日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.10.7「信仰の再生」

Posted on 2018. 10. 8, 牧師: 藤田 穣

聖書 マルコ福音書14章66~72節

 14:66ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、 14:67ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」 14:68しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。 14:69女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。 14:70ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」 14:71すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。 14:72するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

ノーベル賞医学生理学賞 京大 本庶特別教授受賞

今年のノーベル賞医学生理学賞は、京大の本庶 佑特別教授が受賞した。患者が自分自身の免疫の力を強め、がんと戦う「がん免疫療法」の時代を切り開いた日本発の成果が、最高の栄誉に輝いたのである。本庶教授らが小野薬品工業(大阪市)、米国のベンチャー企業と共同開発したオプジーボは、免疫細胞のブレーキとがん細胞が結びつくのを防ぐことで、免疫にがんの排除を続けさせる薬。この免疫療法は、がんと闘う新しい療法。本庶先生は、最初の会見でこの時代だけでなく後世に残り、広く使われることを願うと云われた。それは、時代を超えた真理である。誰かがそれを証明し続ける必要はない。免疫薬の効果はそれ自身が証明し続ける。

福音の真理は科学の真理と異なる。私たちに証明を求める。主は、「イエスは、主なり」と福音を語り続けることを求めた。マタイ福音書28章18節以降イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 28:19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

故井上良雄先生は、科学的真理は、告白しなくても証明される。ガリレオガリレイは、地動説に賛成して宗教裁判にかけられ、自説を撤回した。

しかし、それでも「地球は動く」と云った。信仰の真理は、福音の真理は、信ずる者の告白を求める。「イエスは、主なり」と告白し続けることを求られているのだ。

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無教会の塚本虎二先生は、今日、読まれた聖書箇所の注解の見出しに、「キリスト教の礎」と名付けている。新共同訳聖書の小見出しは、「ペトロイエスを知らない」である。塚本先生は、「ペトロがイエスを知らない」と云った裏切り、罪の中に、「キリスト教の礎」土台を見たのでした。それは、どういうことだろうか。先ほど司会者の読んで下った箇所を学びながら考えて行こう。

 イエスは、エルサレムに上ってゆく途中、エリコの町で、12人の弟子たちに自分の身に起ころうとしていることを話された。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10章33~34節)エルサレムでイエスは、ユダヤの指導者たち祭司長たちや律法学者たちに引き渡され、死刑を宣告され占領者ローマの手に引き渡され、侮辱され、鞭打たれたうえ、十字架刑に処され殺される。そして、3日の後に復活する」これまでに、何回か、弟子たちに予告されたことでした。しかし、弟子たちはイエスの予告を理解しませんでした。

 弟子たちと同じく、イエスを迎え入れる群衆たちも、イエスを理解できない。エルサレムにイエスの一行が着くと、マルコ福音書11章08節以下、「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入った。」

群衆は、イエスに力あるメシアを、占領下にあるローマからの解放を期待していた。

 14章1節以下、さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

何故、殺そうと考えたのか。祭司長や律法学者たちは、イエスの権威あ

る教えとその力ある御業を怖れていた。宗教指導者である自分たちの地位がイエスによって脅かされることを怖れていたのである。彼らは、自分たちの体制を脅かすイエスをこの地上から亡き者にしようとした。しかし、主イエスの本心は、人間の罪の深さの極みまで、背負い、救うべく、十字架の死を覚悟していたのでした。それは、御子イエスをこの地上に遣わした神の御心でした。

 こんなとき、12弟子の一人イスカリオテのユダが、最後の晩餐の席上で、イエスの許から離れます。ユダは、ローマから独立をはかる熱心党の運動に共鳴していたと云われる。ユダヤの人々は、占領下のローマからの解放をしてくれるダビデの再来をメシアに期待していた。ユダも然り、弟子たちの殆どがそうであった。急進的な運動を期待していたユダは、十字架が救いであるかのような仕方でしか遂行されない神の業に我慢できなかった。何故、持てる力を使わないのか。ユダは、イエスに失望した。

ユダは、祭司長たちのところへ行き、「イエスをあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。彼らにとってイスカリオテのユダの申し入れは好都合であった。秘密裡にイエスを捕え、亡き者にすることが出来る。

この後のことを先週学んだ。イエスは、ユダの手引きによって祭司たちの手に落ちた。弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。大祭司の官邸に連れて行かれ、夜中にも拘わらず裁判にかけられた。

 しかし、牢屋に入れられても死ぬようなことになっても、イエスに従う

と豪語したペトロは、勇気を出して、遠く離れてイエスに従い、大祭司の

屋敷の中庭まで入り込み、下役たちと一緒に座って、焚火にあたっていた。

ペトロは、イエスを見つめることのできる場所に腰を下ろし、安堵してい

たかも知れない。

 イエスは、裁判の席についていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死

刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多

くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからで

ある。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、直接、イエスに

尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしている

が、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」

と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」
イエスは、メシアかとの問いに毅然として答えた。大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。

  イエスは、毅然として死に至る道を選んだ。それに対するペトロは、死を逃れるためにイエスを知らないと否む道を進むのです。

  そして、ペトロのいる中庭での出来事は意外な形で始まった。大祭司に仕える女中の一人が来て、 火にあたっているペトロを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。

  この女は、他の福音書では、門番の女とあります。官邸に出入りする人々を見ていたのです。ペトロは、暗闇から現れた大祭司の女中に不意をつかれ、狼狽し、激しくイエスとのかかわりを否定したのです。あなたはあのナザレのイエスの仲間だろう。一緒にいたのをわたしは見た」

  ナザレのイエスは、人々が呼んだ名称です。ユダヤで、イエスという名は、一郎や太郎のように多い名前です。ほかのイエスから区別するためにナザレ出身のイエスと呼んだのです。ナザレ、何の良きものが出ようか?と他の聖書箇所にあります。使徒言行録24章2節以下、大祭司アナニアは、総督フェリクスにパウロを訴えて、「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。」と訴えております。疫病のような害毒をもたらすナザレのイエスの仲間、分派と呼んでいるのです。

  この女中の言葉、ナザレのイエスもそのような侮蔑の差別の意味合いがあったのかも知れません大祭司の側からみれば、騒ぎを引き起こしているナザレのイエスなのです。

ペトロは、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」この「分からない、見当もつかない」の形がギリシャ語ではおかしいので、ペトロの狼狽のほどが分かるといいます。

ペトロは慌てて、前庭の顔が見えない暗い場所に逃げだした。すると、鶏が鳴いた。

 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。 14:70ペトロは、再び打ち消した。

 女中は、そこに居合わせた人々にペトロのことを、「イエスの仲間、一味だ」と云った。ペトロは、自分に言われたのでもないのに、それを打ち消した。語るに落ちたのである。今度は、女中ではなく、そばに立っていた人々が、ペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」ペトロのガリラヤ訛りから、あの連中の一味だと決めつけたのです。

すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。呪いをかけて誓う。呪い(ファナセマ)を云うとは、「もし私が嘘を云っているならば、わたしは、神に呪われても良い。わたしをイエスの弟子と云う者の上に呪いあれ」と神に誓ったのです。「神に誓ってその人(イエス)を知らない」と断言したのです。先生であるイエスとの関係を完全否定したのでした。

するとすぐ、鶏が再び鳴いた。二番鶏である。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。ペトロの裏切りが白日の下にさらされたのです。ペトロは、人を欺くことが出来ても神を欺くことはできないと思い知らされ、良心を刺されたのでした。

 何故。ペトロは、イエスに対する誓いの言葉を裏切ったのか。この時、ペトロは神を見失っていたのでした。

ルカでは、外に出てさめざめと泣いたとある。ルカでは、主イエスが、振り向いてペトロに目を留められた、「じっと見つめた」のでした。

 

大宮 薄先生が、小説家 三好十郎の「その人を知らず」という劇を引用しております。戦時中にキリスト教会が天皇制国家の弾圧を受けて、これを逃れるためにキリストに対する信仰告白を曖昧にしました。国と軍部に妥協したことが描かれております。戦時中、神社参拝や天皇崇拝が強制されたとき、信仰の良心に基づいて抵抗したクリスチャンがいました。ところが、ある牧師が自分の身の安全を図って彼に協力しなかった劇です。三好十郎は自身が戦前マルキストから転向した人で、この劇には、自分自身を含めた人間の弱さを弱さといってすまされない、責任の問題として描いております。

抵抗し投獄されたクリスチャンの多くはホーリネス系の人たちでした。これに対し所属する日本基督教団は、彼らに手を差し伸べず、放置し、戦後、大きな責任問題になり、ホーリネス教会に謝罪しました。

 ペトロの弱さ、裏切りは、ペトロだけでなく、私たち人間の罪を代表するものであります。

 パウロは、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ書7章18~20節)

 ペトロは、3度、イエスを否認した。3は完全数ですから、完全に裏切ったのです。その時、夜明けを告げる二番鶏が鳴いたのです。西欧には、教会の塔に十字架が無くても風見鶏が置かれております。

この記事のペトロを罪に目覚めさせた、夜明けを告げる鶏にちなむと云われております。ペトロは、神に向かって泣くしかありません。罪を悔やむペトロの涙は、鶏の告げる夜明け、十字架の贖いに、復活の朝につながるのです。

パウロは、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ書5章20節)

 泣き続けたペトロは、パウロのいう「07:10神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント書7章10節)

 しかし、この泣き続けたままでは、ペトロは神の前に死んだも同然、得も知れぬ喪失感、絶望の淵に落ちたままです。回復が無ければ、信仰の再生はありません。

マルコ福音書は、イエスの死、挫折のままで終わっていない。イエスの十字架の死という人間から見た挫折は、イエスの復活において解決されている。

 ヨハネ福音書21章に、イエス・キリストが復活されてガリラヤ湖畔で弟子たちに会う出来事が書かれている。

復活のイエスは、ペトロに対して3度「わたしを愛しているか」と尋ねられた。ペトロは3度も同じ問いを繰り返されたので悲しくなったとあります。あのイエスの十字架を前にしての自分の3度のイエスを知らないと否認したことを思い出したからです。彼は深い悔い改めの思いを込めて、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と改めて信仰を告白したのです。主よ、あなたは、このわたしの弱さ、情けなさ、罪のすべてを御存じです。それを知ってる上で使命を与えてくださるのですね。

 イエスはペトロに、「わたしの羊を飼いなさい。」と伝道の使命を与えられたのでした。

 ペトロが罪の赦しを本当に経験したのは、この時でした。ペトロは、更に、聖霊降臨を受けて、死をも恐れずに、イエスの福音宣教のためにローマまで邁進したのでした。

 神は、ペトロの否認という罪の上に、悔い改めの涙の上にキリスト教信仰を打ち立てたのでした。パトロの信仰の再生、それは裏切りという罪、その悔い改めに、十字架の主の憐れみと救い、罪の贖いの犠牲によって、主の復活と聖霊降臨により、なされ、強く生かされたのでした。

 ペトロは、裏切りの罪によって、イエスの憐れみと赦しに富んだ眼差しに触れることが出来ました。罪に泣くことにより、十字架の赦しを受けることが出来ました。罪の体験によって、復活のイエスに出会い、信仰の再生を経験したのです。信仰は、罪の体験のもとに、十字架の愛と赦しを体験するものです。