日本キリスト教団 東戸塚教会

2017.9.3「善と悪の共存する世界」

Posted on 2017. 9. 6, 牧師: 藤田 穣

聖書 マタイによる福音書13章24~30、36~43節
 13:24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 13:25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 13:26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 13:27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 13:28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 13:29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 13:30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
 13:36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 13:37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 13:38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 13:39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 13:40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 13:41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 13:42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 13:43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 映画 夜明けの祈り
 第2次大戦後の1945年、占領軍ロシアの侵攻によって起きたポーランドの女子修道院の悲惨な事件をフランスの女性監督が映画化した。ソ連軍の暴力は、ナチスさえあ手を出さなかった修道院に対しても容赦なかった。兵士たちの暴行により、7人の修道女が妊娠する。次第に大きくなる修道女のお腹、なす術もない。一人の修道女が意を決してフランス軍赤十字の野戦病院に駆け込む。診察を懇願された女性医師マチルドは、ポーランドの赤十字に依頼したらと拒否するが、修道女の熱意に動かされて修道院に赴く。何故、同胞ポーランド赤十字に依頼しないのか。ポーランドの人たちには知られたくない。いくら暴力の被害者とはいえ、修道女の妊娠は、恥であり、修道院存続の危機になるのだ。
  修道院で目にしたのは、信仰と妊娠という両立しない現実に苦しむ修道女たちのすがたであった。診察を始めようとすると、修道女たちは何しに来たかと怪訝な表情で協力的でない。不幸な事件とはいえ、神にのみ仕える誓願をした修道女が身ごもった事実、有得ざること、誰をも責めず、誰をも恨まず、神に赦しを日々を送っていたのだ。体の不調を訴えつつも、他人に肌を見せてはいけない戒律との葛藤、しかし、フランス人女性医師の奮闘と修道院No2のシスターマリアの協力のもとに診察は続けられた。そのような重荷を負いつつの修道の日々、讃美の聖歌の美しい調べのなかで信仰とは何かがとわれる。
  やがて、一人の修道女に出産の時が訪れる。生まれた子供は、修道院長が知り合いの叔母に里子にだすと連れて行った。二人の子供が院長の伝手で里子にだされた。母性に目覚めた修道女の一人がわが子にあうべくその叔母さんの所に行くと、院長が子どもを連れてきたことはないという。 院長は、修道女の妊娠、お産をかくすべく、生まれたばかりの子どもを森の中に置き去りし、闇に葬ったのだ。わが子を殺された修道女は、自殺を図った、修道院の体面と幼き命の大切さとの天秤、院長の罪が問われ、院長は、幼子を手にかけたことを告白し、自室に籠った。
  後に続く、赤子の誕生、その運命やいかに。これ以上のネタバレはやめます。ただ映画はハッピーエンド?終わります。
  この修道院で診療活動をしたフランス人女性医師マチルドは、その後、事故のために死んでいる。映画は、女性医師の医療記録をもとに作られた。
  戦時下のソ連軍の暴虐事件は、ほかにもある。しかし、神の良き世界が期待される修道院のなか、しかも修道院長が悪魔の触手に屈したたことに、衝撃を受けた次第です。

 今日は、主イエスの教えられた毒麦の譬えを学びます。
毒麦のたとえ
 この譬えには、小麦に交じって生育する毒麦が出てくる。この「毒麦」という植物は、日本語・和名でドクムギ(Lolium temulentum)、イネ科の道端や荒れ地でたまに見られる雑草の一つ。西アジア起源が指摘されている。世界中の温帯域に分布し、日本には、明治年間に帰化している。聖書にある毒麦に近いものであろう。毒麦の外見は小麦に似ており、ともにイネ科です。ただ、小麦にはありませんが、毒麦は、「菌が寄生して有毒なアルカロイドを産出する、麦角病が発生するのだそうです。この麦角アルカロイドを含む毒麦を食べると、循環器系や神経系に対して様々な毒性を示すし、時には、死に至ることがあるそうです。
 毒麦は、穂が出ないうちは、コムギと判別しづらい。根もコムギと入り組んでいるため、抜くと麦も一緒に抜いてしまう危険性がある。穂を出せば区別できるので、収穫まで一緒に育つままにしておくように命じたというこの聖書の言葉の意味が理解できる。
植物学の権威故牧野富太郎博士の著書の中(植物一日一題)で、「小麦粉を配給した際に食中毒が発生したことがある」と戦後の新聞の記事が取り上げられており、博士はこれは「毒麦」が混入したせいだと指摘しておられます。
 現在は、毒麦の穂が混入しても、製粉技術の発達により、製粉段階で除去できるそうです。

 毒麦の譬え
この「毒麦のたとえ」の記事の前半の24~30節は、マタイ特有のものです。ここで語られるのは、「天の国のたとえ」です。天国、神の国は、神の支配の完成を目指しますが、その間に起きるこの世界での出来事がここに語られているのです。
  ある人が、小麦の種を蒔いた。小麦の種を蒔いておいたのに、毒麦が生えてきたので、僕たちが抜きましょうかと主人に尋ねると、収穫までそのままにしておきなさい。芽が出て茎が生えた状態では、見分けがつきません。麦の穂が出てきて初めて毒麦の穂があることに気がつくのです。そこで、僕たちは、毒麦をぬきましょうかという訳ですが、主人は、収穫の時までそのままにしておきなさい、というのです。毒麦と小麦の穂がはっきり区別できるのに何故でしょうか?
 毒麦を抜くときに小麦まで抜いてしまうかも知れない。小麦と毒麦は根までが絡み合って生育していることが多く、小麦が実って、収穫してから選別する他はないのです。

 何故、小麦の良い種だけを蒔いたのに、毒麦が混入したのか。  毒麦の種が小麦の畑に蒔かれたのです。人々が眠っている間に、私たちには考えられないことが起こる。この主人は、敵の仕業だという。これが、神の国で起こる出来事だという。
 この譬えの説明で、「37節、良い種を蒔く者は人の子、 13:38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 13:39毒麦を蒔いた敵は悪魔とある。 人の子である神の子が良い種を小麦を蒔いたのに、サタンが毒麦の種を蒔いたのである。
 神の造られた世界でこんなことが起こるのか。神は良き世界を創られたのに。
 創世記の天地創造の時、神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。…第六の日である。天地万物は完成された。 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。…これが天地創造の由来である。(創世記1章31節~2章4節)
 すべて善きもので満ちた世界を創られたのに、なぜ、悪魔が存在するのか。
 ヨハネ福音書12章31節では、悪魔(サタン)をこの世の支配者と呼んでいます。サタンは、「偽りのしるしや欺きによって、自分の目的を達成しようとします。Ⅱテサロニケ書2章9~10節。神に敵対する者としてこの世界に存在するのです。
 その由来は、堕落した天使としてされております。 ヨハネ黙示録12章7節以下には、悪魔が地上に存在する理由が記されています。「 さて、天で戦いが起こった。天使ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。 この巨大な竜、年を経た蛇、即ち、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。 これが堕天使と呼ばれる、サタンと悪霊たちである。
 サタンは、神に敵対するものとして存在する。神さまの支配のもとで、悪魔は存在することが容認されているのです。
 
譬えから2~3のことを考える。
神が刈入れまで毒麦を抜かれるのを待たれる理由
 28節以下、主人は、独麦がまかれたのは、サタンの仕業だと言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 (収穫の)刈入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。

わたしたち個人のことを考えると、
わたしたちの心の畑に、神さまの種がまかれたのに、悪魔の種がついて回るということです。両者が戦うというのではない。塚本虎二先生は、それが悪魔の悪魔たる所以だという。神さまの種を奪おうとしないで、そこに自分の種を蒔く。ある意味では、終わりの時まで葛藤を起こさない。そこにサタンの恐ろしさがあり、同時に、神さまの恵みがある。すぐ葛藤を起こすと神さまの種も育たない。抜こうとすれば両方とも抜いてしまう。
すべての人が神さまの良い種を頂いたのに、その次にサタンの種がまかれる。
人間的にサタンの種を人間的に抜こうとしてはいけないというのである。

畑は世界である
しかし、世界は善悪が交錯している。この譬え明白なことは、この世の悪人の存在は神の容認していることだということです。神は、なにゆえか、最後の日まで、善人と悪人を共存し給うのです。
わたしたちの社会では、正しい人、立派にいきている人が正当に認められて社会をリードしているとは限りません。不正な人や巧みに立ち回る人がかえって力を持ち、社会をリードすることさえあります。それは、正義と悪が混合する社会と言えるでしょう。
何故、この世に悪が存在するのか。良い人より悪い人の方が力を得て、得をしているように見えるのか。その不条理に心を乱されることもしばしばです。
聖書はその事実を確認しているようです。箴言15章3節「どこにも主の目は注がれ/善人をも悪人をも見ておられる。」そして、歴史を支配し給うのは神であることが示されています。主イエスは、教会やこの世の現実を覚めた深い目で洞察することを教えているように思います。

加藤先生が恩師であるドイツのボーレン先生から聞いた話を紹介しています。
自分にユダヤ人の友人が出来た。その人は、ナチス・ドイツの時代に捕らえられて、長い間強制収容所で過ごすことを余儀なくされた。強制収容所の悲劇的な残酷な体験がさまざまな形で伝えられているが、世間で伝えられている体験談には反対である。強制収容所の中に生きた人々は、そこは、神の存在を信ずることのできない「神なき世界」であったというのが通例である。
しかし、我々は強制収容所の中で信仰を失ったことはなかった。わたしは讃美歌を歌うことができた。こうした言葉を伝えて、ボーレン先生はいうのです。このユダヤ人の方が現実的だ。この方が信仰の現実に生きるということだ。この世界はもっと美しい筈だと思っている人間には、(強制収容所は)耐えがたい地獄の世界かもしれない。しかし、そこにこそ明らかに人間の現実の姿が現れる。そして、そこでこそ、神は生きておられた。そこでこそ、「我らの望みは神にある」と讃美歌を歌うことができた。 これが私たちの現実であった。
わたしたちにとって、そんな世界が可能か?と思います。しかし、彼らにとってこれが収容所生活の現実だというのです。

この世で生きる現実
私たちは、毒麦が毒麦であることをきちんと弁えながら、毒麦と共存しながら凌いで生きてゆくことではないだろうか。何が悪で何が善か、ふるい分けるのは神様です。「神が必ず勝利なさる」ことを信じ、望みをもって生きることが、大事なのです。それに打ち克った人たちが、父の国で太陽のように輝くのです。
パウロの手紙、今、かをりゆ会でコリント信徒への手紙を学んでいますが、そこには、コリント教会の現実が記されています。自分はペトロにつく、自分はアポロにつく、自分はパウロにつくという党派争いがあり、不道徳が語られる。自分の義理の母と同棲している人の存在が普通に許されている。偶像礼拝をする人もいる。パウロは、その人たちと共生しつつ、戦い正しい道に導くのでした。
教会は独麦の存在に気がついても、刈り入れを待つ共同体なのです。パウロも、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は云われる」(ローマ書12章19節)と記しています。

神さまの願い
世界は畑である。この畑には、良い麦と毒麦があります。
私たちはともすると、この人は良い麦だ、あの人は毒麦だと決めがちです。
しかし、主イエスは、すべての人が良い麦になって欲しいと願っています。
毒麦はいくら待っても毒麦です。しかし、わたしたち人間の毒麦は、神の恵みにより良き麦に変わることがありえるのです。
一本の麦でさえ、抜かれて焼かれないようにという愛がこの主人(神、キリスト)にあります。私たちは、この主人の過分な配慮の中で待たれている人間であること知らねばなりません。
毒麦を抜いて焼いてしまおうというのは、私たちの心にある毒麦です。わたしたちもこの世界が良い麦に変わることを願い祈り行動したく思います。
それ故、主イエスがご自分の語られたこの譬えを、ご自身の十字架の犠牲において、超えられたのです。
主イエスは、十字架において自分を十字架につけた人たちのために祈りました。{父よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか知らずにいるのです。}(ルカ福音書23章34節) 主イエスと共に十字架につけられた強盗の一人が改心して「イエスよ、あなたが御国においでになるときにはわたしを思い出してください」といった、イエスは、「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいる」(ルカ福音書23章41節以下)毒麦が麦に変えられたのです。毒麦も麦に変えられる日が来る。だれも毒麦として引き抜かれない日が来ることを待たれているのです。キリストが蒔いたみ言葉によって新しくされる世界があるのです。悪魔が神と最後まで戦い、競り合うのではありません。神が勝利して悪魔から人々を解放する日が来るのです。39節以降にサタンを裁く神の姿があります。すべての人の救いを待ってくださるかみの恵みの真理に立って歩みたく思います。
Ⅱペトロ書3章8節  愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ローマ書2章4節「 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」

讃美歌21で511ですが、歌詞がもとの讃美歌276の方が」好きです。讃美歌276 光と闇との  の歌詞を読んで説教を終わります。
 光と闇との 行きかう巷、 いずれのかたにか つくべきわが身、燃えたつ命をみまえにささげ、今しも行かばや、まことの道を。
 誉と栄を  受くるは誰ぞ、 ときわの冠りを  受くるは誰ぞ、義を見ていさめる  ますらおなれや、臆するものには 悔いのみのこる。
③ 血しおに染みたる なやみのみちを、十宇架の御旗を かざしてすすみ、けわしきカルバリ  しく過ぎて、あめなるみくにへ  さきがけのぼらん。
④ この世の勢い みなぎりあふれ、悪魔の剣はは  はむかい来とも、いかでか阻みえん、光のみくに。仰げや、わが主はみぐらにいます。        
  祈ります。