日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.4.1「わたしは、主を見ました」

Posted on 2018. 4. 1, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨハネによる福音書20章11~18節
 20:11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 20:12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 20:13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 20:14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 20:15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 20:16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 20:17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 20:18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

イースターおめでとうございます。
イースターの朝、マグダラのマリアと女たちは、イエスの葬られたアリマタヤのヨセフの墓に急ぎます。この墓の場所については、2つの説があり旧市内にある聖墳墓教会、一つは外壁の外側にある、フランシスコ派の修道院の中庭にある庭園墓地である。1979年3月訪れたとき、この静かな庭園の芝生には、アネモネや黄色いケシの花が短い命をちりばめ、その辺りを暖かいだいだい色の光が包んでいた。キリストが復活された朝も、きっとそうだったに違いないとわたしは直感した。
イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。(ヨハネ福音書19章41節)と聖書にもある。(大串元亮著 ヨハネ福音書説教「光は闇の中にあった」より)
信徒の友の4月号は、イースター特集で、マグダラのマリアを取り上げております。山梨県立美術館学芸員の太田智子さんが、マグダラのマリアを描いた絵画を追いかけています。18世紀のオランダの画家アリシェフールの「十字架の下のマグダラのマリア」は、マグダラのマリアが十字架の下で手を組み、上に架けられているイエスを一心に見つめています。見開かれた眼差しは鋭く、彼女の強い感情が表されています。十字架の絵画には、マグダラのマリアは、必ず登場しますが、打ちしがれ、涙を流す姿で描かれてきました。しかし、シェフールは、十字架に架けられてもなお、マリアの主イエスに付き従おうとする決意を感じさせる、とありました。

 ガリラヤ湖北方の町マグダラ出身のマリアは、7つの悪霊につかれるという重い病気を、イエスによりすべての悪霊を追いだして頂き(ルカ福音書8章2節)病気から解放されました。マリアは、その感謝と共に、他の女性たちと一緒にイエス付き従いました。マリアは、イエスによって与えられた新しい人生をイエスのために尽くそうと従ったのでした。
 しかし、敬愛するイエスは、十字架刑によって奪い去られます。その処刑をマグダラのマリアは、他の婦人たちともにも遠くから見守っておりました。マルコ15章42節以降、既に夕方になった。その日は安息日の前日でした。安息日には死人の葬りが出来ません。イエスを信じていたアリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ました。ピラトは、イエスが死んだことを、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡しました。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの婦人たちは、イエスの葬りのための油と香料を買い求め、そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
 ヨハネ福音書20章 そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。シモン・ペトロのところへ「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。身をかがめて墓の中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。シモン・ペトロは墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。もう一人の弟子も入って来て、見て、墓が空っぽであることを確認したが、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
 しかし、マグダラのマリアは、一人残り、墓の外に立って泣いていた。
マリアの生きる望みであった主イエスが刑死により奪い去られたのです。「星の王子」で知られるサンテグ・ジュベリは、「愛する人だけが悲しむことが出来る」と云い、精神医の土居健郎氏は、「悲しみの秘密は愛である」と語っている。マリアはイエスを失った悲しみの故に、涙があふれて止まない。涙は、悲しみを浄化してくれる愛となりうるのだろうか。
 マリアにとってもイエスの死の事実を受け止めるしかない。しかし、せめてもイエスの遺体に油を塗り、丁重に遺体を埋葬したいと願っていた。
 しかし、そのイエスの遺体すら奪われ、なすすべもなく途方にくれて、泣くしかなかった。マリアは、墓に執着し、イエスの遺体、その葬りに執着していた。なおも、墓に、イエスの遺体を求めていた。
 
 11節b 泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言った。天使はマリアに問題提起している。マリアは答えた。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」マリアは、イエスの遺体を見失っていた。同時に、イエスが十字架上において死んだ意味が分からず、イエスが一体何者であるかをも見失っていたのでした。
マリアの立っている地平に、マリアが思い見ている方向にイエスはおられないということである。
ヨハネ福音書9章39節 イエスは言われた、「わたしがこの世に来たのは、…こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」ためだと言われます。
 マリアが見ている方向とは、180度反対の方向にイエスは立っておられる。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
 イエスの言葉は、天使と同じであるが、「だれを捜しているのか。」と
更に、反問している。マリアの捜している者はだれか?7つの悪霊から解放され、イエスの愛と信頼に応え従って来た。マリアや弟子たちが知っているイエスという延長線上では、イエスの十字架の死の意味は、分からないといことである。弟子たちが描いていた栄光のメシアは、イエスの十字架によって否定され、拒絶されたのでした。
 何故、泣いているのか、イエスの十字架の死を愛する者として、人間的な死として弔おうとしているその延長線上で、マリアが泣いていたからである。マリアの捜している方向、従来からのイエス理解をイエスは、拒絶している。それ故に、イエスがおられるのに、マリアは分からない。彼女は、話かけたのが墓の園丁と思っていた。
 20:16イエスが、「マリア」と呼びかけたとき、この言葉によって、心の目が開かれたのです。マリアと呼ばれる方が主イエスであることを知ったのです。彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
 イエスは、マリアの向いている反対方向から、「マリア」と呼びかけた。マリアは、振り向いた。振り向いた瞬間、マリアの住んでいた世界が変わった。マリア自身が変わった。墓に向かって、悲しみの涙を流していたマリアは、そこにいない。彼女を変えたのは、マリアと呼びかけたキリストの声である。
ヨハネ福音書5章24節、「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、…死から命へと移っている。 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
マリアは、墓のなかで、死人と同化していた死んだ状態から、イエスの声を聴いて生きる人間とされた。「ラボニ」先生と云った。マリアは、イエスを発見したのでした。まさに地上で生きておられたときとお同じように、死んで復活されたイエスに呼びかけたのである。
 マリアが見ていたのとは、180度視線を転回した方向に、復活のイエスは居られたのでした。復活とは、まさにこのような出来事である。
 それは、神がイエスを死人の中から復活させられた出来事が最初にあって、復活の主と出会ったマリアが、悲しみから喜びへ、絶望から希望へ、死と滅びから永遠の命へと180度転換させられたのでした。
 イエスが死人の中から復活させられた出来事とマリアの悲しみ、絶望、死から生へ、喜びへと新しく生かしめられる出来事が同時に起きているのである。
 この一瞬をとらえた数々の絵がある。ラフォッセ、コレッツオ、レンブラント、アンジェリコ、ティツィアーノらが、朝のゴルゴタの丘を背景にして、マリアと呼びかけたおぼろげな朝霧の中の人の声、その声を耳にして「ラボニ」と叫んだマリアの顔を見事に描いている。かって、「7つの悪霊に憑かれていた」マグダラのマリアは、真珠色の朝の光のなかで地上を超えたキリストの姿を見ることができたのでした。
17節 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」
 マリアは、イエスにラボニと呼びかけた。いつものように、イエスの所に駆け寄ろうとすると、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」と言われた。これは、マリアに対する断絶の言葉ではない。この箇所は難解である。
 秋田稔先生によれば、マリアに現れたイエスは、確かに地上のイエスとして現れつつ、接触不可能、即ち、存在しつつ(居られつつ)、存在しない(不在、居られない)のです。別の言い方をすれば、父の身許に帰ろうとしておられるイエスが、同時に、将来、地上に帰ってこられる再臨のキリストとしてここに立っておられるということです。未来に到来する霊的イエスの姿と今、父の身許に帰ろうとしているイエスの姿が同時に顕在化しているのです。
 イエスは、マグダラのマリアに命じられます。
 今、お前は目の前で起きていることを、人々に伝えなさい。次元が変わるのだ。復活の主は、父なる神の許に上り、約束したように、聖霊として、霊的な交わりをすることになる。ヨハネ福音書14章16節以下には、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。…この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 14:18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」と約束しておられるのです。
復活とはその約束の成就です。私たちの背後にイエスがいつも共にいてくださることと云えるのです。
 私に縋りつくのはやめよは、180度方向転換して、兄弟たる弟子たちにわたしと出会ったことを伝えなさいなのです。
わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。 この証人とされるのです。
 イエスは、マリアに復活の証人、福音の証人となることを求めている。
 マリアは立ち止まっていてはいけないのです。20:18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えたのでした。マリアは、もっとイエスと共に居たい衝動を抑えつつ、イエスの命令に従いました。イエスを愛していたからです。
マリアは、主を確かに見ました。父の御許に帰ろうとしている復活のイエスを見たのです。
 イエスが父の許に上るのは、別れの時であると同時に、父なる神とイエスの弟子と信徒たちとの永遠の共同体の交わりの始まりの時なのです。
 イエスの復活の最初の証し人は、他の誰でもない、イエスに最も感謝していた一人の女性マグダラのマリアでした。神は弱く無力な者を用いて、
圧倒的な主イエスの復活の事実の証人として、用いられたのでした。
 この出来事は、復活のイエスが今も生きて、一人一人に出会ってくださる方であることを語っております。それは、今日をこの現代を生きる私たち一人ひとりに出会ってくださるという福音のメッセージなのです。