日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.3.4「受難の救い主」

Posted on 2018. 3. 8, 牧師: 藤田 穣

聖書 マルコによる福音書8章26~33節
 08:27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 08:28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 08:29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 08:30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 08:31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 08:32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 08:33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

フィリポ・カイザリアへ
イエスの一行は、ガリラヤを離れ、50km北方のフィリポ・カイザリアに退く、イエスは、弟子たちと水入らずの時を過ごした後、ガリラヤに戻り、エルサレムを目指すのです。そのエルサレムの道は、十字架への道である。マルコ福音書でイエスの生涯をみるならば、ここは生涯の最大の転換点である。最初に、マルコ福音書は、一直線にイエスの十字架の受難を目指していると述べたが、ここからマルコ福音書は、本文の「イエスの受難」に入るのである。
 フィリポ・カイザリアは、領主ヘロデ・フィリポの領地の最北限に位置する町である。ヘルモン山の山麓で、自然の美しい山紫水明の地であるが、近年はゴラン高原という名でシリア・イスラエル間の紛争地域である。
ヨルダン川の上流で水源にある洞窟には、ギリシャの牧羊神パンが祀られている。もう一つは、その近くにローマ皇帝アウグストゥスの神殿を建てた。ヘロデ王の息子フィリポは、ローマ皇帝に敬意を表してカイザリアと名付け、自分の名前を付し、地中海に面したカイザリアと区別した。
この町には異邦人が多く住んでいた。パン神に代表される偶像崇拝と、ローマ皇帝の政治権力が支配するこの町への途上でペトロのイエスに対するキリスト告白、信仰告白がなされる。

 神を信じているユダヤ人、しかし、神への信仰は、自然のことではなくなっていた。エデンの園を失ったアダムの子孫、人間の宿命である。私たちアダムの子孫にとり、神を信じ、告白することは、抵抗なくしてはありえない。この町におけるイエスの弟子たちは、偶像崇拝や政治権力にあがらって、イエスをメシアとして告白するものとして立たされる。キリスト告白は、異邦の地、辺境の地でなされる。それは、昔も今も変わらない。、私たちも夫々の立たされる場所で、その信仰を問われる。

 道すがら、イエスは弟子たちに尋ねられた。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
 それは、そのまま当時の人々がイエスを見ていた見方であろう。ヘロデが政治的に恐れていたヨハネ集団、エルサレムにある宗教権力が恐れていた終末時に現れる預言者エリヤ、そして民衆の担ぎ出す預言者の独りイエスという人々の評価。
 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです、即ち、キリストです。」ペトロは、本当にそう考えていたのか。反射的な答えではないだろうか?イエスをメシアとすることは、ユダヤの民衆のイエス観とは異なる。人間的な発言ではない。神によってなされた告白である。併行箇所のマタイ福音書16章17節には、「「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とイエスの言葉を付加している。
 それは、私たちの信仰告白においても然りである。信仰告白が本当に納得づくでなされているであろうか。そうではない、その告白は否定しがたい力に支えられている。告白を理論的に説明することは難しい。信仰を告白するとはそういうことではないか。
 この告白を一人で持ち続けることは難しい。告白が生き続けるためには、「あなたはわたしを誰というか」というイエスの言葉を聞き続けるしかない。故井上良雄先生がキリスト教の真理・信仰の真理について語られている。ガリレオ・ガリレイは、宗教裁判で地動説を撤回するように求められ、天動説を渋々認めた。彼は、裁判の帰り道、「それでも地球は動く」といった。科学的真理は。人間が肯定しようが否定しようが変わらない。動くことはない。しかし、信仰の真理は、「わたしを誰というか」とのイエスの問いにかかわり続けることであり、私たちが答え続けることを求められる真理なのです。

 30節 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
 何が問題か。二つの側面がある。その告白に対する世間の誤解である。旧約においてメシアは、油注がれた者の意味で、イスラエルの王、祭司、預言者などに対し用いられた。それが、捕囚、相次ぐ外国による占領のなかで、メシアは、イスラエルの民を苦難から解放する支配者として、その到来が待望されるようになった。イエスは、政治的、この世的王メシアと誤解されることを畏れた。その告白には受難するメシアへの理解がないからであろう。
 第2に、告白の内容ではない。告白する者の在り方だ。03:11汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
 悪霊でさえイエスを神の子と告白する。しかし、彼らはイエスへ付き従うことはない。ペトロの告白もそのキリスト理解と随従が伴っていない。

 受難と復活の予告
31節それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 
 イエスの受難は、既に2章20節、3章6節に触れられているが、ここで初めて予告される。これまで、復活については全く言及されていない。
 ペトロの告白に応える形でイエスのメシアに対する奥義が示される。繰り返して言うが奥義が理解できたから告白するのではない。メシアの秘密は、告白者の上にだけ明かにされる秘密なのである。
 人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、
 ここで、人の子と呼ぶのは、イエスご自身のことである。人の子という」概念は、伝統的なものである。ダニエル書の黙示文学に人の子の思想がみられる。ダニエル書が示した終末時の人の子は、「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」(ここでは神)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(同書7章22節以下)と、栄光の主として描かれている。
 しかし、イエスの受難予告に使われている人の子とは何であろう。受難予告だけに特化すれば、イザヤ書53章の苦難の僕の姿である。53章を読んでみる「53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。…53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。53:4 彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。53:5 彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。…わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。53:7 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。…53:11 彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」
 この苦難の僕とダニエル書の勝利と栄光の存在としての人の子が結びついて、受難の救い主(メシア)とその復活が予告されたのだろうか。
 しかし復活、予告の史実性は、マタイ福音書16章1~4節の「ヨナのしるし」の記事にある。ファリサイ派とサドカイ派の人々がこぞって押しかけ、イエスに「天からのしるし」を見せて欲しいと云った。これに対し、イエスは、「ヨナのしるしのほかには、何のしるしもあたえられない」といった。ヨナは、今、聖書研究会で学んでおり、今日学ぶ2章に、「ヨナのしるし」が出てくる。預言者ヨナは、敵国ニネベに行くことを嫌い、スペインのタルシシ行きの船に乗り、逃亡をはかる。しかし、船が大嵐に遭い、その原因が、ヨナに在ることが分かり、ヨナは大海に投げ込まれた。大魚に呑まれてその腹の中に、三日三晩いたが、陸地に吐き出され助かる。ヨナが大魚の腹の中にいたように、人の子は、地の中に葬られるが、ヨナが3日目に大魚の腹から出てきたように、イエスも地の中から甦る、それは、復活を予告されたととるのが妥当であろう。ヨナのしるしは、イエスが十字架に死んで墓に葬られるが、3日目に甦る復活の唯一のしるしなのです。

 イエスをキリストと告白したばかりのペトロは、受難予告を聞いた途端頭が真っ白になってしまった。あわてて、イエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33節 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とイエスから厳しい叱責を受け、しかも悪魔よばわりされている。

 ぺトロと他の弟子たちがイエスの受難予告を拒否したのは、単なる無理解だけではない。そこには受難のイエスへの随の覚悟がない。彼らには十字架に架かる神の子・メシアは理解できない。それは、だれしも同じである。十字架が躓きだからである。十字架は納得することを赦さない。
ペトロがイエスを叱る。十字架の予告に躓いて、こともあろうにイエスをたしなめた。もっともらしく、イエスを脇へ引き寄せて諫めるのである。  
イエスはペトロにサタンを見た。あの荒れ野の誘惑でイエスの前に立ちはだかったサタンだ。ペトロのなかにサタンが顔をだす。ペトロの人間的な思いの中に、自己中心的な頑なさのなかに…。

信仰が深まったと思えた時になぜか。光に近づけば近づくほど、自分の陰も深くなる。信仰の深みは、不信仰の活躍する舞台でもある。
(故清水恵三牧師)

 イエスは、この後の34節で、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と云っている。パトロや他の弟子たちが十字架の意味を知り、イエスに従ったのは、イエスの十字架の死、復活、聖霊降臨の後であった。聖霊を受けたペトロの演説がある。 
 使徒言行録2章22節以下、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。…神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(22~32節)
 私たちもまた、その証人である。過日、召された志澤冨雄牧師は、正教師試験に合格して半年、療養所内での伝道を本格化しようと張り切っていた時に、再び、結核に犯された。唯一の特効薬ストレプトマイシンは、熱やタンを鎮めたが、腸結核に悩まされた腸には効かない。栄養が摂れず、死を覚悟するに至った。その時に出会ったのが、使徒言行録27章24節の
「あなたはカイザルの前に立たねばならない」との言葉である。ローマ伝道の使命に燃えていたパウロがキプロスから船出したとき暴風雨に遭い、
難破の危険の中で、食料もなくなり、生きる希望を失せたとき。パウロの
前に現れた御使いの言葉である。神による偉大な必然、パウロは、マルタに上陸、ローマに赴くことができた。
 志澤牧師は、召命を受け、伝道者として立たされている。今、死ぬわけにはいかない、伝道者として立たねばならない。この言葉を力として、節制し、健康を取り戻し、伝道に邁進した。
 私たちも信仰を告白したイエスの弟子として立たされていいる。日々の
生活の中で、「あなたはわたしを誰というか」信仰の告白を迫られている。私たちもクリスチャンとして、信仰者として、弟子の一人として立たされている。
私たちもその生活の中で、どのようにせよ、イエスに従ってゆくことを、主を証する者として立つことを求められている。