日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.4.29「豊かな実を結ぶために」

Posted on 2018. 5. 1, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨハネによる福音書15章1~11節
 15:01「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:02わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 15:03わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 15:04わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 15:05わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 15:06わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 15:07あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 15:08あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 15:09父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 15:10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 
2014年前英国のコンクールで甲州白ワイン初の金賞
 日本のブドウの産地は山梨県、古くからワインの醸造もなされている。日照時間日本一を誇る山梨県北杜市明野町は、高地にあるので、昼夜の寒暖差が大きい。緩やかな西向き傾斜による水捌けの良さを含め、ワインづくりの世界の名醸地に匹敵するレベルにあるといわれる。甲州種のブドウの最大の課題は糖度の低さだ。ワインにしたとき、さらっとさわやかだが水っぽいと評価されていた。ナチュラルかつ質の高い風味を求めるのであれば、20度以上の糖度が必要になるが、甲州種は「糖度20度の壁」という言葉もあるほど栽培によって糖度が高めるのが困難な品種として知られていた。
甲州ブドウは棚栽培が一般的だが、世界のワイン産地の多くは垣根栽培である。甲州ブドウの“垣根栽培”は1本の木から10房〜20房程度と収量は少ないが、一房にいく養分が多いので甘くなる。この20度の壁に挑戦したのが三澤ファイナリーを父から継いだ三澤彩名さん。ブドウは植樹してから3年で収穫期を迎えるため、垣根栽培を始めた2005年に植えたものは2007年に収穫することになる。2007年から毎年、垣根栽培で実った甲州種の糖度を計るたびに期待に胸を膨らませてきたが、口から出るのは落胆のため息ばかり。醸造家として自信を失いかけていた彩奈さんに光明がさしたのは、2012年だった。その年にできた甲州種の糖度が20度を越えたのだ。口に含んだ時の風味の凝縮感も、それまでとは明らかに異なるものだった。待ちに待った甘い甲州種を生み出したのは、2009年に、南アフリカの大学院の教授から提案された高畝式を採用した畑だった。明野町が、日本のなかで日照時間が一番、日本一雨が少ない町だと言っても、世界的には雨が多い場所なんです。それで、高畝式で排水するようにしたのだ。父の代から苦節21年、垣根栽培による糖度の高いブドウを目指す栽培の戦いが実った。
2014年、世界各国から15、007銘柄が出品された英国の世界最大のワインコンクールで、彩名さんが出品した白ワイン「キュヴェ三澤 明野甲州2013」が日本のワインとして初めて金賞を受賞したのだ。金賞を得たのは158銘柄で、全体のわずか1%という狭き門。同時に、アジア地域の最高賞「リージョナルトロフィー」も獲得した。いま育てている甲州種の樹の中から、ワイン用のブドウとして重宝される、小ぶりで粒も小さく、凝縮された糖度20度を超える房をつける樹だけを選び、糖度が20度に満たない樹や風味の乏しい樹を切って、植え替えているのだ。そうすることで、今のクオリティをしのぐ甲州種を生み出そうとしている。選定した枝(挿し木、接ぎ木)が実をつけるのは3年後だが、彼女は今からワクワクしているという。   (2015年10月レポート 川内イオより 引用)

ブドウの木
聖書によれば、ブドウは、繁栄と祝福の徴でした。しかし、果物の栽培でぶどうは、手間のかかるものとして知られています。普通、丘の段々畑で栽培され、土地は完全に整備されている必要がある。枝は、しばしば棚の上で仕立てられる。 肝心なことは土壌の整備である。ブドウの木は勢いよく茂るので、徹底的な刈込が必要である。ブドウの若木は、3年間、実を結ぶことを許されない。今も変わりません。より良く生育するために、毎年徹底的に刈り込まれ、切り落とされる。実のなる枝と実のならない枝とがあり、実のならない枝は、容赦なく切り落とされる。ブドウは、このような手入れ、刈込をしなくては、決して豊かな収穫は期待できない。
イエスは、ブドウの栽培を知っておられたのである。

イエスは、いつものように譬えで語られた。旧約聖書では、イスラエルの民は、ブドウの木、あるいはブドウ畑として描かれている。ブドウの木とは何であろうか?
詩編80篇は、神がこの民をエジプトの地から、カナンの地へ導き給うことを回想しつつ、現在、神がイスラエルを見捨て給うことを嘆き、祈っている詩編だ。
あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせこの木は地に広がりました。その陰は山々を覆い枝は神々しい杉をも覆いました。あなたは大枝を海にまで若枝を大河にまで届かせられました。(8~12節)
 神はブドウの木なるイスラエルの民をカナンの地に植え給うたので、枝を張って山々を覆うほどに増えたという。しかし、預言者エレミヤは、「わたし(神)はあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて、悪い 野ぶどうに変わり果てたのか。」(同書2章21節)と神さまの嘆きの言葉を伝えている。
  ブドウの木であったイスラエルは、エジプトから豊かなカナンの地に植え替えられた。甘いブドウがたわわに実ることを期待したのに、神さまの言いつけに背いき続け、酸っぱい野ブドウに変わり果ててしまった。これが歴史の示すブドウの木イスラエルの民の現実でした。
  イエスは、イスラエルがブドウの木になぞらえられているが、わたしこそ、まがいない、本当の、真実のブドウの木であると云われたのです。
まことのブドウの木は、アブラハムとその子孫、イスラエルの12部族でもなくて、モーセでもなく、わたしイエス・キリストであると宣言されます。 アブラハムが、モーセがブドウの木と考えられた時代もありましたが、それらは、たわわに、豊かに実を結ぶ、信仰の実を結ぶ木ではなかったと云われたのです。
まことのブドウの木である主イエス・キリストにおいて、ブドウの枝は、豊かに実を結ぶと宣言されたのです。イエス・キリストのうちに神の救いを見出している信者こそ豊かに信仰の実を結ぶ者だと語られているのです。
 わたしの父は農夫、ブドウ畑の持ち主、栽培者です。 15:02わたし(ブドウの幹)につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶ良い枝は、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさるというのです。先ほどのブドウの栽培と同じです。
こども讃美歌60 主イエスはまことのブドウの木という歌があります。この歌詞を読むと今日の話の大筋がわかり易いと思います。
   1.主イエスはまことのブドウの木 わたしはつながる小枝です あふれる命をいただいて わたしはおおきく育ちます
   2.小さいブドウは幹なしに 大きな房にはなりません 育てる神さま手入れして 
実らぬ小枝を切り捨てる
   3.主イエスはまことのブドウの木 わたしはつながる小枝です しっかり主イエスにつながって 立派なブドウになりましょう 
ブドウの枝が大きく育ち豊かに実を結ぶためには、樹液から栄養を授からねばなりません。しっかり幹につながっていなければ実を結ぶことはできません。さらに、手入れして刈り込む必要があります。実を結ばない枝は、農夫である神さまがそれを刈込み、切り取ってしまうと云われます。
  つながっていながら実を結ばない枝とはどんな枝でしょう。イスカリオテのユダのことを暗示していると注解した先生がおられます。ユダは、弟子として主イエスにつながっていながら、そこに留まっていなかった人です。ユダは、神さまが切り取ってしまう対象として理解されます。 
しかし、聖書を見るとユダの方が主イエスに見切りをつけていたように思えます。頭がよくて計算高い、政治的権力を求めたユダは、最初こ そ、イエスに期待をかけましたがこれではダメだと見切りをつけたのです。イエスに従ってゆくことが自分の政治的野望を満たせると思っていたのに、イエスの運動は、全く逆の方向に展開されてゆく。ユダはイエスと仲間の弟子たちに見切りをつけて夜の闇に出て行きました。彼は、自分の先生であるイエスを裏切り、祭司長たちユダヤの指導者に売り渡し、十字架に引き渡すのです。
しかし、これを神さまの方から見たら、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」ということになります。
  これは、神さまの脅しだと理解する人がいるかもしれません。しかし、神の幹に命の根源を見出した人に、「この幹から離れたら何もかもお終いになってしまうんだよ」と訴えられている言葉でもありましょう。
  わたしの話した言葉を信ずることによって、あなたがたは、救われ、既に清くなっている。イエスの言葉を信ずる信仰によって、幹から命の源である樹液を頂く、イエスの生命共同体に入れられており、幹なるイエスと枝なる信者は運命共同体と云えるかもしれません。
  5節 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
  なぜ、主イエスにつながらなければならないのか? 私たち人間が命の根源でないからです。生物学的に命を持ち、生きているが、人間としての命は神に起源しているのです。月は明るく星空にありますが、それは、太陽の光を受けて反射しているにすぎません。自分で光を発しているのではありません。 私たちには自分の命の死期を定めることはできません。それは、自分が命の源でないからです。主イエスというブドウの命の幹から樹液を頂いて生きる、成長する枝なのです。
  それは、ヨハネ福音書14章6節の言葉につながります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」神さまの許に至るには、主イエスが示す道を歩むことが求められます。

  7節 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、…。
つながっているとはどういうことでしょうか。イエスの傍にいればよいということではありません。イエス・キリストの内側に取り込まれることです。我がうちに留まれという訳もあります。留まるとは、留まる方への信頼が明らかにされなければなりません。もし、信じることができないならば、イエス・キリストにとどまりつづけることはできません。それは、神さまの命のなかに生き続けることです。それは、神さまの言葉が、心のうちに根を下ろすことです。宗教改革者ルターは、「わたしの心の根拠と地盤とは、新しくされ、つくりかえられる。信仰により、キリストに根付かせられることである。」と述べています。イエス・キリストのうちに、わたしたちが根付くことです。イエス・キリストにつながり、一つになることです。
これをパウロはこう表現しています。コリントⅠ書12章27節、「12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
パウロは、キリストが教会の頭であり、あなたがたクリスチャンはその肢体、手足であると云っております。これを集合人格、共同人格と呼びます。これは、へブル的な考え方です。教会はキリストを頭として、クリスチャンは、その肢体、手足、構成員という考え方です。構成員というとどこか組みたいですが…。昔、やくざから足を洗い、いま自分の親分はキリストだと宣言した牧師がいましたが…。
この集合人格のことは、パウロの回心の出来事に現れます。使徒言行録9章です。クリスチャンを迫害するために、シリアのダマスコ城外に近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。パウロは地に倒れ、「パウロ、パウロ、何故、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「あなたは、どなたですか?」と聞くと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と答えがあった。 このことは、実は、クリスチャンを、教会を迫害することは、キリストを迫害することである。ここに、パウロのキリストの体なる教会という考え方が出てくるのです。
マタイ福音書25章では、イエスがこのことに触れています。25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 25:37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 25:38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 25:39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
わたし(キリスト)と関わるこの最も小さき者の一人にしたことは、即ち、わたしキリストにしたことである。
 このように私たちは、イエス・キリストに属する構成員となる、神さまと運命共同体になるのです。

神さまと心と思いが一つになれば、神さまの願いが信ずる者の願いになって、祈りは聞かれるのです。
 Ⅰヨハネ書5章14節に、「5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」と記されている。
 祈りが聞かれると多くの実を結ぶ。それで、イエスの弟子であることが
証明される。この8節までで、信仰者の生活は、キリストの愛によってその土台が据えられた。

9節 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。  
 天上の父と主イエスが愛で一つであり給うたようにキリストと信者も愛によって一つになる。
讃美歌284番4節の歌詞に
老いの坂をのぼりゆき 頭の雪つもるとも変わらぬ我が愛におり 安けくあれ わが民よ とあります。
神の愛に留まるとは何か。ヨハネⅠ書4章12節、「 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」この言葉も肝に銘じなければなりません。