日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.11.25「人生最後の者の救い」

Posted on 2018. 11. 26, 牧師: 藤田 穣

ルカによる福音書23章34~43節
    23:32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 23:33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 23:34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 23:35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 23:36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 23:37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 23:38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 23:39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 23:40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 23:41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 23:42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 23:43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
 
   聖書日課は、クリスマスを前に、受難節の記事に立ち寄る。この
  主日には、「王の職務」とある。 仲保者イエス
   イエスの力ある御業と教えを妬んだ祭司長、律法学者にそそのか
された民衆は、イエスを十字架につけよと叫び、ローマ総督ポンテ
ィオ・ピラトは、イエスを十字架につける決定をした。
十字架刑に定められた死刑囚は、自分のかけられる十字架の木を
  自分で背負って刑場まで歩く。イエスと共に二人の死刑囚が引かれ 
て行った。エルサレムの城壁の外に、ゴルゴタの丘に、されこうべの形
をした刑場があった。
 ルカは、二人の犯罪人と云ったが、マルコは、強盗と呼んでいる。彼らは死刑という極刑をうけるのだから、普通の犯罪人というよりローマからの解放を訴え戦っていたユダヤの熱心党の者たちかも知れない。
 ローマ兵たちは、イエスを十字架につけ、その両隣に二人の犯罪人も十字架につけた。十字架刑には縛り付けと釘付けの二種類があったが、
イエスは、復活後疑い深いトマスが指摘したように釘付けであった。
 兵士たちは、地面にイエスを横たえて、両手を横木に釘付けし、それを既に立っている縦の柱に取りつけ、イエスの両足を揃えて縦の柱に釘付けした。縦の柱の中間には、サドルと呼ばれる木片の腰掛があり、死刑囚の体を支えていた。死が苦痛を取り去るまでに24時間かかることもあった。この間、苦しみを和らげるために、酸い葡萄酒が死刑囚に与えられたが、イエスは、それを飲むことはなかった。
 十字架の上で云われたイエスの最初の言葉は祈りであった。
 26節、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と云われた。これは、イエスの十字架を取り巻き、彼を罵る人たちのとりなしの祈りでした。何をしているのか分からない、知らないのは、イエスを十字架につけた意味です。それを知らないゆえに、彼らはイエスを罵ったのでした。
民衆は立って見つめていました。宗教議会の議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 
彼らが言う「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」これは、宣教開始の前に、イエスがサタンの誘惑に遭ったときに言われた悪魔の言葉、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(ルカ福音書4章3節) このようにイエスの生涯、ユダヤ人たちは、イエスに神の子の印、メシアの印を要求した。
だが、パウロは云う。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリスト(の福音)を宣べ伝えています。」(Ⅰコリント書1章22~23節)
ユダヤ人はメシアの印として奇跡を求めたが、一つの奇跡に満足するとさらに奇跡を求め際限ありませんでした。印がなされても救いに至らない。ギリシャ人のように知恵によりメシアを求めて、メシアを知識として理解しても救いに至らないのです。神さまは人間の理解を超えて、
我が子を供え物として十字架につけ、私たちの罪の贖いとしたのでした。
このことを信じた者のみが救いに入ることが出来るのです。
更に、兵士たちや犯罪人の一人が言った「自分を救ってみろ。」と言いました。もっとも、議会の議員たちも「他人を救った」事実は否定していません。イエスは、確かに「救い主」なのですが、彼らはイエスの救いが自分たちに関係なく、必要ないとしたのです。先ほど、ユダヤ人は印を求めます。自分の理解できる、気に入った奇蹟を起こしてくれたら、信じるという前提条件なのです。神の救いに条件は必要ありません。犯罪人の一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」自分自身 と我々をこの十字架から救い出したら…」と自分たちの必要を求めます。しかし、神さまは自分を救わないメシアを、メシアたる我が子に十字架の死を求めたのでした。神さまが求めたのは自分自身を救わないメシアを信ずる信仰でした。
 パウロは、ガラテヤ書2章20節で、「…(むしろ)わたしが今、…生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と告白しております。
 イエスの赦しの祈りは、執り成しの祈りです。イエスが神の子としてこの世に遣わされた目的は、神という的を外れて罪のうちに生きる私たち人間の回復、悔い改めて神に立ち帰った者の罪の赦し、神と人間の和解のためでした。旧約以来、神は事ごとに、預言者を通じて人間の罪を指摘し、神への立ち帰りを求めて来ましたが、人間はい言うことを聞きませんでした。神はついにその独り子を送り、罪の許しの福音を伝えましたが、却って、その独り子を十字架につけて殺そうとしているのです。
 ルカ福音書20章1~19節のブドウ園と農夫のたとえにも似る出来事です。山上の説教でイエスは敵のために祈ることを教えています。「05:43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 05:44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
 この教えは、弟子たちにも伝わりました。ステファノが殉教するときの祈りがそうです。07:59人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 07:60それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。(使徒言行録7章59~60節)
 イエスの弟「義人」と言われたヤコブが神殿で殺された時も、「主なる神よ、願わくは彼らを赦したまえ。そのなすところを知らざればなり」(エウセビオス「教会史」2:33参照)と祈ったそうです。
 
  このようなイエスの姿に、犯罪人の一人が心を動かされました。他の
 犯罪人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身
と我々を救ってみろ。」 と嘲笑しているのに対し、23:4もう一人(犯
罪人)の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受
けているのに。 23:41我々は、自分のやったことの報いを受けているの
だから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
 もうひとりの犯罪人は、自分のやったことの報いを受けているのだから
十字架刑に処せられるのは当然だ。死を前にすると、自分の一生が走馬灯
のように浮かび上がると云います。死の時は、自分の生涯を思い起こし、
悔い改めの機会となります。人は命の最後のときでも悔い改めれば、私た
ちも神に立ち帰ることが出来、救われます。

 映画「パウロ」の中で、牢獄で処刑を待つパウロは、「わたしは多くの
クリスチャンを迫害し、死を求めた。今、自分が今ローマから迫害を受け
死のうとしているのは当然だ」と告白していました。パウロにとっても、
クリスチャン迫害の思い出は、消すことのできない罪の痛みと後悔のフラ
ッシュバックとして現れるのです。そのような自分は、復活のイエスとの出会いによって、救われ、罪赦されている。パウロの死をも厭わない宇泰然自若の態度は、そこにありましょう。
「しかし、このイエスという方は何も悪いことをしていない。」「イエ
スの死は自分たちとは違う。罪なきお方なのに、死刑判決を受け、十字架に殺されようとしているのだ」そして、イエスに向かい、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
預言者エゼキエルの言葉に、主なる神は云われた。「33:11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル書33章11節)
 この犯罪者は、自分が罪人であることを認めると共に、イエスが天国・神の国の王座に就かれるお方であることを確信し、そのことを告白したのです。先生、わたしのような者でも思い出してください。

 主イエスは、この犯罪人の告白に直ちに口を開いて答えられました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。文語体では、「われまことに汝に告ぐ、今日、我と共にパラダイスにいるべし。」です。イエスの今日は、神の支配の時であって、罪に滅びゆく人間の時ではない。それは、犯罪ゆえに死んでゆく男の時と十字架刑により刑死されるイエスの時とが共有する今日である。それは、共に行くパラダイスである。パラダイスは、「皇帝の楽園」というペルシャ語由来の言葉です。創世記では、エデンの園ですが、ここでは、イエス・キリストを信じて天に召された人々が、やがて、キリストの再臨により天国が完成するまで、暫く安息している神の庭園、神の支配の場所です。
 
 死の水際に救われたこの犯罪者に不満を持つ人もいるでしょう。これまで、さんざん好きなことをやってきて、人生の土壇場で悔い改める、天国泥棒だ」というのです。天国泥棒、最後に悔い改めて天国に行くというなら、まるで天国を盗むみたいだというのです。しかし、こう考えるのは、悔い改めた犯罪人に対するひがみ、やっかみです。神の御心と主の憐みと赦しは圧倒的なのです。
 罪が許されるならば、それまでは好き勝手に生きた方が得だという人は、
悔い改めが出来るはずはないのです。
 四竈揚牧師が、ドストエフスキーの「悪霊」の作品の一場面を引用しておられます。ある無神論者が「クリスチャンは気楽だな、キリストの十字架さえ信じればどんな悪いことをしても赦されるってことは、何と都合のよいことだろう。それでは、赤ん坊を殺しても、…隣の家に火をつけても何をしても、キリストの十字架の故に罪赦されるというのだな」というのです。もちろん、キリストの十字架はそのような私たちの罪をことごとく贖ってくださるのだから、すべての罪は赦されるのだよ、しかし、そのことを本当に知っている人は決してそのようなことは、しないでしょう。」
 この私たちのために、命をかけて「父よ、彼らを御赦しください。」と主が祈っておられること思い出すときに、私たちは、主の前に悔い改めの時となるのです。心から主を信じる者となりましょう。

 まとめ
 今日の聖書日課の主題は、王の職務、即ち、メシアの使命、働きです。
主イエスが遣わされた使命は、
 ヨハネは、3章16~17節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」この聖句はこの一言で小聖書と云われます。キリストが父なる神から遣わされた目的、神の子の王としての職務なのです。
 パウロは、キリストの働きをエペソ書2章1節以下で説き明かしています。「2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
 2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。       (エフェソ書2章)
今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。