日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.9.2「神の愛」

Posted on 2018. 9. 5, 牧師: 藤田 穣

聖書 マルコ福音書12章28~34節
 12:28彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 12:29イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 12:30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 12:31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 12:32律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 12:33そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 12:34イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 甲子園、雑草軍団に痺れる
 今年の夏はことのほか暑かった。第100回高校野球は、されにそれを違った熱さで加速させた。県立高校、それも農業高校が頑張ったからである。秋田県立金足農業高校野球部は、秋田の高校で103年振りに決勝に進出した、唯一の優勝旗の越えていない、白河の関を初めて超えるかもしれないとの期待を抱かせた。しかし、相手は大阪桐蔭高校、全日本の代表に名を連ねる選手が7人もいる。連投に連投を重ね勝利を積み重ねてきた高校NO1投手 吉田輝星も大阪桐蔭の圧倒的な力の前に屈した。
 しかし、負けてもすがすがしい感動を地元秋田のみならず、全国の人々に与えた。 この金足高校の校歌がよい。あののけぞって歌うにふさわしい歌だ。農業に対する心のこもった歌である。
その歌詞1番、可美しき郷 我が金足 霜しろく 土こそ凍れ
見よ草の芽に 日のめぐみ 農はこれ たぐひなき愛
日輪の たぐひなき愛 おおげにや この愛
いざやいざや 共に承けて 
やがて来む 文化の黎明 この道に 
われら拓かむ われら われら われら拓かむ
この校歌には学校の名前が出てこない。ひたすら農業に対する愛が歌われている。それは、天地の創造者から受ける愛であろうか。
 これを作詞した近藤忠義は、著名な日本文学者、作曲したのは、唱歌「春が来た」「春の小川」「朧月夜」「ふるさと」を作った岡野貞一である。
秋に農業高校が参加する「コメ」甲子園が開催されると新聞がが報じていた。これまで金足農業高校は参加していないそうであるが、同校には、学校の田んぼで作られ、秋田市内で売られる「あきたこまち」の銘柄米があり、是非参加して欲しいと主催者が熱望していると記事にありました。

 最大の掟
エルサレム神殿におけるイエスとユダヤ人指導者たちとの論争、ローマへの納税問題、復活問答等の論争は、イエスに軍配が上がった。そこに、イエスとサドカイ人との議論を聞いていた、律法学者・聖書学者の一人がやって来た。彼は、イエスが見事に答えられたのを知り、イエスに尋ねたのでした。「あらゆる(律法の)掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 律法の掟は、613もありました。そのうち、「…しなさい」という命令が248、「…してはならない」という禁止命令が365ありました。
これだけたくさんの命令があるので、時には、どちらを優先させるか問題になることがありました。
マタイ福音書15章4~6節に、「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物(コルバン)にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。神へ供え物を理由に、父母の扶養を放棄することがまかり通っていたのです。とんでもないことです。
この律法学者は、613の命令になかで何が一番重要な、最も大いなる掟かとイエスに質問したのでした。
 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 12:30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』この教えは、申命記6章4節、5節にある。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」である。
 あの聞け、イスラエルよ、即ち、シェマで始まる、ユダヤ教では信仰告白とされ大人たちは、朝夕唱える言葉です。
 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」この唯一の主は、「ヤハウエ」のことです。この神は、ご自分からモーセに名乗り出た神です。出エジプト記3章にあります。
モーセは、舅エトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。…(そして)主なる神が柴の間から声を掛けた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。…わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、…彼らを導き上る。…今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
モーセに、『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主(ヤハウエ)が…現れて、こう命令されたのでした。       
(出エジプト記3章)
 イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時、ヤハウエの神は、イスラエルの民を憐み、慈しんで、奴隷の地から助け出し、約束の地に導いてくださったのでした。イスラエルの民は、「わたしたちの主(神)ヤハウエ」と呼ぶごとに、このヤハウエの愛と恵みを思い起こしたのです。この主ヤハウエの神は唯一の神です。それは、どこへ行こうと、いつの時代になろうとも、この唯一の恵み深い神が、自分たちを守り導いてくださるのです。ここに自分の生命の根源が示されているのです。イスラエルの民は、心を込めて唯一の主を告白したのです。
 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは、単なる命令ではなく、神の恵と愛に対する応答を促すのです。全身全霊をつくして、献げつくす愛が求められています。
神がイスラエルを愛したのは、彼らが神の愛にふさわしい、神の愛を受けるに足るような資格があったからではありませんでした。
 申命記7章7節 「主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
 このような契約をしたのに、イスラエルの人々は神からの離反を繰り返したのです。しかし、主(神)は、イスラエルが背こうが、時代が進もうが不変でした。後の時代には、多くの預言者立てて、民が神に立ち帰ることを願い求め、ご自分の愛を示されたのでした。

 現代のわたしたちに対して、神は、御子イエスを私たちに与えられました。 ヨハネは、告白します。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(Ⅰヨハネ4章10節)
 主イエスは、この第1の掟と同じ重さをもって、第2の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」第1と第2の掟は、互いに切り離せないものです。神を愛することと、自分を愛することと、隣人を愛することは別のことではない。
 第2の戒めは、レビ記19章18節の引用です。「 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
 Ⅰヨハネ書4章19節以下に、「 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」とあります。

 律法学者は、「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。

 レビ記で云われている隣人は、イスラエルの同胞です。しかし、主イエスは、ルカによる福音書11章25~37節のサマリア人の譬えで隣人を再定義しております。隣人は誰かではなく、助けを求める人々すべてです。すべての枠を、民族の壁を越えて、助けを求める人々に、助け手、隣人になれということなのです。
 更に、主イエスは、云われました。マタイ福音書25章にある「最も小さき者にしたこと」の記事です。 
 34節以下、そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ福音書25章34~40節) に発展しました。

 レビ記19章18節では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」の後に「わたしは主である」と負荷されています。 
わたしたちが、自分と隣人に対し、愛が可能になるのは、私たち主の前にあるときに可能になるのです。神の愛に包まれて初めて、互いに愛し合うことが可能になるのです。それは、神さまがわたしたちを愛し、恵んでくださったからです。神さまは、わたしもあなたがたも、全ての民を愛し恵んでくださいました。すべての人間を自分に似せて創造してくださいました。
 それは、神さまとの人格的交わり、人間同士が人格的に交わるためでした。神を愛し、自分と同じように隣人を愛するためです。
渡辺純幸先生が、「愛は28736」という題でこの箇所を説教しています。先生は、柳田邦男氏の文章の引用、柳田邦男氏も文芸春秋から引用しています。
ピアニストの故中村紘子さんは一日平均6~7時間ピアノを弾いている。1曲を弾くのに、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を、半日がかりで数えたところ、28736個のオタマジャクシで書かれていた。これをその一音一音に心を必死に込めて弾いている」と書いてあった。柳田氏はこの文章を読んだとき、28736個のオタマジャクシという表現にうなってしまった。 この28736個のオタマジャクシは、四分音符、8分音符と形は変わっても共にラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を作り上げているのです。
 これは、神さまから愛されている一人一人の人間ともいえます。神さまの救いの協奏曲とするなら、一つ一つのオタマジャクシは私たちです。オタマジャクシの一つが欠けても救いの曲は完成しません。オタマジャクシ同志、神の御手のうちに仲良く、平和でなければなりません。1人一人のオタマジャクシ救いのため神さまは、愛と忍耐を持って待っておられます。
 「見よ、わたしは(あなたの心の)戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
 主は私たちと生きた交わりを求めておられるのです。