日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.1.21「神の協力者として」

Posted on 2018. 1. 22, 牧師: 北島 敏之

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1~10節

 06:01わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 06:02なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 06:03わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 06:04あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 06:05鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 06:06純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 06:07真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 06:08栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 06:09人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 06:10悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ福音書5章17節)

安息日にイエスは、38年間病気に苦しんでいた人を癒した。ユダヤ人は

言った。「今日は安息日だ。病気を癒すことは、律法で許されていない。」

 安息日論争へのイエスの回答は、「わたしの父は今もなお働いておら

れる。だから、わたしも働くのだ。」であった。

 神は今も働いておられる。外に出て、見る自然の美しさは、「天は、

神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩編19篇1節)の通り

神は今もなお生きて働き給う。「野の花がどのように育つのか、注意し

て見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。栄華を極めたソロモンでさえ、

この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイ福音書6章28)

そこにも、神は生きて働き給う。

神は常に働いておられる。だから、それに合わせて人間も歩む。それ

が、神に創られた人間の務めである。人生の意義は、神の御旨に従って

歩むことだ。

 今日の聖書箇所、「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがた

に勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」これは、「私の父は、今も働く」と同じ趣旨である。「神の協力者」は、口語訳では、「神と共に働く者」である。神と共に働く者として、世の初めから働き続ける神の働きに参加、協力して働く、これが人間の正しい生き方である。

東戸塚教会の献堂3周年に当たり、この聖書の言葉から聞きたい。

「神の協力者」、この言葉は一歩間違えば誤解を生む。この言葉に関して、アウグスティヌスは、ペラギウスと論争した。ペラギウスは、人間は神の協力者である。人間の救いは、神の働き、恩寵・恵みでは不十分、人間の働きが必要であると「神人協力説」を説いた。アウグスティヌスは、人間が救われるのは、神の恵による。人間の救いに、人間の働きが必要となれば、聖書のメッセージとは異なる。それでは、自分の救いは、神の恵み半分、半分は自分の働きとなる。アウグスティヌスは、ペラギウスの主張を異端とし、後の教会会議で異端とされた。

神の協力者・神と共に働く者 これを協力説とするのは誤りである。

協力説では、神と人間を同じ平面に並べている。A+B=C A>B、B>A 神の恵が80%、人間お働きが20%、それだけではいけない。人間70%、神30% このように並べて足し算をしてはいけない。

神の協力者、共に働く者は、同じ平面にあるのではない。

コロサイ書1章28~29節でパウロは、「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」と教えている。

パウロは、知恵を尽くし諭し教えている。人間の責任100%、労苦している人間お責任、パウロの責任感、神人協力説100%、人間の自力100%、それは人間の責任か。救いは、自分が力を尽くし、努力すること?

コロサイ書1章29節で、パウロは、「わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」とある。神の力が、力強く働いている。キリスト何%、人間何%ではなく、神の立つ立場、人間の立つ場は次元が異なる。100%努力するパウロを、キリストが支えてくださる、神の力が100%働いているのである。100%努力する人間を神が底から支えてくださるのである。

1節の神の協力者は、神の力の働きに従い、自分が働く者として、神の御業が100%働く後に従い、歩みながら努力している。

別の云い方をすれば、1節後半、「神からいただいた恵みを無駄にしない」ということである。

恵みを受けるだけで応えていない。人間は、神さまに頂いた恵みを無駄にしてはいけない。

神と人間の間の関係は、人格関係である。「応答しない」は。人格関係に非ず。人格関係であれば、恵みを受けたらそれに応えるのである。

神の協力者として、神の恵に応えて働く。

自力と他力の問題は、宗教の根本問題である。自力と他力、仏教も相いれる。聖書の「神の恵み」は、他力主義とはいえない。それでは、恵みに応えられない。「神の恵みのみ」となると、他力主義になり、何も

しない。努力しない。他力主義の他力本願は、無責任、怠け者の代名詞となる。

 神の協力者は、神の恵に応答せずではない。応答している。恵みを無駄にしない。パウロの背景、コリント教会は、恵みを豊かに受けている。しかし、応えていない。今日のわたしたちも、恵みを受けただけで応えない信仰ではならない。

2節「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」「わたしは恵の時にあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。」(イザヤ書49章8節・口語訳)

 私たちは、恵みに相応しい生活をしていない。神の恵を当たり前に思っている。私たちの罪を赦すために、神の子が十字架の苦難、死をもって贖ってくださった恵みをないがしろにしている。

 ある方は、「恵みの手帳」を持ち、神の恵を思うごとに書き留めて

おられる。頭の中に書き込んで忘れない。詩編103篇2節に、「主の恵みを忘るる勿れ」(文語訳)後ろ向きだけでなく、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、前に進む(フィリピ書3章13節)神の恵を忘るる勿れ、そのすべての恵みを忘るる勿れ、神の恵を思い起こす。

 数えてみよ、主の恵みである。COUNT OF BLESSINGパウロは、人生の困難、苦悩の中でも喜ぶ、感謝の人である。彼は、自分の受けた恵みを鮮やかに思い起こした。塵にも足りない自分を救ってくださったキリストの恵みを忘れない。

 パウロの信仰生活は実践的である。神の恵み、恵みを数える。

COUNT OF BLESSING

 恵みに応えて頂きたい。神から与えられている恵みを受け止め、応えつつ、真剣に進んで行って欲しい。

 この東戸塚教会の歩みを、神が導いてくださるように。