日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.5.16「喜びで満たされる」

Posted on 2018. 5. 8, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨハネによる福音書16章12~24節
 16:12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 16:13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 16:14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 16:15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」 16:16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」 16:17そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 16:18また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 16:19イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。 16:20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 16:21女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 16:22ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 16:23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 16:24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

2月に天に召された志澤冨雄牧師が云われたことで、今も耳に残る言葉のひとつは、聖書の言葉は奥が深くて分からないことが多い。分かったと思ったことがまた異なった解釈、思いに至ることがしばしばある。分からないから、更に、聖書を読まなければならない。95歳になろうとする牧師の言葉である。牧師の長年の見識からそういわれる。つきない真理の探究者の言葉であろう。

教会の暦では、今は、十字架に死んで甦った復活のイエス・キリストが、弟子たちに現れ神の国、神の支配について、教えられている期間であり、イエスの昇天、約束の聖霊降臨に至る時期である。 
今日の聖書箇所で、イエスが十字架に架かられる前、死ぬ前に残される弟子たちに教えが語られる。しかし、語ることが多すぎて語り切れないと云われる。この福音書を記したヨハネは、この書の最後で、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(同書21章25節)と記している。
イエスも、12節で、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」と云っておられる。

今、理解できない。時が来なければ、分からないことがある。居なくなって初めてわかることがある。イエスが死んだ後でなければ理解できないこともあるのだ。このために、イエスはどうされたか。
ヨハネ福音書14章16~17節 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。…この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。私がこの世を去った後に弁護者をあなた方に遣わす。
この弁護者と云う言葉は、私たちの助け主、慰め主と  か訳されますがもともとは、傍にいてくれる人という意味です。傍にいて助けてくれる人ということです。主イエスは、真理の霊、即ち、聖霊においていつも、私たちと一緒にいてくださるということです。
そして、16章13節 この真理の霊が来ると、あなたがたを導いて神さまの真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、神さまから、わたしから聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。すなわち、真理の霊、聖霊が来ると、あなたがたを導いて神さまの真理を、救いをことごとく悟らせるという。真理の霊が来るその時、真理という言葉は「覆いを取り払って、事実を露わにする」「隠されていないこと」という意味です。
パウロは、「 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(コリントⅠ 13章12節)と語っている。
その時には、顔と顔を合わせてみるようにはっきり知ると云ってます。それは、聖霊降臨において知ることであり、また、天国において直接、神さまと顔を合わせて知ることでもありましょう。
讃美歌404を作詞された西村清雄牧師、宇和島から松山にかえるときの山路での心境を歌った歌です。当時、明治36年は、鉄道が開通していなくてわらじを履いて歩き、鳥坂峠で日暮れを迎えます。「日は西に傾き、山の頂には残雪が輝き、梢には松の嵐、谷には渓流の音が聞こえていました。まだ、松山に20kmの道を残していました。
①山路越えて 一人行けど 主の手に縋れる 身は安けし 道険しく 行く手遠し 志す方に いつか着くらん ⑤されども主よ、我祈らじ 旅路の終わりの近かれとは
暗闇の中、孤独と不安にありました。自分では担いきれないものを見ました。そして、その担うことのできない自分を神に委ねたのでしょう。その時、西村先生は真理の霊を下さるかたによって平安を与えられたのでした。自分の限界という重荷を、その能力や力を超えてその人が負いやすいものにしてくださるのです。その人に必要な力と知恵を与えてくださる真理の霊がおられるのです。

日本で伝道された聖公会のバックストン宣教師が、ヨハネ伝講義という本を著しております。信徒たちが聞き取って筆記したものです。日本語が少し変ですが、その気持ちがよく出ています。
16節以降、主イエスはなお、あきらかに弟子たちにご自分を示したまいとうございます。またなおなお、親しき交わりを与え給いとうございます。どうしてこの恵みを与えることができますか。
ただ、しばらく弟子たちを去ることによって、新しき悟りを、(新しき交わり)を与え給うことができます。
今まで、弟子たちは肉により、イエスとの直接の交わりによって、イエスを知りました。それは、幸福でした。けれども、主は一歩を進めて、聖霊によってご自分を知ることを得させたまいとうございます。
その時に弟子たちは、女が子を産まんとするほどの苦痛があります。けれども、その苦痛の結果は、子どもが生まれた溢れるほどの喜びであります。このことと同じことを、弟子たちは経験します。このことは、最初の弟子たちだけでなく、私たちにも現れます。この言葉に心を留めとうございます。
19節 「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。 16:20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
イエスがこの世を去ることによって、弟子たちは嘆き悲しみ、世は喜ぶ。世はイエスを憎むからである。この世には彼の死を無視し、その死を聞いて快哉を叫ぶ者もあろう。それ見たことか。と云ってあなた方の悲しむ姿を見る。泣き悲しんでいる姿を見て喜ぶ。世の喜びがいつまでも続くかのように思える。イエスが見えない。神の恵が見えない。神が生きておられることが信じられない。それは、私たちの人生にもしばしば起こることである。
弟子たちが経験したように、私たちの信仰生活においても起こることです。しかし、それは暫くの間である。
しばらくすれば、私イエスは、死の眠りから復活して、再び、あなたがたの前に立つ。あなたがたの嘆きは喜びに変わる。今、弟子たちの嘆き悲しみは、女が子を産むときの苦痛であり、暫くして、イエスが復活したとき、あなた方は子供が生まれた産婦のように喜び、その喜びを彼らの心から奪う者はない。
女が子を産む苦しみは、イエスの十字架の苦しみではないか。主イエスは、私たちを罪の子から神の子として新しく生まれさせるために、十字架の苦しみの中に立ってくださったのです。そして、復活の主として栄光の主としてそれを成し遂げてくださいました。
  ヨハネ福音書14章19節 しばらくすると、…あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
私たちイエス・キリストを信ずる者も、イエスキリストの復活の命に与る者、永遠の命を継ぐものとして、新たな命に生かされるのです。復活の主が、聖霊において私たちと共に生きてくださるからです。
イエスの約束が果たされるのは、復活のイエスが昇天して、真理の霊であり、弁護者であり、助け主である聖霊が降臨する聖霊降臨日である。この弁護者と云う言葉は、もともとは、傍にいてくれる人という意味と先ほど申しました。主イエスは、聖霊においていつも、弟子たちと共にあり、2千年後の私たちと一緒にいてくださるのです。
16:23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 16:24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
復活のイエスが、聖霊において、いつも傍にいてくださることこそ、取り去られることのない喜びの源泉であり、根拠であります。
この新しい時代では、弟子たちはイエスの名によってすべてを行い、イエスの名によって父に願いを祈ることになる。
求めなさい。そうすれば与えられる。あなたがたは喜びで満たされる。復活の主が共におられるならば、あなた方の喜びは完全な者となると約束されたのです。
信仰において主イエスの新しい命に与る人は、あらゆる苦難と逆境に耐えて不動の喜びに満たされるのです。クリスチャンの人生は、厳しくあってもハッピーエンドが約束されているのです。