日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.2.25「永遠に赦されない罪」

Posted on 2018. 2. 26, 牧師: 藤田 穣

聖書 マルコによる福音書3章20~30節
  03:20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 03:21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 03:22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 03:23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 03:24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 03:25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 03:26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 03:27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 03:28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 03:29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 03:30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

  聖書における金、銀、銅メダル
  平昌オリンピックが閉幕する。日本のメダル獲得数も歴代最高となり、高木菜那選手は金2個、高木美帆選手は、一人で金銀銅メダルを獲得しました。
  聖書の各書物を金銀銅と格付けした人がいます。宗教改革者ルターです。北森嘉蔵先生の書物から引用します。
ルターは、その初期に、聖書の各書物に金、銀、更に、その次が鉄、材木、紙、一番下がわらと格付けしました。そのランク付けの原則は、彼が発見した「神の恵みの罪の赦し」の福音です。そこで、今日の箇所にある「赦されない罪」というのは、大変なことで、これが原因で共観福音書は、皆、わらの格付け、他に、ヤコブの手紙もわらです。ヤコブは、人が救われるのは信仰によらないで行いにおいてと書いたからです。金に格付けされたのは、ローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙、ヨハネ福音書でした。それから、へブル人への手紙もわらに格付けされています。この手紙は、罪の贖い・赦しを記しているのですが、聖霊を汚す罪、赦されない罪を書いているからです。その6章4節以下、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」
しかし、この格付けは、後のルターによって見直されることになります。それは、後で、また触れることにします。

  さて、先ほど読んで頂いた聖書本文に入ります。
  イエスは、民衆に福音を説くと共に、多くの病人を癒しておりました。イエスがカファルナウムで定宿としていたペトロの家に帰られたのですが、多くの群衆が押しかけて来たので、食事をする暇もないほどでした。  
群衆は、イエスに権威ある教えと病気の癒しを求めていました。
  福音書を見るとイエスは、病気や悪霊憑き、身体障害を癒しており、マルコは、3章の最初に記す手の萎えた人の癒しを病気の癒しと記し、マタイは、4章23節以下で、「イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」と悪霊に憑かれた者も病気の中に入れている。ルカは、8章2節以下で、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリアがイエスに従った」とあり、悪霊に憑かれた者を病気としている。
  悪霊に憑かれるとはどういうことか、2世紀のラビの文献には、トイレに立つたら、半マイル歩くほどの時間布団に入らないことトイレの悪霊が憑いてきており、夫婦が関係を持つと、癲癇の子が生まれるという見解が書かれている。トイレに悪霊がいるのだから、墓場や怪しげな場所には悪霊がいる筈である。狂犬には特有の悪霊が憑いており、ルカ福音書11章14節、「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」ここでは、口をきけなくする悪霊、マタイ12章22節には、「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。」とあるから、視力を奪う悪霊もいたであろう。こう考えてくると病んでいる患部ごとに、その担当の悪霊がいたのかも知れない。
  イエスの時代は、無数の魑魅魍魎が跋扈する魔術的な世界があったのである。それは、ごく近代まで、日本でも見られた世界である。
そして、病気のもう一つの説明は、モーセ律法違反による罪から説明している。09:02弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」とある。
  イエス自身は、悪霊祓いの事実を、マルコのこの箇所と併行のルカ11章20節で、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と認めている。
 イエスが癒やしに使う手段は、患者に手を当てて、唾、指、泥、呪文によって行うものである。

  イエスの噂は、ナザレの村にも届いたのであろう。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。気が変になったというギリシャ語エクセステーは、エクスターシスから出た言葉で、英語のエクスタシーを生んだ言葉です。それは、自分の存在の外に出てしまう、我を忘れる、恍惚状態になるという意味です。
そして、自分の外に出るだけでなく、身内からみれば、自分たちの外へ、常識の外に出てしまった。イエスの身内の者たちは、身内の恥として、イエスを取り押さえに、連れ戻しに、ナザレから往復2日がかりで、カファルナウムに出てきたのである。
  また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。ベルゼブルとは、古いシリアの神の名前で
 「家の主人」の意味である。旧約聖書では、これを「エクロンの神バアル・ゼブブ(蠅の神)」と呼んでおり、(列王記下1章2節)、この言葉は、異教の神の名・悪霊を示すものになっている。
「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と指摘する律法学者は、イエスを悪霊と共謀している共犯者と説明、非難している。彼らはイエスの力の源泉を悪霊からのものとし、イエスを悪霊の頭としたのである。 
イエスは父なる神に祈り、御心に従って御業を行っていた。また、弟子たちもイエスの業に従った。律法学者たちは、このことを悪霊の業ととっていたのである。彼らは、この非難をイエスの生涯で繰り返した。
マタイ9章34節、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。同10章25節、「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
ヨハネ8章48節には、ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返している。

 これに対し、イエスは、彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
 
この三つのたとえ話は、国であろうと、家族であろうと、サタンであろうと内部で分裂するものは立ちえない。イエスによって強い人(サタン)が縛り上げられることは、悪魔追放であり、サタンが自分の家を奪い取られることを意味する。イエスにとって、サタンは、生かしておけない敵である。悪霊に取りつかれた人間や社会、財産はサタンの所有権の中にある。サタンの支配下にあるものを取り上げるためには、まず、サタンを縛り上げなければならない。それは、荒れ野の誘惑においてもなされている。

 イエスの力は、悪霊からのものではなく、イエスがご自身の力、聖霊の力により、サタンを支配下に置き、悪霊に取りつかれている人間と社会とサタンを家から追い出したのです。

28節、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
人間には、その犯す罪や神を汚す言葉もすべて許されるが、唯一例外、聖霊を冒涜する罪は赦されない。イエスが悪霊にとり憑かれているどころか、聖霊によって生き、行動している。
主イエスを否定し続ける者を、主イエスはお赦しにならないのか。十字架上のイエスは、「父よ、彼らを御赦しください。殻らは何をしているのか、わからずにいるのです。」このイエスの十字架すら意味を持たないと云い続ける者の罪が、聖霊を冒涜する、永遠に赦されない罪なのです。

ルターの大転換  ルターの理解の後半に移ります。
ルターは、どんなに罪を犯しても、キリストを信じる信仰のみにより救われると言い続けてきました。それゆえに、若いころ、ヘブライ人への手紙6章4節以下、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」この言葉に躓いたのでした。
ここでは、洗礼を受ける前の罪は、洗礼によって除かれ、すっかり救われるとしても洗礼を受けた後も罪を犯し続けるならば、許されようがないからです。虚心坦懐に、この聖書の言葉を読むとそのようにとれるのです。
カトリックが告解の制度を設けているのは、そこに関係します。しかし、告解で赦されても、それは、完全でないから、死んだ後に罪を償う煉獄の思想が出てくるのです。
ところが、ルターは、大きな曲がり角を曲がるのです。着眼点が代わるのです。聖書の言葉は、人間の行いについて言っているのではなく、教えや教理について語っているのだということです。「キリストがすべての罪を赦し給うというのは、教え、即ち、教理です。その教えを否定して、キリストといえども、罪の赦しを与えることが出来なくなる時があるというならば、それこそ、聖霊を汚す罪であり、もはや許されようがないとの解釈に大転換をしたのです。
結論として、赦されない罪は、人間の行いについての言葉ではなく、キリストの救いの教えを否定する言葉だというのです。こういう結論に、晩年のルターは、ヤコブの手紙についても、わらとは言わなくなり、へブライ人への手紙は、金か銀に昇格するのです。ルターは、言います。「もし、人がキリストを否定して、他の方法で天国へ行こうとしているならば、もはや罪の赦しに至ることは、不可能である。何故なら彼は、我々に唯一つ罪の赦しを与える教え、教理から走り去るからである。このテキストは、教理についてのみ語っているのであって、行いについて語っているのではない。」
つまり、聖霊を冒涜する罪というのは、悔い改めて信仰に入って洗礼を受けて後、行いで犯す罪ではありません。キリストがすべての罪の赦し主であるという教理、教えを拒否することが、聖霊を冒涜する罪、それが永遠に赦されることのない罪なのです。
ベンゲルという学者は、「すべての罪が赦されることを否定して、認めまいとすれば、これは人間でなくなる、サタンになるのです。サタンになるときだけ、聖霊を汚す罪を犯すのです。人間であり続ける限り、人間の犯す罪は全て赦される。しかし、このすべての罪が赦されることを否定すると人間ではなくなり、サタンになるのです」。というのです。
マルコによる福音書3章の記事、イエスは神の霊によって悪霊を追いだしていると素直にとれるはずです。それを律法学者、ファリサイ派の人々は、素直に見れば、イエスが神の霊によって悪霊を追いだしていると認めざるを得ない出来事を見ながら、悪霊の頭によって、悪霊を追いだしているのだと聖霊に刃向かっているのです。
へブライ人への手紙は、「イエスが流した血によって人間の罪が赦されると説きます。これが、イエスの意味の究極です。それを私たちに教え示すのが聖霊の究極の働きです。その聖霊に敢えて反抗して、イエスの血によっても罪の赦しは与えられないのだと言い張る時に、聖霊を汚す罪を犯すということになるのです。ヘブライ人への手紙10章16節以下、「まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」これが結論です。
イエスが十字架に流した血は、無意味だと言い張る時には、聖霊を冒涜することになるのです。究極的なイエスの意味は、イエスの流した血によって人間の罪が赦されるということです。これを私たちに解き明かすのが聖霊なのです。罪の赦しはあり得ないと神の憐みに絶望する人間は、イエスの流した血を無意味にするから、聖霊を冒涜することになるのです。