日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.01.28「悔い改めて福音を信じなさい」

Posted on 2018. 1. 29, 牧師: 藤田 穣

聖書 マルコによる福音書1章14~15節
  01:14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 01:15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

  西郷(せご)どん
  現在、NHKの大河ドラマとして、放送されている「西郷どん」こと 西郷隆盛は、聖書を読んでいたと云われます。彼の揮毫、南洲書「敬天愛人」は、キリスト教から来ている。「敬天愛人」は、西郷が生み出した言葉ではない。この言葉の由来は、18世紀、中国の清の時代に遡ります。当時、清に進出していたカトリックの宣教団体は、イエズス会、ドミニコ会とフランシスコ会でどの宣教団体を清国が認めるか問題になっておりました。イエズス会は最も早くから中国に進出し、中国古来の祭礼や祖先崇拝を認めておりました。このようなイエズス会の在り方を他の2団体がカトリックの教えに反すると非難、ローマ法王もイエズス会を非難したことから、清の皇帝康煕(こうき・1671~1722年)は、ローマ法王と対立、イエズス会だけが、中国伝道を赦されたのでした。康煕は、その認可の印として、イエズス会の会堂に飾る額に、「敬天愛人」の文字を揮毫、贈呈したのでした。
  そして、明治時代、英国でキリスト教の影響を受け、後にクリスチャンになった啓蒙思想家・教育者中村正直は、 明治天皇に洗礼を勧めた人物としても知られます。彼は親交のあった西郷に西欧事情やキリスト教について話したのです。西郷は既に、漢訳聖書( 中国語)を読んでおり、そこに自らが学んだ儒教・陽明学を超えた真理を見出していたのかも知れません。「敬天愛人」、敬天の天は、天地の創造者なる神を指し、その神は人間を愛され、語りかける神であります。内村鑑三は、西郷の好んだ「敬天愛人」の教えには、明らかに、人間に語りかける人格を持たれた神という認識があったと指摘しています。
  百万人の福音の2月号に、西郷隆盛は、聖書を教えていた、私を信仰に導いてくれた恩人西郷さんという記事がありました。この証言をしたのは、鹿児島バプテスト教会員の川邉二夫(かわなべ つぎお)さんです。川邉家はもともと薩摩の豪族で、一向宗を信仰、一向宗を迫害した島津斉彬と対立、両者の間をとりなしたのが川邉家と親交のあった西郷隆盛でした。しかし、その結果、川邉家は、一向宗を信じることを禁止されたのでした。明治に入り西郷と川邉家の交流が再開、この時に西郷は、川邉家で聖書を教えたという。
川邉二夫さんは、中学生の頃、父親からひいお爺さんが、青年の頃、西郷さんが川邉家を訪れ、耶蘇教の経典を教えてくれたということを父親から聞いたそうです。一向宗が禁じられ無宗教だった川邉家に耶蘇教の話を聞くことに抵抗はなかったということです。残念ながら、西郷亡き後、聖書研究が無くなると、川邉家は自然に一向宗に戻っていたということです。川邉二夫さんの父親もクリスチャンではではなく、遠くから西郷のキリスト教の香りに憧れていた二夫さんは、あることから聖書に触れ、教会に行くようになったのでした。聖書を読んでいた西郷さんのことを思うと、毎朝、聖書の言葉を、お経のように唱えたそうです。 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が、一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節) 
 川邉二夫さんは、「まさに、私にとって、西郷さんは、信仰に導いてくれた恩人と云える人なのです。」と雑誌のインタビューに答えたのでした。

 マルコによる福音書
 本年も聖書日課に従って、聖書を学びます。本年の聖書日課は、主にマルコによる福音書です。マルコが福音書を著したのは、「ナザレの大工イエスが自分たちユダヤ人待望していた救い主(メシア・キリスト)であったということを読者に証しするためです。
マルコは、初代教会の信者が、文中の人物を自分と同一視化することを意図して書いていると聖書学者秋田稔先生が言っておられます。聖書の呼びかけに応える読者を想定しているのです。聖書は対話の書、CALLING RESPONSE です。神は、人間をご自分にかたどって造られ、呼びかけられたと創世記にあります。血の通った命と命の出会いの書として、マルコ福音書と向き合わうことが求められます。わたしたちに何か問われ、どう応答するかが求められます。
マルコ福音書は、他の共観福音書より短く、最初から結論を急いでいるようです。神学校時代に教えられたのは、マルコは、十字架の苦難・死に向かって一直線にイエス・キリストを証しているということです。

 ヨハネが捕らえられた後に
 イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、荒れ野での試練の後、ヨハネの許で暫く活動していたと思われる。
ヨハネ福音書3章24節以降、「03:24ヨハネはまだ投獄されていなかった。 03:25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。 03:26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人(ナザレのイエス)が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
 ヨハネがヘロデによって、獄に引き渡されたとありますが、何故捕らえられたかの説明はありません。ヨハネは、時の権力者ヘロデに対しても、ヘロデが異母兄の妻ヘロデアを強引に妻としたことを姦淫罪として糾弾したのです。その結果、ヘロデの逆鱗に触れ、逮捕され投獄されたのでした。
 この引き渡されたというギリシャ語のパラディドミは、ヨハネとイエスに使われている専門のギリシャ語です。それは、イエス並びに先駆者ヨハネを、受難に引き渡すのは、神の計画であることを示唆しているものと云われます。
 マルコ福音書の読者は、ヨハネとイエスの運命との間に共通する出来事を見るのです。怖れを知らないヨハネは、ヘロデに対し、悔い改めを迫り、拒絶され、逮捕される。王妃へロディアは、ヨハネの死をたくらみ、ヘロデが気が進まぬのに、彼女らの諫言に載せられ、処刑してしまう。しかし、その後、マルコ福音書06:14イエスの名が知れ渡ったのが、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 06:15そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 06:16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。処刑をしたヘロデが、預言者ヨハネの究極的勝利を信じている。 マルコは、ヨハネの受難を記すことで、読者にイエスの受難を予感させるのです。
 
 ガリラヤへ
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
 バプテスマのヨハネは、宗教政治の中心エルサレムから遠く離れた死海近くのユダヤの荒れ野で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫んだ。イエスは、ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き、福音を述べ伝え始めた。ヨハネは、人間の住む町から離れた荒れ野であったのに、イエスは、故郷の町、人々の住むガリラヤの町から宣教を開始される。 ガリラヤは、イザヤ書で「異邦人のガリラヤ」と呼ばれており、イエスは、辺境の地、「異邦人のガリラヤ」から神の国の福音宣教を始めるのです。それは、都エルサレムから疎外され、異邦人、ユダヤ人から人間扱いされなかったような人々と共に生きるためであったのでしょう。
  イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
時が満ちた。ギリシャ語の「時」という言葉には、「カイロス」と「クロノス」がある。クロノスは、高級腕時計専門誌クロノスと名がつくように、この世の時を表しますが、この箇所で使われている「カイロス」は、神の計画に示される時で、「時が満ちた」は、神による約束の時、終末の時の経過期間が満ちた、「満期の時」を表します。
 「神の国」と訳された「バシレイア」は、「神の支配」を意味します。神が王として支配すること、神の栄光、正義、平和、救いを意味します。 
神の国が近づいた(エーンギケン)は、進行形か、完了形、到来しつつあるか、到来したかに議論があるところです。わたしが習ったC・Hドットのテキストは、「神の時が満ちた」のだから、神の支配が実現した。すでに、イエスの到来において神の支配も実現したと解釈しています。
この「神の国は近づいた」について、加藤常昭先生は、カトリックの司祭の本を引用して説明しておられる。駅で電車が来るのを待っている。電車が来るのをアナウンスが知らせてくれる。「電車が来ますから、白線の後ろに下がってください。」これは、間違っているという。日本語で正しく云うならば、「電車が来ましたから、後ろにさがってください」というべきだというのです。それは、電車がそこまで近づいたら、私たちと一つの関係が生まれ、今もう下がらないと危険だということなのです。電車と私たちと関係が出来てしまった、わたしたちとの関係の中に電車がもう入って来たのだということなのです。
  イエスが神の国は近づいたと云ったとき、それは、さきほどの電車と同じなのです。神の国が近づいている。あなたの魂の戸口まで来ている。もう、あなたと関係が出来たからこそ、悔い改めなさいという切実な求めが叫ばれたのです。神さまがあなたのすぐ傍に来て関係を持ち始めた、それを受け止めて、神さまの支配を、あなた方は受け入れなければならない。

  それは、神の側で、私たちをその国に迎え入れる用意が出来た。だから、悔い改めなさい。 回心せよ、立ち帰りなさい。神に立ち帰りなさい。神の側からの一方的な恵みによって、私たち人間を救う準備がされた。罪を赦された心のみが福音を正しく受け入れることが出来る。
  神の支配は、愛による支配です。この神の愛が、イエス・キリストをして、私たちの罪の赦しのために、血を流させ給うのです。私たち人間の贖いのために命を与えてくださるイエス・キリストの愛によって建てられる神の国なのです。

 福音とは何か。田川建三先生は、福音とはイエスの教えであると同時にイエスご自身のことであると云う。まさに、その通りである。福音を信ずるとは、イエスに従う者がイエスに従って生きることである。それは、イエスに信頼して、イエスに身を委ねて生きることである。イエスの弟子と
して、機会あるごとに福音を人々に宣べ伝えることです。 
イエスは、あれか、これかの決断を私たちに迫る。神の支配は、そこまで来ている、神の支配に従うのか、この世の権威に従うのか。決断を迫られている。
 
イエスの福音を信じた主の弟子たちペトロは、ペンテコステにおいて、聖霊の力を受けたとき、「わたしたちが十字架につけて殺してしまったイエスを、神は、復活させ主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒言行録2章23~24節、36節) 私たちが十字架に渡したイエスを証しし、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」と人々に勧めたのです。
  
  イエスの宣教には、福音を信じることの緊急性が込められている。神の子が人として地上に来られている驚くべきことが起きている。今や、恵みの時、今こそ、救いの日なのです。
  福音は「いつか」信じれば良いというものではなく、いつか。「今、信じなさい」と命じられているのです。
  そして、信じて従っていると思う者には、喜びの福音の源である神さまの方を向いているか、主の十字架に向いているか、主の復活の方を向いているかを問われます。主イエスの喜びの福音を素直に聴ける自分で
あるかを問われます。