日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.10.14「エリコ陥落」

Posted on 2018. 10. 15, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨシュア記6章15~20節

 6:15 七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。6:16 七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。6:17 町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。6:18 あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。6:19 金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」6:20 角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。

 急に寒くなってきました。お体お気をつけください。

 テレビのニュースで、動物がマンションの壁を這い上がっていました。下から見ている人はハラハラしながら上を見上げていました。すると、20m位登ったところでバサッと落ちてきました。砂地に落ちると脱兎のごとく逃げてゆきました。動物の正体はアライグマでした。

 行く手に高い大きな壁があったら、皆さま、どうしますか。ヨルダン川を渡ったイスラエルの人々の行く手に大きな壁が現れました。高さ7m、厚さ2mのエリコの町を取り囲む城壁です。

 イスラエルの指導者になったばかりのヨシュア、今までは、いつもモーセの云う通りにしてればよかったのです。これからは、自分が先頭に立って働かねばなりません。困ったなあ、どうしよう。自信がありませんでした。心配していると、神さまが仰いました。

 「ヨシュアよ。今、あなたはこの民と共に、…わたしがあなたがたに与えようとしている土地に進みなさい。モーセに約束したとおり、わたしはあなたたちの足が歩く所をすべてあなたたちに与える。1:5 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。1:6 強く、雄々しくあれ。ヨシュアよ、うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

 指導者として立てたヨシュアに神さまは、いつも共にいると約束してくださいました。神様がヨシュアに言われた言葉、「雄々しくあれ、強くあれ」は、昔のこども讃美歌にあり、良く歌いました。

 ヨルダン川を渡ったヨシュアやイスラエルの人々が、目にしていたのは、高い石の壁に囲まれたエリコの町でした。イスラエル人がヨルダン川を渡ってきたことを知ったエリコの人たちは壁の扉を閉じて、町の中に一人も入れないようにしました。

 神さまは、ヨシュアにおっしゃいました。「わたしはエリコの町をあなたたちに上げましょう。あなたたちは、列になってエリコの壁の周りを行進しなさい。一日一周ぐるりと回って、それを6日間続けなさい。7日目には、7周回りなさい。その後、祭司が角笛を長く吹き鳴らしたら、皆で大声で叫ぶのです。そうすれば、エリコの壁は崩れます。」

 ヨシュアは、早速、神さまの命令をみんなに伝えました。町の壁の周りを行進するだけなのです。「エッツ、それだけ」と皆思いました。不思議な戦いです。こんな戦争聞いたことも、見たこともありません。それでも、ヨシュアもイスラエルの人たちも、神さまの命令に従いました。

 行進の先頭は、刀や槍を持った兵隊たち、その後から、7人の祭司が角笛を吹きながら歩きます。その後を契約の箱(神さまが一緒にいてくださるしるし)を担いだ祭司たちが歩みます。そして、その後を兵士たちが歩みます。声を出すことは、禁じられていたので、祭司たちの吹く角笛のブオー、ブオーの音とザッ、ザッ、ザッという歩く足音だけが壁の周りに響きます。1周回るとテントに戻って休みます。2日目、3日目、4日目と同じように行進します。「今日も来たぞ」「一体何のつもりだ」「どこから入るか調べているんじゃない」壁の上や小さな窓から見張っていたエリコの人々は、だんだん心配になって来ました。5日目、6日目もイスラエルの行進が続きました。

 いよいよ約束の7日目です。朝早くから列になって行進です。この日は、一日で7周回りました。「何だ、今日はなかなか帰らないぞ」エリコの人たちが見ているなか、「ザッ、ザッ、ザザザ」足音を響かせ、「ブオー」と角笛を吹きながら行進しました。7周の最後に、祭司たちがブオーッと長く角笛を吹きならしました。その時、ヨシュアが皆に「さあ、大声で叫びなさい。みんな思い切り大きな声で「ウオーッ」と叫びました。すると、分厚く頑丈なエリコの壁が、ガラガラと音を立てて崩れてしまいました。

イスラエルの人々は、くずれた壁を越えて、町に突入し、神さまのお言葉通り、勝利を勝ち取りました。神さまはまさかと思う方法で、ヨシュアとイスラエルの人々を助けました。皆さんがヨシュアだったら、神さまの言われた行進の方法に素直に従うことが出来たでしょうか?わたしたちも、ヨシュアのように神さまのお言葉をしっかり聞いて、その通りに従う生活をしたいですね。

 (祈り)

 天の神さま、あなたのお言葉に従うとき、私たちのために素晴らしいことをしてくださることを信じます。どうか、あなたのお言葉を素直に守ることができますように。ここに集まった一人一人をお守りください。

来週も元気で教会に来ることができますように。

 イエス様の御名によって祈ります。 アーメン 

           (子どもの礼拝、終わり)

 2~3のことについて考えます。

 黒人霊歌 ジェリコの戦い

 黒人霊歌に「ジェリコの戦い」という歌があります。ジヤズのスタンダードナンバーにもなっています。黒人霊歌は、アフリカから連れてこられ奴隷とされた黒人の生活から生まれました。彼らは、主人である白人に教会に連れていかれ、キリスト教会の礼拝を経験しました。

その彼らが魂の解放を覚えたのは、一日の労働を終えた夜遅くに仲間と共に集まり、白人の家から離れた秘密の場所で自分達だけの礼拝を持ち、神に祈り、歌い、踊った時間にあったと伝えられています。それが彼ら自身のキリスト信仰の形でした。彼らが集まった場所はHush Harborと呼ばれ、白人達の教会を「目に見える教会*1」としたならば、Hush Harborは社会的に「見えない教会・隠れた教会」(直訳すれば、静けき港、避難所)と言えました。黒人霊歌は、奴隷生活の切迫した日常からの解放、人間としての真の自由を求める魂、彼らがアフリカ人として継承してきたアイデンティテイの発現でした。イエス・キリストを信じる新しい信仰の中で彼らの求める自由が実現されるという希望の確信、そのすべてによってSpirituals /黒人霊歌は生み出されました。

(hush harabor netより引用)

そのような意味で、「ジェリコの戦い」、「行け、行けモーセ」など、聖書から生み出された歌は、彼らの希望の確信でした。

ジェリコの戦いの歌は、ジェリコ、ジェリコの連呼が耳に残ります。

Joshua fit the battle of Jericho Jericho Jericho;

Joshua fit the battle of Jericho  And the walls came tumbling down.

<コーラス> ジョシュアはジェリコの戦いに挑んだ 砦の壁は崩れ落ちた ギデオンもサウルもかなわない ジェリコの戦いに挑んだ 古き英雄ジョシュア

ジェリコ砦へ向かい 槍を手に進軍したジョシュア
さあ 羊の角を吹き鳴らせ 戦いは我が手中にあり

雄羊の角笛が吹き鳴らされ トランペットが響き出すと

ジョシュアは命じた「叫べ!」ジェリコの壁は崩れ落ちた

 まさに、今日の聖書箇所を歌ったのが黒人霊歌のジェリコの戦いです。ヘブル書11章30節に、「信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。」とあります。

 ヨシュアの戦い

 ヨシュアは、モーセの従者の一人でした。ヨシュアは、約束の地カナンの偵察でモーセに認められ、その後継者に指名され、「この時に、モーモーセは、ヌンの子ホセアをヨシュアと名付けた」(民数記13章16節))とあります。ホセア(救い)からヨシュア(主は救い)となりました。へブル語のヨシュアがイエス時代の日用語アラム語になると「イエス」です。

 ヨシュアが指導者として立てられたとき、主なる神は、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア記1章5節)と約束してくださいました。ヨシュアが、エリコの攻略に悩んでいたとき、抜き身の剣を差した主の使いが現れました。彼は、「わたしは主の軍の将軍である。主がこの戦いを先導してくださる」と告げたのでした。

 そのエリコ攻略の戦いが、契約の箱と共に、エリコの町、その城壁を7日間にわたって行進することでした。なんとも不思議戦い、否、これは、宗教儀式ではないですか?古今東西の歴史の上でも、こんな戦争はここだけです。戦いに慣れているヨシュアでさえ、こんな方法でエリコの町を攻略することが出来るか、共に思ったことでしょう。神さまの考えは、「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ書55章9節)のです。

神は、この戦いを通して、人間の知恵ではなく、神の御業によって戦い、勝利することを教えられるのです。福音宣教の戦いにおいても然りです。パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」こう述べております。

 信仰によるエリコ攻略

 ヨシュア記

6章2節、そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」これが、主がヨシュアに約束された言葉です。しかし、主はエリコの町をヨシュアの手に渡す

と云われましたが、まだ、渡された訳ではありません。エリコの城壁も敵も健在なのです。

 しかし、これが信仰の戦いなのです。このヨシュア記で云われる信仰は、戦わない先に渡したと云われるものです。

 ヨシュア記1章2節、 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなた(ヨシュア)はこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。 」と命ぜられます。 主は、与えようとしていると約束されているのです。

ヨシュア記8章1節にも、主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの手に渡す。」と約束されています。

 「あなたの手に渡す」の原文は、完了型で表現されている。それは、必ず起こるべき未来のことを、既に起きたごとく確信をもって語る預言者的完了形といわれます。彼らの体験する未来が約束されているのです。現在ではありません。

 信仰はそういうものです。神さまは、エリコの城壁、敵軍が健在であるにも関わらず、渡すと云われているのです。神さまの言葉を聞いて、「どうなるか分からないけど、一生懸命やってみる」ではありません。どんなことがあっても、困難があっても、既に、勝利が約束されているのです。既に、得たと信じなさいです。

 ヨシュアは、神さまの約束を信じ、神さまの云われるとおりに戦い、勝利しました。信仰の戦いは武器で戦うのではありません。

この後の時代、イスラエルは、自分たちが持たないエジプトの馬を欲しがりました。主は、エジプトの馬を欲しがるなと諭しました。イザヤ書31章1~3節  災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。31:2 しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし、御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家、悪を行う者に味方する者を攻められる。31:3 エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。
 まさに、ただ、信仰による、神に信頼する勝利であります。

 信仰によるは、約束されたところから始まります。主がみ言葉として云われたことを守ることです。ヨシュア記では、主が「そうしなければならない、そうしなければならない」と13回も記されております。イスラエルは、神さまの約束に従い、そのようにしたのです。神の言葉を一点一画も曲げることをせず、実行したのです。
 ヨシュア記1章7節にも、「 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセがあなたに命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にも曲がってはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」とあります。
 信仰者の生活は、戦いであります。その中で強く雄々しくあれ、これがヨシュア記の主題です。私たちは日ごろの信仰生活の中で、近視眼になり、目の前の状況に一喜一憂しがちです。常に、「強く雄々しくあれ」です。

 

 ヨシュア記17章14節以下、 ヨセフの子らエフライムとマナセがヨシュアに、「あなたはなぜ、ただ一つのくじによる嗣業の土地、一つの割り当てしかくださらないのですか。わたしの民は、主に祝福されて、これほど数多くなりました」と言うと、 ヨシュアは答えた。「あなたの民の数が多くて、エフライムの山地が手狭なら、森林地帯に入って行き、ペリジ人やレファイム人の地域を開拓するがよい。」カナン人は、ベト・シェアンとその周辺村落の住民もイズレエル平野の住民も皆、鉄の戦車を持っています」と言うと、 ヨシュアはエフライムとマナセに答えた。「確かにあなたは数も多く、力も強い民となった。あなたの割り当ては、ただ一つのくじに限られてはならない。山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう。」

 信仰で約束された土地においても、あなたの置かれている祝福の地であっても、自分の力でさらに掘り起こしなさいと言われたのです。ここに、恵みを棚ぼたとしない信仰者のあるべき姿があります。

 イスラエルにとってエリコの壁は、将に神への信仰の壁でした。現代、福音に対して城門を固く閉ざしているこの世の人に対してもそうです。また、私たちの人生の行く手を阻む壁しかりです。この戦いの武器は

私たちの知恵でも力でもありません。パウロは、言います。「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。(Ⅱコリント書10章4節)

「雄々しく、強くあれ、」ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの言葉を(僕モーセが命じた律法をすべて)忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」(ヨシュア記1章7節)

 ヨシュアのように、私たちにも勝利が約束されているのです。主が共におられるからです。