってくれという願いにさえこたえていません。仲間が猶予期間を与えられて、借金返済のために働くこともできません。
 同じ仲間の家来たちは、この出来事を見て非常に心を痛めたのです。彼らは、1万タラントの借金のあった家来が主君から赦されたことの次第をみていました。彼らは、牢屋に入れられた仲間のことを自分の身に起きた出来事のように同情したのです。そして、主君の前に出て事の次第を報告しました。
そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
 主君は、率先してこの悪い家来を赦したのである。主君は、何かの思惑があって、家来を赦したのではない。自らの憐み、本心から赦したのです。それなのになんたることか。
主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、直ちに家来を牢役人に引き渡した。この家来は、自分に借金のある仲間の家来を牢役人に引き渡したが、折角、赦されたのに、仲間を赦さず、自分自身も主君によって牢役人に引き渡されたのでした。
 イエスがかって教えられた「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ福音書7章2節)の教えを思い出します。

 主イエスは、結びの35節で、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
 もし、あなたがたが心から兄弟たちを赦さないならば、あなたがたの父もあなたがたの過ちを赦さないだろう。
山上の説教で、「06:14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 06:15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ福音書6章14~15節)
 自分が本当に神の憐みによって赦されているならば、仲間を赦せるはずだ。赦せないのは、実は、神から赦されていないのです。

 この譬えの23~27節 は、神さまと私たちの問題です。この後半の神さまから負債を免除された家来は、現実の社会に戻ったときに、人間対人間の間の現実生活を示しているのです。
 この譬えは、ユダヤ人は、信仰深いと言われた律法学者、ファリサイ派の人々に向けられている。彼らは、自分たちの罪が神から赦され、憐みを受けているのに、ユダヤの同胞たちの小さな罪を赦さず、責め立てている現状を非難しているではないか? 
しかし、主イエスは、誰でも悔い改め、回心し、仲間たちに憐みの心を持つならば、父なる神は、いつでも、何度でも、罪を犯したとしても赦してくださるというのである。
 ヨハネⅠ書 4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

 ここで説教を終わりますとこの譬え全体が矛盾に満ちた中で終わってしまいます。1~2の補足をします。
 この譬えの前半では、無条件に徹頭徹尾赦されているのに、後半では条件付きの赦しになっているのではないか。という疑問が残るのです。
 北森嘉蔵先生は、この譬えを素直に受ければそうなるのです。…しかし、ペトロの質問に対するイエスの答えは徹頭徹尾赦すと言っておられるのです。
しかし、譬えの後半で、徹頭徹尾の赦しが曇らされている。人間の赦しが条件化されているように見えるのです。表現様式としては、人間の赦しがなければ、神の赦しもなくなるという様式をとっています。
神の莫大な赦しが、些細な赦しを当然求める。その些細な赦しを実行しない者に対して、神は憤るのだと、その憤るという表現を通して、いかにも神の赦しが帳消しになるかのような形をとったのだろう。というふうに解釈したいのです。つまり憤りの強さです。
北森先生は、聖書の表現様式を素直に受け取りながら、しかも基本精神に沿ってこれを解釈しなければならないというのは、聖書解釈の使命ですからこういうふうに解釈したいと思います、と仰っています。

 もう一点、主の祈りをとおして考えます。
 マタイによる福音書6章12節 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」
 主の祈りでは、「我らに罪を犯したものを我らが赦す如く、我らの罪をゆるしてください。」の部分です。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と言う前半部分が気になるのです、引っ掛かりながら祈っている人もおられるのではないでしょうか?
マタイでは、「自分に負い目のある人を赦しましたように」、ルカでは「…赦しますから」となっていて、どちらかと言えばルカの方が祈り易いが、私たちには迷いが残る。 昔のラビは、「神から赦しを願う前に、人は先ず自分の隣人を赦さねばならない」と教えたという。この点に注目すれば、神に赦して頂くことと、自分の隣人を赦すこととは切り離して考えることはできない。 
主の祈りは、この二つが一体であることの告白と言ってもいいだろう。
この主の祈りの精神は、神さまが私たちの罪を赦してくださるときの、その恵みの深さを味わい知るために、その万分の1でも味わい知るために、わたしがわたしに罪を犯した兄弟の罪を赦すことにいたしますという精神ではないでしょうか。