日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.9.23「ペトロの裏切り」

Posted on 2018. 9. 24, 牧師: 藤田 穣

聖書 マルコ福音書14章27~32節
 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。 14:28しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 14:29するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 14:30イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 14:31ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 樹木希林さんの死
 俳優の樹木希林さん(75歳)が亡くなった。その生き方と俳優としての演技が注目された。味のある老婆役で生涯現役で出演した映画を引き立てていた。何回か危篤状態になりながら持ち直した。全身ガン、末期であることを告知しながら、回復、詐欺みたいなものと云って記者を笑わせた。
今年の5月、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した是枝監督の「万引き家族」に出演していた。映画のオープニングシーン 海岸で水遊びをしている家族を樹木希林のおばあちゃんが砂浜に座ってみている。黙ってみていると思ったら口を動かして何かをつぶやいている。伸ばした足を見ながら随分しみが多くなったわねと云いながら砂をかけている。日本語の映画にはないが、外国向け映画の字幕には、つぶやきの言葉が記されていた。「ありがとう」と。
 このシーンは、出演者の顔合わせとして試しに撮ったものであったが、冒頭のシーンに採用された。樹木希林のセリフはアドリブである。この映画のいくつかのシーンで彼女のアドリブが本番で採用されている。
 樹木希林の遺作は、来年公開の自分で原案をだした「エリカ38」である。62歳の年齢を38歳と偽って多くの資金を集めて捕まった女の事件にヒントを得ている。
テレビの特集にあったが、樹木希林のzingaro(ジプシー)フランスの劇団の乗馬劇を見た感想をメモっていますが、そこに、に彼女の女優としての生き方が示されていた。「虚飾なく、観客に媚びず、威張らず…当たり前のように感じ 演じてしまう そこに動く俳優たちが馬たちが 何かを観せるではなく その燃やした炎で 見物人の魂を鎮めてしまう」これは、樹木希林の演技の奥義と共通するのではないか。
 樹木希林さんは、鹿児島の病院でピンポイントの放射線治療を受けていた。娘婿の元木雅弘さんに、「お母さん、どこで死にたい」と問われ、自宅のベッドで死にたいと云い、その通りになった。安らかな死であったという。2004年の乳がん発症以来14年、5年前には全身ガンと診断された。それでも、最後まで現役として仕事をした。彼女は、生きるも死ぬるも日常の出来事のように泰然自若として生き、逝かれたのでした。

十字架の死に向けての前進
わたしたちも主イエスの死について考える。聖書日課で福音書の個所は、イエスの十字架の死の前日の出来事を見ることになる。そして、聖書日課は、十字架のクライマックスの出来事を回避してイエスの誕生、クリスマスを迎える。
 最後の晩餐の後、一同は、過越しの讃美ハレルを歌いながらゲッセマネの園へ向かう、詩編118篇 118:01恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 118:02イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。 … 118:22家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。 118:23これは主の御業 たしたちの目には驚くべきこと。 118:24今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。 118:25どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
この途中で、イエスはおもむろに弟子たちに語られた。十字架へ向かわんとするイエスの胸中を考えながら、この箇所を見て行きたい。
 
イエスはゼカリヤ書13章7節の言葉を引用しながら語った。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。 ゼカリヤ書では、「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ、わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。」とある。ゼカリヤ書では、剣が羊飼いを撃つとある。聖書学者は、剣は神を指すという。羊は、神の民イスラエルである。神が遣わされた羊飼いが、神の剣、裁きの剣で撃たれるとなる。
 イエスは、預言者の言葉が羊飼いたる自分の内に実現しつつあることを知っており、今、その出来事が起ころうとしている。 羊飼いが撃たれることによって、羊の群れは散らされる。それは、ユダの裏切り、ペトロの裏切り、弟子たちすべての裏切りによって実現される。弟子たちは、この危機に耐えることはできない。羊飼いを失うからである。弟子たちを招き、ここまで育ててきたイエスの胸中はいかばかりか。いままでの一切努力が、水泡に帰すのである。
 剣で撃つことは死を意味する。羊は、羊飼いが神によって裁かれて死ぬ姿を見る。羊飼いがいなくなるのだから、羊の群れは路頭に迷うことになる。羊たちは散らざるを得ない。
 この箇所は、ヘンデルのメサイアの大合唱(NO24,25)の部分でもある。それは、イザヤ書53章5~6節の言葉である。
 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」
 羊飼いが撃たれ、羊が散るのは神の御計画の中にある。羊飼いが羊の咎を負って死ぬ。誰も追随出来ない十字架の死をイエスは語っておられたのである。弟子たちは、躓き離散してゆくことを。
 ペトロや弟子たちはイエスの御心を理解できません。一番最初に躓いたのはユダでしょう。弟子たちは、イエスが、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と力づよく宣教し、奇跡を行い、病人を癒す、そんな力あるイエスを誇らしげに思ておりました。この国を、ユダヤをローマから救ってくれるのはこの人に違いない。国民全体がダビデの末裔に救い主メシアが起こることを期待し、信じておりました。イスカリオテのユダは、急進的なナショナリスト熱心党に関係していたと思われます。ユダは、いつ、イエスがローマに対し蜂起、立ち上がってくれることを強く期待していたのです。弟子たちの多くもそのように強いメシアをイエスに期待しておりました。ですから、先生であるイエスが、十字架にかけられて死ぬなどと、弱く、惨めな姿であってはならないと考えていたのです。弟子たちの失望感を知っていたイエスは、わたしに躓くといわれたのです。 躓く、躓かせるのギリシャ語「スカンダリゼイン」罠の餌をつける棒(スカンダロン)から派生したもので英語のスキャンダルの語源で「罠にかける」ことを意味する。新約聖書では、信仰から脱落させることを意味する。弟子たちがイエスの十字架の死から、イエスを捕縛する官憲の罠の前から逃げ出すことを指している。 それが「躓き」である。
 ペトロは、このままイエスと一緒に行動を共にすれば、自分も死に至ることを知っており、覚悟はしていた。自分は、イエスと共に死ぬことが出来る、殉教者になりうると自負していた。ペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
 ペトロの言葉には、私たちにも共通するものがあります。私たちはペトロのように、自分だけは大丈夫、自分だけは裏切らないという自分の思いに目を奪われ、自分が見えなくなってしまうことがありましょう。
 
 しかし、主イエスは、ペトロが裏切ることを知っておられました。 30節 イエスは言われた。「アーメン、はっきり言っておく。イエスの真理を語る言葉だ。あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
 今の時刻は午前0時過ぎ、ゲッセマネの園の祈りを経て、午前2時過ぎにはイエスは捕らえられ、大祭司の官邸で裁きを受ける。鶏が二度泣く、最初の鶏一番鶏が鳴いて暁を告げ、二番鶏が鳴いて朝となる。暁は太陽が昇る前のほの暗い時刻をいう。捕らえられた7時間後には十字架に架けられる。
 イエスは、ペトロがこの暁の時刻に、「わたしをしらない」というだろう。この知らないは否認すると訳されることが多い。主イエスとの関係を否定することだ、主イエスを否定すること、罪を犯すことだ。それなのに、ペトロは何故、否認することになるのか。
 
 ペトロの裏切りについて、ルカによる福音書22章31節以下で、主イエスは、ペトロとの対話で別の角度から言及している。
 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(同書22章31~34節)
 ルカでは、躓きを予告するのではなく、躓きによって信仰がなくならないように、主が祈っていて下さることが語られた。信仰が無くなるという言葉は、天文学用語の日蝕である。日蝕はだんだん太陽が欠けてゆき、最後は見えなくなるのです。ペトロの信仰もだんだん不信仰になって、神の恵みが全く見えなくなるのです。しかし、その裏切りによって信仰がなくならないように主が祈っている。立ち直ったら兄弟たちを力づけてあげなさい。ここには、ペトロの裏切りが許され、そのやり直しが、敗者の復活が約束されている。キリスト教は、聖人君子の集団ではない。強そうに見えても弱い自分を持ち、神の前に罪を犯す人間たちである。その弱さ、罪を主イエスが、私たちの代わりに贖いの供え物として、十字架に死に、復活し、神の右におられ、とりなしていてくださるのである。そのことは、わたしたちにとって感謝あり、恵みである。

しかし、ここでペトロは、イエスと一緒に死のうとしている。自分の正しさを主張している。他の弟子たちも、ペトロと同じように言った。言い続けた。言い張ったのでした。自分自身に自信を持つ、確信を持つことが躓きの原因になったのです。人間的な熱心、努力によっても、神の御心に反しては何事もすることはできない。ペトロは、それを知らなかった。
 イエスの死に、弟子たちが殉じて死んだとしたら、彼らに救いはあったのだろうか。キリスト教は、教会はどうなったのか。歴史の必然は、神の御心の通りになされたのである。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」イエスの宣言通り、ペトロや弟子たちは立ち直り、主の御名のために命をかけて伝道した。教会はそのために、今も主と共に働いている。 何故ならば、福音とは裏切った人間に対する神の愛と赦しであるという。福音書は、福音の本質をペトロや弟子たちに絞って書いているのである。私たちは、福音の本質を再確認しなければならない。 
このようなペトロを復活の主イエスは許して、再び、使徒として働く使命を与えられた。そのことを後から告白しているのかも知れない。
 イエスの十字架の死に対し、ペトロの殉教は叶わなかったが、後に、ローマにおいて、イエスの御名のための宣教において捕らえられ、ペトロも十字架刑に処せられることになった。やっと主イエスと死をも共にすることが出来るのである。ペトロは、主イエスと同じ様で十字架につくのは恐れ多いとして逆さで十字架にかけられて殉教の死をとげたと、伝えられる。
 ペトロの裏切りに対するマルコの言葉は28節にある。
 28節 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。  イエスは、祭司長や律法学者たちにたちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に渡す。異邦人は人の子を侮辱し、鞭うったうえで殺す。そして、人の子は3日の後に復活する。」(マルコ10章32節)
 イエスの死、弟子たちのつまずきは福音の終わりではない。イエスは復活し、信仰を失った弟子たちと再会し、失われた牧者と羊の群れの関係は回復する。復活のイエスが先頭に立ってガリラヤに行き、散らされた弟子たちを再び集めると約束されているのです。イエスは十字架の死後、復活されることを予告し、弟子たちより先にガリラヤへ行くと宣言されたのです。弟子たちはガリラヤにおいて、復活の主イエスと再会することにより、裏切りを赦され、再出発を赦されるのです。そして、ペトロは主イエスから、「あなたの羊を飼いなさい」と託されるのです。