日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.10.21「幸いな人たち」

Posted on 2018. 10. 22, 牧師: 藤田 穣

聖書 マタイ福音書5章1~12節

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 05:02そこで、イエスは口を開き、教えられた。 05:03「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 05:04悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 05:05柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 05:06義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 05:07憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 05:08心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 05:09平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 05:10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 05:11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 05:12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

(参考)  文語体聖書

『幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。

幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。

幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。

幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。

幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。

幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。

幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。

幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて各樣の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。
喜びよろこべ、天にて汝らの報は大なり。汝等より前にありし預言者たちをも、斯く責めたりき。

 幸い(幸い)

山の彼方 カール・ブッセ作詞 上田 敏訳(「海潮音」より)訳

山のあなたの空遠く、「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く 「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。

 山のあなた=山の彼方(かなた)、 尋めゆきて=探しに行って 涙さしぐみ=涙ぐんで

山の彼方に幸福があるというので探しに行ってみたけれど、見つけることができずに涙ぐみつつ帰ってきた。わたしと同じように「幸せ」を探している多くの人がいたが、やはり見つからなかった。山のはるか遠くに幸福が住んでいると人は言う。きっともう少し遠くのどこかにあるのだろう。 幸いは探し求めても見つからない。

そして、ベルギーの劇作家 M.メーテルリンクの童話劇「青い鳥」を書いている。主人公のチルチル Tyltylとミチル Mytylの兄妹は,クリスマス・イブに夢を見,妖精に導かれて幸福の象徴である「青い」を求めて幻想的世界をさまよい歩くというお話です。

クリスマスイヴの夜、チルチル、ミチルの兄妹の所に怪しげなお婆さんが訪ねてきました。自分の娘が病気で苦しんでいる、青い鳥が見つかれば幸福になるというのです。チルチルとミチルは、青い鳥を捜して旅にでます。しかし、青い鳥は見つからず、二人の旅は、徒労に終わりました。

二人は、お婆さんに謝りました。すると、お婆さんは、チルチル、ミチルの飼っていた鳩を欲しがります。でも、不思議なことにその鳩は、旅に出る前より青くなっていたのでした。チルチルは、青い鳥を捜して遠くまで旅をしたのですが、何のことはない。それは、近くにいたのでした。チルチルは、青い鳥をお婆さんに差し出しました。そのおかげで女の子の病気は良くなりました。

(「青い鳥」式守正久編集参照)

幸いは外部にではなく,みずから心の内に宿ることを発見するのです。(ブリタニカ参照)故に、すでに幸せなのだということに気づくまでは、幸いに気付かない。

 幸いという漢字は、象形文字である。

 漢字の「幸」という漢字は、手かせを描いたものです。手枷せ、足枷を

はめられる刑罰を起源としております。そして、「幸」は、手枷をはめら

れる刑罰を免れた形を描いております。思いもよらぬ運に恵まれたことか

ら、刑罰を免れたことから幸運、幸せの意味へと広がって行ったという。

 手枷を免れ自由になった状態、何か今日の聖書の言葉にも繋がるものが

あります。

 聖書本文に入ります。

 主イエスは、群衆を避けてガリラヤ湖を見下ろす山に登られ、腰を掛け、

弟子たちに教えられた。これにちなんで、この個所は、山上の説教、山上

の垂訓とか呼ばれている。教えられたは、繰り返し教えられたという用法

であり、一回の説教ではなく習慣的に弟子たちに教えられた話の要約とい

うことになります。

 古来、山は、神がご自分を示される場所です。モーセは、ホレブの山で

神の言葉を授かりました。詩編の作者も神の助けを求めて、「わたしは山

に向かって目をあげる」(詩編121篇1節)と歌っている。このマタイ福

音書では、山は、天と地を結ぶ神がご自分を現す舞台になっている。 山

上の垂訓というと、戒めや訓示のように捉えられる。しかし、この講話は

説教として弟子たちに語られている。だから、これは、弟子たちがイエス

に従うべき心構えを説いたと考えられる。そして、それは、ただ倫理的で

はない。説教というと、お説教をくらうようなイメージがあるが、そもそ

もキリスト教の礼拝説教は、宣教であり、福音を語るのが目的である。

主イエスは、宣教の初めに「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜ

よ」(マルコ福音書1章15節)と云われた。福音は道徳とは異なります。道徳は、「何々をすべからず」「何々をすべし」といって、人を縛り、

律するのが道徳です。しかし、福音は、倫理的、精神的内容を有するもの

ですが、人間を解放し、自由にし、喜びに包むものです。福音を信ずるこ

とにより、自由とされ、喜びを謳歌し、神を賛美するものです。

 

ここで多く出てくるのは、幸いという言葉と天国という言葉である。旧

約聖書の中にも「幸いな人」という言葉が出てくる。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」(口語訳、詩編1篇1節)「その咎がゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。」(口語訳、詩編32篇1~2節)とある。

「幸い」と訳されたギリシャ語マカリオスは、最高度の幸福、幸福感を示す言葉です。ギリシャ人は、キプロス島を「幸福な島」と呼んでいた。キプロス島は、非常に美しく豊かで土地も肥えていたので、何不足なく幸福な生活をするために島の外に出る必要がないと思われていた。完全に幸福に必要な気候、花、果物、木、天然資源等全部揃っていたからである。そこで幸いは、人生の偶然な出来事の変化に影響されることのない喜びを表す。それは、ユートピア、桃源郷のような世界と考えられる。

 英語の幸福・ハッピネスは、それ自体で言葉の意味を示している。この言葉の語幹ハップは、偶然、思いがけない出来事を意味している。人間の幸福とは、人生の偶然と変化に左右されるものと考えたのでしょう。

しかし、聖書的、へブル的には、詩編に在るように神の掟を守り、その罪を赦された者とあり、幸いは神さまとの関係において使われている。だから、聖書で言う幸いは、この世の出来事から影響されない。

幸いは、聖書的には、祝福、喜びを意味するもので、聖書の原文は「ああ、祝福された者」という言葉である。ある先生は、「おめでとう」と表現しています。それは、神に従って生きようとする者に与えられる賜物でありましょう。山上の説教の終わりには、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ福音書6章33節)祝福は、目的として追求するものではなく、結果として神さまから与えられる恩寵なのです。

 

幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。

先程流に言いますと、「おめでとう」心の貧しき者、 ああ、祝福された者、心の貧しい者 となります。ルカでは、この心がありません。ただ貧しき者となります。清貧 清く、貧しくという言葉がありますが、人間的には、貧しいより、豊かな方が良い、恵まれている方が良いと思いますが…。

貧しいというギリシャ語「プトーコイ」には、乞食という意味があります。乞食というのは、人から施しを受けなければ生きてゆけません。すると、心の乞食となってしまいます。

原文の「心の」と訳されているギリシャ語トー・プニューマティは、「霊において」、即ちプニューマは、聞いたことがあると思いますが、神の命、神の息、霊、風です。創世記に「神は、人の鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2章7節)とあります。どんな人間でも神の命である霊を、神さまから頂く以外にない。それは、乞食と同じように頂くしかない。神の霊を乞食のように乞う者、乞える者は、恵まれた者、幸いと云われたのです。

霊的に乞食なる者は幸いなり。天国はその人のものである。天国というと天国という領土を考えますが、他の福音書は、神の国といい、その意味は神の支配ですから、天国も、神の霊的な支配をいうのです。天国はその人のもの、その人の所有であるといっているのです。私たちは、天国はどこにあるか考えます。

しかし、主イエスは、「彼らの所有」と云われます。ルカ福音書17章20節以下で、「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と云われております。ここで、「あなた方の間にある。」は、未来形ではなく、現在形です。

クリスチャンは、「この世で悩み多く、貧しく乏しいけれども、やがて死んであの世に行ったら天国にゆく」と考えているが、そうではない。主イエスは、天国はあなたがたのものであると云われるのです。原始福音の手島郁郎先生が記しているが、ここは同感である。

即ち、神の支配の中に生きるクリスチャンは、既に現在、天国を所有して生きてゆく者だと云われるのです。今日のこの個所を聖書日課では、「天国に市民権を持つ者」と表題されております。

将に、天国を所有する者なのであります。これを願望と考える人もおりましょう。

主イエスは、「全て祈り願うことは得たりと信ぜよ。」と教えられました。主イエスは、マルコ福音書11章25節で、「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」といわれ、Ⅰヨハネ書5章14~15節には、「 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」と今日の言葉は、主イエスが約束しておられるのです。

パウロは、クリスチャンについて、「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(Ⅱコリント書6章10節)と告白しております。パウロの全てのものの中に天国も入りましょう。

今日は、4つ目の幸いまで触れたいと思います。

幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。

葬儀の時に読まれる言葉、 詩編90篇には、「あしたにもえでる青草のようです。あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。…その一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」と死を悼んでいる。

  創世記37章34節以下、ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子(ヨセフ)のために嘆き悲しんだ。(息子たちからヨセフが死んだと聞かされたからである。) 息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」父はこう言って、ヨセフのために泣いた。人の死は悲しみの最たるものです。

しかし、ここでは、死んだ人を悼み、悲しむように悲しむ者は幸いであると云われるのです。

ローマ12章15節には、「 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と勧められています。この死の原因は、パウロが言うように、人の罪の結果であります。罪が悲しみの根源にあります。

神さまとの関係で聖書的には、「自分の罪を絶望するほど悲しむ者は幸いである」であろう。主イエスは、宣教の初めに、「悔い改めて福音を信ぜよ」であった。自分の罪を悲しまなければ、悔い改めることはできない。主イエスの十字架を仰ぐとき、私たちは自分の罪を思い告白せざるを得ない。詩編51篇19節に、「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」とある。 自分の罪に対して悲しむ者は幸いである。何故なら、この悲しみが悔い改めを生み、神の救いを知る喜びを見出すからである。

 柔和な人は幸いである。 従順な人々 現代的には、柔和という言葉はいい意味に使われない。一本筋の通ってない人、無気力な人とさえ思われる。ギリシャ語のプラウスは、アリストテレスの定式に従えば、全ての徳は両極端の中庸にある。また、高慢に対する謙虚という意味がある。謙虚でなくては何も学ぶことはできない。学問の一歩は無知を知ることである。自分は弱く、神が必要であることを自覚したときに信仰心が生まれる。人間が本当の意味で自分を知るのは、自分は被造物であって、創造主である神なしには何事もできないと知るときである。

 自分の無知と弱さと欠乏を知っている謙虚な人は幸いである。この柔和さこそ地を嗣ぐとイエスは云われた。詩編37篇18節 無垢な人(柔和な人)の生涯を主は知っていてくださる。彼らはとこしえに嗣業を持つであろうこの詩人にとっては嗣業とはカナンの地である。しかし、ここでは、地とはこの世界のことでであろう。

 義に飢え渇く人は幸いである。 神との正しい関係を追い求めて達しない。神の正しい経綸、救いの御業を、救いを待ち望む人は、天国を約束される。」

 飢えて死のうとする人が食物を求めるように、あるいは、飢え渇いて死のうとする人が水を求めるように、神の完全な義、救いを慕い求める人の幸いよ。その人は本当の救いを得ることができる。

ここまで見てきた幸いは、困窮に喘いでいる人々に対する救いの約束で一致している。ここで語られている対象、イエスに従う弟子たちであり、私たち信仰者である。私たちの不足している、欠けの状況は、神の祝福の対象である。それは、神によって救われ、充足されるからである。