日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.3.4「最後の晩餐」

Posted on 2018. 3. 12, 牧師: 藤田 穣

聖書 マタイによる福音書26章19~29節
 26:19弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。 26:20夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。 26:21一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 26:22弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 26:23イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。 26:24人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 26:25イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」 26:26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 26:27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 26:28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 26:29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

過越の食事
今日は東日本大地震が起きて7年になるその日です。石巻市の大川小学校では107人の全校生徒のうち74名が津波の犠牲で亡くなりました。この津波に巻き込まれ、九死に一生を得た男子生徒が大学生になりました。彼は津波で妹を失いました。今は、震災を忘れないため、遺すことの決まった大川小学校ので地震、津波の体験を観光客等に話す語り部として活動しております。大川小学校の津波による悲しい出来事は、決して忘れてはならないことだからです。繰り返してはなrないことだからです。

ユダヤの人たちも神さまとの間で決してわすれてはならないことがありました。そのために、毎年、3月になると、過越の祭りをお祝いしてその出来事を思い起こし、心に刻むのです。
過越というのは、昔、エジプトの国で奴隷として苦しんでいたユダヤ人の先祖を神さまが救い出してくださったことを思い起こして感謝するお祭りです。それは、紀元前1200年、今から3200年前のことです。
しかし、今でもユダヤの人たちは、毎年家族で特別な食事を食べて、神さまに感謝するのです、
イエス様とお弟子さんたちもこの過越の夕食を囲みます。

裏切りの予告
イエス様とお弟子さんたちは、知り合いの信者さんの家に集まりました。
食事が始まるとイエス様が悲しそうな顔で仰いました。「あなたたちの一人がわたしを裏切ります。」お弟子さんたちはびっくりしました。「どうして?イエス様を裏切るなんて」そして「イエス様、わたしのことではないでしょう」と次々に言いました。そんななかで、ユダという弟子が黙って下をむいていました。
イエス様は、『わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。』と仰いました。イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことではないですよね』と言いました。
実は、ユダはこの食事の前に、イエス様を憎むユダヤ教の指導者に会いに行ってました。彼らにイエス様を引き渡す約束をして、銀貨30枚を受け取っていたのです。
イエス様は、ユダを見つめて言われた。『いや、あなただ。』イエス様は、ユダがしようとしていることを御存じでした。ユダが罪を犯す前に「ごめんなさい」と謝り、やめることを願っていらっしゃったのです。しかし、ユダは、こっそり食事の席から去ってゆきました。

パンとブドウ酒
過越の食事は続きます。イエス様はパンを取り、祝福のお祈りをなさいました。そして、ちぎったパンを弟子たちに渡して、「取って食べなさい。これはわたしの体です」と仰いました。
 イエス様は、また、ブドウ酒が入ったコップを取ると神さまに感謝の祈りをささげて、それを弟子たちに渡して仰いました。「このコップから飲みなさい。このブドウ酒は、わたしの血です。多くの人の罪を赦すために流すわたしの血です。」
 イエス様は、これからご自分が、ユダヤの指導者たちに捕らえられて十字架にかかって殺されることをお告げになりました。
 しかし、それは、すべての人の罪を赦すための神さまの御計画だったのです。罪を持ったわたしたちは、そのままでは神さまの前に出て、神様の裁きに耐えられません。何も罪のない神の子イエスさまが私たち罪を背負って、私たちの代わりに十字架に架かってくださいました。
「イエス様が、わたしの罪のために十字架かかり、血を流されたと信じ
る人は、罪を赦され、神の子とされ、永遠の命を頂くことができきます。」
イエス様がこの夜、弟子たちに渡されたパンとブドウ酒を記念して、
聖餐式が世界中で行われています。イエス様を信じる人が、パンとブドウ酒を頂き、イエス様の十字架によって自分が救われたことに感謝をささげています。そして、イエス様を救い主と信じる信仰を堅くする思いを新たにしているのです。
 祈ります。
天のお父さま、イエス様が私たちの罪を赦すために、身代わりとして十
字架に血を流してくださったことを感謝します。このことをしっかり心に
刻むことが出来ますように。来週もお友達一人一人が元気で教会に来ることがっできますように。イエス様の御名によって祈ります。 アーメン
                    (子どもの礼拝 終了)
 
昨日、去る6日に、ALSのため、天に召された故重富昭夫兄(伊藤かおる姉父上の葬儀が雪ノ下教会で行われました。重富兄は、1993年から1999年まで当教会員であり、役員会の書記として奉仕下さいました。 
お葬式の最後に、奥さま由美子さんの挨拶がありました。6日には、娘のかおるさんと二人で付き添い、昭夫さんのひげを剃り、ドライシャンプーをして、讃美歌を歌っておりましたが、呼吸が乱れてゆき、由美子さんは、神さまの時を悟ったのだそうです。昭夫さんは、静かに安らかに息を引き取ったそうです。神さまのなさることは時にかなって美しい、と仰っておられました。昨年、昭夫兄と電話で話したことが有りましたが、LASを発症して新たな世界が開けたと神さまにその運命をすべて託しておられた姿勢が、すごく印象的でした。
 
イエスの受難予告 ユダの裏切り
先ほども触れましたが、当時のユダヤの人々にとって最大の出来事は、
出エジプトの出来事です。彼らの先祖、イスラエルの民は、エジプトで奴隷の生活をしておりました。その惨状をつぶらに見聞きしたイスラエルの先祖の神、アブラハム、イサクの神である主は、それを憐み、先祖との約束を守り、モーセを指導者としてエジプトからイスラエルの民を助け出すことを決意されます。
神は彼らを助け出すために、民を奴隷としていたエジプト人の長子、彼らの飼っていた家畜の初子を殺す死の御使いを遣わしました。その時に、イスラエルの民は、その鴨居に塗った小羊の血のゆえに、御使いがその家を過ぎ越したことから、イスラエルの民は、助かり、そのすきに、エジプト脱出を果たしたのでした。
この出エジプトの出来事を記念して過越の祭りが祝われるようになりました。神が奴隷の民であったイスラエルを解放してくださったからです。 旧約聖書には、神がイスラエルに対して、自分がお前たちを救い出したと何度も繰り返し記しているのは印象的です。この出来事を通して神さまはイスラエルと契約をしました。それが古い約束、旧約です。
 旧約聖書には、神様のこの古い契約、約束が記されているのです。
 出エジプトの後 十戒を与えられた時、神は云われました。申命記6章1節以下です。 
 6:1 これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。6:2 あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。
6:3 イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。 
6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。6:6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、6:7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
6:17 あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、6:18 主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得る。

神の与えた十戒。律法を守ることを第一とする生活が与えられたのでした。そのことが旧約聖書にかかれています。

この旧約の故事を記念する過越祭の時に、イエスと弟子たちはエルサレムに滞在しておりました。受難週の木曜日のことです。本年の聖書の暦では、3月29日の木曜日になります。イエスは、この日の夕飯を、知人宅で弟子たちととられます。これが、最後の晩餐となります。この中でイエスが弟子たちに予告したのが十字架の受難予告であり、この席で弟子たちに託されたのが聖餐式でした。
その受難予告の中で、23節、イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
 イエスは、ユダの裏切りによって、十字架につけられようとしております。イエスは、自分が十字架にかかることは、イザヤ書53章で預言された通りなのだといわれます。ユダの裏切りは予定外のことです。ユダの裏切りがなくても、イエスは十字架に進まれるのです。それゆえ、人の子を裏切るユダは不幸だ。ユダは生まれてこなかったほうが、彼のためによかったであろう、と言われたのでした。

さて、この最後の晩餐にある聖餐について、聖書の中で最初に記されたのは、AD50年代初めに書かれたパウロの手紙コリントの信徒への手紙1であり、その11章23節以降の記事です。
 23節 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
 パウロは、イエスの弟子たちから伝えられたことをそのまま書いております。現在この言葉が、聖餐式の式文に使われております。

 さて、主イエスご自身のこのような最後の晩餐での聖餐の出来事がなければ、誰が十字架を見て、主イエスが私たちにその肉を与え、血を、命を与えてくださったのだとわかることができましょうか?私たちは、教会のこれまでの歴史のなかで、主イエスの十字架は、私たちの救いのために、罪の赦しのために、その体と血を投げ出してくださったのだとわかります。
28節 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。とあります。イエスが十字架を通してその命をご自分を与えるということに、大きな意味があるのです。
 ここに、イエスの流された血、命を通して、新しい契約が立てられるということです。新しい約束がイエスを通して神との間に立てられたのです。新しい約束が神様との間に建てられるために、神の御子がご自分をささげて、十字架にかかる必要があったのです。
イエスは、ただ、約束と言わずに、罪の許しを得させるために、多くの人のために流すわたしの血、契約の血と言われました。つまり、ここに、神と人間との間に新しい契約ができるために、神と人間との間に、イエスによる救いの道が開かれたのだと記されているのです。

これが新しい契約です。旧約聖書で預言者エレミヤが新しい契約について預言しております。 エレミヤ書31章31~34節の予言です。
31節 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」
 このように新しい契約が預言されていました。
 イエスの出来事を見てみましょう。
 ここで注意すべきことは、ユダを含めた直弟子たちの裏切りを知りながら、イエスが彼らの赦しのために十字架にかかられたことです。しかも、主イエスは彼らを赦し、イエスの愛のしるしとしてあらかじめ聖餐を与えられたのでした。これを起源として、2000年教会で行われてきた聖餐式、それは、十字架の赦しの恵みが、不信仰なわたしたちのために、繰り返し、繰り返し記念し、心に刻むためなのです。
 旧約聖書 哀歌3章22~23節には、
3:22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。3:23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。」    
 主イエスが十字架にかけられたのは、2000年前の出来事です。しかし、その救い、その慈しみ、その憐みは過去の出来事ではありません。2000年前に救いが完成されたから、今があるのです。その約束は今も生き続けているのです。十字架の主は、今もなお語り続け、赦し続けているのです。
 パウロの言う通り、これは聖餐式の式文に引用されていますが、 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(コリント1書11章26節)であります。また、さきほど触れました哀歌にあるように、「 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。3:23 それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実(主イエスの真実)はそれほど深い。』」 だからです。