日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.3.18「互いに足を洗い合う」

Posted on 2018. 3. 20, 牧師: 杉村和子

聖書 ヨハネによる福音書13章1~17節
 13:01さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 13:02夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 13:03イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 13:04食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 13:05それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 13:06シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 13:07イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 13:08ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 13:09そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 13:10イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 13:11イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。 13:12さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 13:13あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 13:14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 13:15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。 13:16はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。 13:17このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 受難節の時。今朝はヨハネ福音書だけが記す記事を学ぶ。
イエスが、最後の晩餐に行いをもって示された最後のしるしです。ユダの裏切り、ユダヤの指導者たち自分を陥れる受難を予告した。最後の晩餐に残される」弟子たちに大切なことを教えた。
 足を洗う。昔の人は、草履や下駄、草鞋を履いた。脱ぐときには足を洗う。
時代劇には、旅人が旅籠に着くと桶の水で足を洗う光景がみられる。パレスチナでは、乾期は埃っぽく、雨季は泥んこの道になる。人々はサンダルのようなものを履いた。どの家にも水がめと足を洗う下僕がいた。
イエスの一行は、エルサレムの知人の家にいた。このとき、イエスは、人々を救うために十字架に架かることが、神の御計画であることを悟られていた。
弟子たちの足を洗い始めて、足を洗うのは、僕の仕事であるとして、ペトロが拒否した。イエスが足を洗わないならば、自分と関係がなくなるといわれると、「手も頭も洗ってください」と云った。
イエスは、弟子たちの足を洗い終わると、「どうしてで弟子たちの足を洗ったのか」に言及された。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
足を洗うのは、下僕の仕事、下僕が仕えるように、互いに足を洗い合いなさいと命じられた。
人々はイエスを王に担ぎ出そうとしていた。弟子たちは、自分たちんぽ中で誰が一番偉いのかと争っていた。弟子たちは、イエスの思いを理解できない。
私たちが小さいころ、クラスは40名強、先生のお気に入りは誰か?成績の良い子、可愛い子、特徴のある子か、先生の思いを推し測っていた。
あなたがたは、「師」とか「主」とか言っているが、仕えられる者が、仕える者になったのだから、互いに足を洗い合いなさい」
互いに仕え合う、他者に仕えることである。主が弟子たちに仕える神の愛や
隣人愛につながるのだ。

 洗うということは、洗礼のことを言うとの説がある。ユダヤ人は、祝宴にでるときは、体を清めてから出かけるので、足を洗うだけで良い。イエスに清められた者は、足だけ洗えば良い。
 さて、洗礼を受けた者だけが救われるのか。神の眼差しが注がれていること、感謝が洗礼になり、交わりに入ることである。
イエスは、罪を赦し、病をいやし、苦しみを抱えた人につくした。足を洗い合うとは謙遜になることだ。イエスが去ったのち、弟子たちは、迫害にお遭いながらも、互いに手を取り、仕え合った。

 自分を低くすることは難しい。イエスは、人々の非難、蔑みに対し、謙遜をもって赦されたのだ。
 今の世の中はどうか。国民のため、隣人のため、仕える政治家がいたら、今日の状況にはなっていない。

 十字架の死まで神に仕えたイエス、その御業を想うとき、頭を垂れるのみ、
イエスは、ペトロに後でわかると言われた。十字架の後に分かった。十字架が人々に仕えることであると。
 人々は、イエスによって洗われなければならない。十字架は私たちへの奉仕、イエスは洗ってくださりわたしを救ってくださった。
 イエスは、私たちが仕えることを求めておられる。
 年を重ねると仕えられることが多い。仕えられること、それで良い。感謝をすることだ。イエスの愛と赦しの中で、互いに支え合うことだ。
 イエスの十字架を見上げつつ、受難節の1週間を歩みたい。