日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.12.23「今日、来たり給う主」

Posted on 2018. 12. 26, 牧師: 藤田 穰

ルカによる福音書2章1~12節

 02:01そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 02:02これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 02:03人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 02:04ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 02:05身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 02:06ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 02:07初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 02:08その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 02:09すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 02:10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 02:11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 02:12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 2018年のクリスマスを迎えました。イエスさまが誕生して2018年になるのです。紀元(AD)2018年のADは、ラテン語のANNO DOMINIは、主の年、キリストの年の略になります。ADの起源は、525年、時の法王ヨハネ1世の命を受け、ディオニシウスが、復活祭(イースター)の正確な年月日確定した時に定められたのでした。これに対して紀元前(BC)が、BEFORE CHRIST、キリスト以前と名付けられたのは、英語が世界的になった19世紀になってからのことです。

 しかし、今日、歴史的には、イエス・キリストのご降誕は、BC6年~BC4年と言われます。今日の聖書箇所は、イエスの誕生劇ページェントで有名な場面です。クリスマスは、アドヴェント(待降節)の後に来る出来事です。それは、この世界に来てくださる方を待つ出来事です。

 2000年前にその出来事は、起こりました。キリニウスがシリアの総督であった時、皇帝アウグストゥスから、ローマ帝国全領土の住民に住民登録をせよとの皇帝が出す命令・勅令が下されました。キリニウスの生きた時代は、アウグストゥスの後を継いだ第2代ローマ皇帝テベリウス(在位BC14~AD37年)の時代、キリニウスが最初にユダヤを含むシリア総督になったのはBC6~4年と判明しております。この時代に、各自、本籍地に戻って住民登録をせよとの命令がくだされたのです。

 ヨセフは、ダビデの血筋でしたので、ダビデの出身地ベツレヘムに住民登録するために、出かけます。ガリラヤのナザレから、ベツレヘムまで、約120km、3日の行程です。日本で言えば、丁度、東京から東海道中3日目の宿、静岡の蒲原辺りとなります。しかし、この行程は、殆どが岩だらけの砂漠地帯、エリコ街道は、あの「良きサマリア人」でユダヤ人が強盗に襲われた、危険な場所が多くありました。

2006年の映画「マリア」では、ヨセフがマリアをロバに乗せて旅する姿がありました。ヨセフは、何故、身重のマリアをこの厳しい旅に同行させたのでしょうか?

それは、マリアの妊娠の原因です。婚約者のヨセフには身に覚えのないことでした。マリアにとっても同じです。マリアは、天使の言葉を信じ聖霊によって身籠ったのです。ヨセフも悩みました。秘かに離縁しようとさえ考えました。しかし、夢の中に天使が現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ福音書1章20~21節)

マリアの話したことが真実であると知り、ヨセフは、マリアを受け入れ、そのお腹の子イエスを受け入れる決断をしたのでした。しかし、このことは身内や親戚、村人に話せません。真実を話しても理解されないでしょう。それは、人間の常識では理解できない、神様のなさることだからです。もしかしたら、二人について変な噂が立っていたかも知れません。彼らは疑いの目を持って見られていたのです。この状況の中で、身重のマリアを残しては行けません。いざ、出産というときに自分がいなったらどうなるか。

ヨセフは、身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に住民登録するためにベツレヘムに行く。厳しい旅路を選択したのです。この旅路の困難さを映画「マリア」は,よく描いていました。

 6節 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 02:07初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 彼らの泊まる場所、口語訳では、客間とある。この言葉は、座敷という言葉と同じだ、マルコではイエスの弟子たちが集まっていた2階座敷という記事がある。新共同訳の宿屋を職業的な宿屋と考える必要はない。ヨセフはダビデの家系でしたので、親戚や知人の家があったはずです。

しかし、そのような家の座敷にはヨセフたちが泊まる所が、入る余地がなかったのです。大勢の人たちが登録のため、各地から来たせいもあり、また、親戚にしろ、知人宅にしろ泊める人間の優先順位があったからかも知れません。貧しい者にとってとっては、客間、座敷がなくても致し方のないことであったかも知れません。ベツレヘム・豊かなパンの家と呼ばれた町には、この貧しき身重の若夫婦を受け入れてくれる家が一軒もなかったのです。結局、泊まる場所がなく、町はずれの家畜小屋に身を寄せるのです。映画「マリア」で描かれた洞窟の岩屋にあった家畜小屋が相応しかったかもしれません。

 いずれにしても、ヨセフとマリアが泊まれる客間、座敷には入れる余地がなかったのです。そういえば、マリアがベツレヘムに旅したのもヨセフのいないナザレには、彼女のいる場所がなかったのです。それは、お腹のイエスにも然りです。あれだけ待望していた救い主メシアの誕生に誰も気づかないのです。この世界に主イエスがいる余地がないのです。

 神さまのなさることは、私たち人間の常識では計り知れないものです。誰が貧しき若夫婦の子どもとして、救い主が生まれるなど信じることができましょうか?

私たちも、そうではないでしょうか。クリスマスを祝いながら、私たちの心のなかに救い主メシアを迎えているでしょうか。クリスマスの忙しさの中で、私たちの心に迎え入れる余地がなければ残念なことです。余地がないとはどういうことでしょうか?居場所がないということです。

ローマ法王が、日本の若者の自殺が多いことに心を痛めているというニュースがありました。日本の自殺者は、年3万人弱であまりかわりません。若者が自殺するのは、この世に自分の居場所がなくなったという絶望からでしょう。自分のいる場所、生きる場所を失えば、この世に居場所がなくなるのです。何と悲しいことです。

 主イエスは、このような居場所のない人たちのために生まれたのです。イエスは、多くの人を救うために来られたのに、この世に安らぐ場所がなかったのです。生まれてすぐ、イエスは、ヘロデ王の保身のため、2歳以下の男の子を皆殺しにした危機から、やっとのことで、エジプトに逃げました。長じてイエスは、人の子には枕するところがない、そして、祭司長や律法学者たちの権威を脅かす者として排除され、十字架刑に追いやられるのです。しかし、神の子が私たち人間の救いのために、十字架の犠牲(供え物)となることは、神の御計画でした。神さまの愛の発露でした。

 マリアは月が満ちて、 02:07初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。

 布はおむつと言われます。ヨセフとマリアが精一杯用意したものでしょう。飼い葉おけが御子イエスの最初のゆりかごになったのです。

 そして、救い主誕生の知らせは、郊外で羊の世話をする羊飼いたちに最初に知らされました。当時の羊飼いは、世間からはつまはじきされた地の民、罪人の類に入れられていました。狭い国土で移動しながら羊の群れを追う彼らは住所不貞のヤカラとして世のなから見捨てられていました。そのような彼らに神への回復の福音が告げ知らされるのです。

8節 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 02:09すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

野宿しながら羊の群れの番をしている羊飼いに主の天使、御使いが 近づき、辺りは主の栄光の光に包まれたので彼らは非常に恐れた。

  羊飼いたちは恐れた。それゆえ、御使いは恐れるなといった。彼らの恐れを取り除く大きな喜びが告げられた。畏れのない所に、神の福音は告げられるだろうか。羊飼いたちは、真っ暗な空、今と違って漆黒の闇の中で星の不思議を見、突如、現れる神の御使いの栄光に恐れるのです。現代は畏れを知らない時代になりつつあるのではないか。日本の夜は、人工の光に満ち溢れています。畏れることのない人たちが増えつつあります。

わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 02:11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 02:12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

  大きな喜び(カラン・メガレーン)、とてつもない大きな喜び、救いを和え合わす。人間では創り出せない、神しか与えることのできない喜びです。人々から忘れられ、疎外されていた羊飼いたちに大きな喜びが伝えられたのです。その大きな喜びは、ダビデの町ベツレヘムに生まれた救い主でした。

旧約の預言者ミカが、「05:01エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。」と預言されていました。羊飼いたちは、急いでその出来事を見に行きました。彼らは飼い葉おけに寝ていた幼子を探し当てました。彼らは御使いの云われたことを信じました。彼らは、行けと言われた訳ではありません。自分なかに渇きがなければ、強い思い、信仰が無ければ、羊を放り出して行動はできません。

  ルカの云う「今日」は、今である。この後の2章の後半で、宮もうでにきたヨセフとマリアが抱いているイエスを見て、老シメオンが、「私の目で今あなたの救いをみた。」(2章30節)

 イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(4章21節)ともあります。

 そして、十字架に一緒につけられた強盗の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 23:43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(23章42~43節)

パウロは、コリントⅡ書 6章で、「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。 今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(Ⅱコリント書6章2節)と言ってます。

  今日は、聖餐に与ります。この中に、主は来てくださいます。主と共に聖餐に与る時、主は私たちに親しく臨んでおられます。

主よ、あなたを受け入れている、讃美をしている、あなたを迎え入れようとしている今日、今、わたしたちの心の空白に、来てくださいますように。