日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.2.4「蒔かれた神の言葉」

Posted on 2018. 2. 6, 牧師: 藤田 穣

聖書 マルコによる福音書4章1~9節
  04:01イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 04:02イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 04:03「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 04:04蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 04:05ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 04:06しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 04:07ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 04:08また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 04:09そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
 
 立春
  昨日は、節分、今日は立春である。節分は、季節を分ける、季節が代わる、変わり目には、邪気(鬼)が生じるので、これを豆で追い払う、悪霊払いが節分の豆まきである。節分にの恵方巻をその年の恵方を向いて、無言で食べる習慣は、大阪発祥といわれるが、この20年来のコンビニエンスストアの仕掛けの結果である。
  立春は、農業暦と関連する。立春から八十八夜の5月2日頃は、春から夏に移る季節の変わり目で、霜が降りることが無くなるので、農家が種まき、田植えを始める時となる。八十八夜に摘むお茶は、長生きできるという言い伝えがあるという。立春から二百十日は、イネの結実の時であると同時に、二百二十日と共に、台風襲来の厄日として、古来、風害を防ぐ風祭の風習が行われていた。
  今朝は、イエスがガリラヤ湖畔で語られた「種蒔きの譬え」について学ぶ。

聞きなさい。
  イエスは、ガリラヤ湖畔で教え始められた。大勢の群衆が集まって来たので、イエスは、舟に乗って岸を少し離れ、舟上から教えられた。距離を置いて、群衆全体からみられ、聞かれる位置に立ち給うたのでした。
  イエスの有名な説教は、山上から群衆を見渡してなされました。距離を置いて話されています。今も主は、天上の高みから私たちを見、私たちに語り掛けておられることを覚えねばなりません。
  イエスは、譬えで教えられたとあります。イエスの教えは、神の国の教えです。神の国のことを、この地上のことで説明するのが、イエスの譬え話です。イエスの福音の中心である神の国のことを理解するためには、イエスの譬えをよく理解することが大事であります。
神の国については、前回の説教でも触れたが、神の御子イエスが救い主としてこの地上に来られたことによって、神の支配である神の国がこの地上世界に来た。イエスがおられるところに神の国があるということです。
  「よく聞きなさい。」譬えは、砕いた、分かりやすい説明ではありません。「よく聞け」で始まり、「よく聞きなさい。」で終わるこの教えは、イエスの語られたメッセージそのものです。
  ユダヤの人々は、申命記6章4節「シェマー、聞け」で始まる言葉を徹底的に叩き込まれておりました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。6:6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、6:7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。6:8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、6:9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」 神から与えられた律法を教える時の呼びかけの言葉です。旧約の時代、民らは代々にわたって、主なる神から呼びかけられ、聞くことを要求されたのです。このシェマは、ユダヤ人の信仰の基礎であり、神とユダヤ人の間 の愛と信頼の関係を物語るものです。
  そのように、しっかり聞いて神の国を告げる言葉を聞いて悟ることが求められます。聞き方について、イエスは、問題を提示されます。
  12節に、イザヤ書6章9~10節の言葉が引用されている。イザヤ書の原文は、「6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい、よく聞け、しかし理解するな、よく見よ、しかし悟るな、と。6:10 この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」とあり、これを引用したイエスの言葉が12節の、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
  神の言葉を真に聞くことはさほどに難しい。「聞く耳のある者は聞きなさい」である。
  私たちは、神の言葉を神の言葉として、真剣に聞いているだろうか。間違って聞いていながら、自分は正しく聞いていると勘違いしていないか。そういうことはないだろうか。
  日本聖書神学校に入学した時の校長、金井為一郎先生の講義は、わずか3回くらいしか授業を聞けなかった。先生が病気のために、天に召されたからである。 
その教えを思いだす。神はその言葉を、放送の電波のように、天から発信している。それをきちんと聞こうとすれば、その電波を捉えるのに、その周波数に受信機、自分の耳を合わせなければならないのです。神の発信の周波数に合わせて自分の信仰の受信機を合わせて聞く必要があるのです。

種蒔きの譬え
この種蒔きの譬えの理解は、14節以降、イエスから弟子たちに明かされます。蒔く種は、福音の言葉、主イエスがまかれます。
①ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ②ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。③ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 ④、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」とあります。
イエスは、ガリラヤの地形、地質に合わせて種まきの譬えを話されました。ガリラヤ湖周囲の土地は岩地であって、畑の耕作には不適当でした。それに加え、その頃の農業は、種を袋に入れて穴を開けて置き、いきなり種を土にばらまく、その後で、種を育てるために畝をつくり耕作をした。種蒔きは、ただの蒔きっぱなしに近かったのです。後は、神さま任せだったのかも知れません。
ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
 15節 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれたが、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 道端とは踏み固められた堅い土地です。それは、御言葉を受付ようとしない頑なな心です。そのような人は、大切な言葉をサタンに奪われてしまう。サタンは、巧妙に働いて人の強さと弱さを利用し、意識させないで御言葉を奪い去るのです。道端は通り過ぎるところですが、御言葉をも通り過ぎる言葉としてしまうのです。
 サタンは、巧妙に働くことが、聖書の中にも記されています。
フィリポカイザリアでのペトロのメシア告白の記事
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

②ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
16節以降 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
少しは神の言葉を聞こうとする求道心があっても、単なる好奇心や知識欲や利己心から来る人は、石の上に少し土が被った土地のようなものです。たとえ、発芽しても根を深く張っていないので、日が昇ると焼けてすぐに枯れてしまうのです。神の言葉を聞いても軽々しく理解してしまう人は、少し困難なことがあると信仰を捨ててしまう。自分の慰めや利己心のため自己本位で信仰を求めていたにすぎないのです。
教会に来る人の現実の一端もここに現れています。

③ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
18節 ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
人間味豊かで人生の色々なことに興味を持っている人かも知れない。しかし、その心は、茨の生えた土地のようなものです。土があるから、何でもよく芽を出し成長します。信仰心も芽生えて、あるところまで成長するように見えますが、他の人間的な欲望やこの世的な欲求なども、同時に成長します。しかし、そのまま放置しておけば、この世の物質的な欲望は、霊的な欲求より勢いよく育ちますので、折角芽生えた信仰心は茨のような雑草に覆われて身を結ばないまま萎びてしまうのです。

④、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」とあります。
 20節 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
良い土地というのは、土の深い、土壌の良く耕された岩や小石の混じらない土地で、これは、柔和で純粋な砕けた魂、心のことです。神の言葉は柔和な心に落ちれば、良く芽を出し成長し、数十倍の実を結ぶのです。その実の豊かさは、受ける心の深さと柔らかさに比例するのです。
ここで御言葉を「受け入れる」の原語は、「抱きしめる」という言葉です。御言葉を聞いて抱きしめる。私たちは、そのように聴いているだろうか?
神の言葉は、折角蒔かれてもすぐに芽生えてこないことの方が多いのです。人の心は曲がっていて、頑ななのです。
この譬えは、神の神秘について語っているのかもしれない。パウロ風に云うならば神の恩寵、恵みの賜物です。人間は一人一人、神からの恵が与えられているのです。自分は道端に落ちたような種、石地の上に落ちた種、茨の中に落ちた種のように思うかもしれない。
ここには、私たちの人生、一生が隠されているのです。御言葉をき続けて、抱きしめられるなら、それは必ずや実を結ぶのです。その人生のなかで、神の恩寵に与るのです。
神の言葉の種まきは、どのように聞かれても無駄になることはない。
その種まきの終わりには、必ず収穫がある。確かに、ある人は道端に落ちた種のように、サタンの攻撃に破れてしまう者もある。石地に落ちた種のように、すぐ困難や迫害に負けて、躓く人もある。ある人は、茨の中に落ちた種のように、この世の誘惑によって実を結ばない者もある。教えられたイエスの弟子たちは、この世の反対や迫害に遭うと、すぐに失望した。そこで、イエスは、福音の種まきは、無駄に見えても、必ず実を結ぶことを示して弟子たちを励まされたのです。
パウロもまた、「御言葉を宣べ伝えなさい。時が善くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心で良く教え、責め、戒め、勧めなさい」(Ⅱテモテ書4章2節、口語訳)と述べている。
1637年、輝かしい将来を約束された清教徒の牧師、学者ジョン・ハーバートは、英国から米国に渡った。困難の中でも信仰によって彼は学問の種を蒔いた。そして、1年後に彼は死んだ。しかし、彼の種まきは無駄に終わったのではない。1636年に建てられたその新しい大学には、彼の700ポンドの現金と200冊の本が寄付され、後に、最初の寄付者の名をとって、ハーバード大学となった。信仰によって彼の蒔いた種は、何百倍の実を結んだのである。
                        
冒険するキリスト                         伝道の書11章4節に、「風を警戒する者は種をまかない、雲を観測する者は刈ることをしない。」とある。風や雲ばかり気にしているようでは、種を蒔くことも刈り入れをすることもできない。パレスチナの農夫は、厳しい気象条件のなかで、その危険を知りつつ、賭けをしながら農業をしていた。種まきが種を蒔きに出て行った。(3節)そこには、厳しい気象条件で働く農夫の決断、冒険があった。この農夫こそ、神の子イエスである。 天からこの地上に遣わされる冒険をするイエスである。彼は、道端であっても、石地であっても、茨の中でも御言葉を蒔かれる。それは、全ての人に、福音を届けるためである。 イエスの冒険は、空しくはならない。 一人一人の人生の行程を通して、必ずや、聞き届けられるのである。  イザヤの預言にある。
天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。(イザヤ書55章9~11節)
神の恵の内に、私たちは人生を歩むのである。私たちの心の畑は、道端から、石地から、茨の畑から、恵みによってその人生の過程で良い土地・畑に変わりうるのです。
内村鑑三は、「人生は天国の譬え話である」と言われたそうですが、神の国の立場において見ると、初めてその意味が分かる。私たちの人生には、いかに神の国、神の恵みが隠されていることか?、私たちは、しっかりと主イエスの福音を、御言葉を聞かねばならない。
一人一人に神の命が与えられていることが人生の基本です。それぞれ別の道を歩むのですが、他の人にはない、自分に与えられている恵みがあるのです。ゆえに、神の許に、神の命に立ち帰りなさい、なのです。
御言葉を奪うあのサタンに対しては、ヤコブ書4章7節、「へりくだって、神に従いなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」何度挫折しても、立ち帰って、へりくだって、神にしたがうことです。根を張らない石地 ただ一時的に感動に終わるだけでなく、生活の中で御言葉を実践して行くことです。御言葉が根を張るようになります。
御言葉が茨にふさがれている 御言葉を塞ぐ心遣い、惑わし、欲望、これらの肉の思いを認めて、聖霊の導きに助けて頂きましょう。
主イエスは、私たちが悔い改めて、神に立ち帰ることを望んでおられます。人はすべて、命の根源である神に立ち帰らない限り心の安らぎはないのです。