日本キリスト教団 東戸塚教会

2018.9.9「主の救いを見よ」

Posted on 2018. 9. 11, 牧師: 藤田 穣

聖書 出エジプト記14章5~18節
 14:05民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」 14:06ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、 14:07えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。 14:08主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、 14:09エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。 14:10ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、 14:11また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。 14:12我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」 14:13モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。 14:14主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」 14:15主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。 14:16杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。 14:17しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。 14:18わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
先週は、台風21号、そして、北海道胆振東部地震による大きな被害がありました。まだ、行方不明者が3人おられます。早い救出と被害に遭われた方々に天からの慰めを祈ります。

 葦の海を渡る
 奴隷になっていたエジプトの国から、神さまによって助け出されたイスラエルの人々は、男の大人の人だけで60万人もいたといいます。彼らは、リーダーであるモーセを先頭に、神さまの約束された自由の地、乳と密の流れるカナンの地をめざして旅をします。その多くは荒れ野でした。その頃は、地図も方向を示す磁石もありませんでした。どのように進んでいったのでしょうか?13章21節に、「神さまが彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らし導いたので、彼らは昼も夜も歩くことができた。」とあります。神さまが昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、こっちですよ。と教えてくれたのでそれに従ってついてゆけばよかったのです。
 神さまは、カナンへの近道ではなく、「葦の海」とよばれる海沿いの寂しい道へ人々を導きました。近道を行くと、エジプト人の見張りがおり、戦いが起こることを恐れたからです。
そのころ、エジプトでは、王ファラオが、イスラエル人を解放してあげたことを後悔していました。ファラオは、兵士たちに命令しました。 「馬に乗れ、戦車を進めよ、イスラエルの連中を追いかけるぞ、あいつらを連れもどせ」ファラオと兵士たちは、イスラエルを追いかけました。
海辺で休んでいたイスラエルの人々は、遠くの方から馬のひずめと車輪の回る音を聞きました。目を上げてみると、ものすごい勢いでファラオの軍勢が追ってくるではありませんか?前は葦の海、今は紅海と呼ばれた場所です。どこにも逃げ場はありません。
人びとは恐れ惑ってモーセに文句を言いました。「我々を連れ出したのは、この荒れ野で死なせるためですか。こんなところで死ぬのなら、エジプト人に仕えていた方がましでした」
モーセは、言いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
するとイスラエルの民を導いていた雲の柱が後ろに動いてゆき、エジプト人とイスラエルの民との間に立ちふさがりました。そのため、エジプト軍の行く手は、真っ暗になり、ユダヤの民を見ることが出来ませんでした。これが一晩中続きました。
夜が明けると、神さまはモーセに言いました。「あなたの杖をもって、海に向かって手を伸ばし、海面を叩きなさい。」モーセが命じられたとおりにすると海水が二つに分かれて、海の真ん中にまっすぐの道が出来た。イスラエルの民は、海の底にできた乾いた道づたいに歩き、向こう岸へたどり着くことができました。
やっとのことで暗い雲の迷路を脱出したエジプト軍も海の底にできた道を追いかけて来ました。ファラオの兵が海の真ん中にきたとき、モーセは神の命令に従って、海の上に手を伸ばしました。すると両側の水は再び戻って一緒になり、エジプト軍は全滅しました。
イスラエルの人々は、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見ました。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた、のでした。
そして、モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌を歌います。うたった。 15章1節以降、主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる力を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。…わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。 高らかに讃美しました。
わたしたちがどうにもならない困難なときに、神さまは、共に戦ってくださり、その大きな御力で必ず救い出してくださいます。何事があっても、恐れずに、落ち着いて、神さまの救いを待ちましょう。
                    (こどもの礼拝 終了)

いくつかのことについて考える。
エキソダス(出発・脱出?)
今日の聖書箇所は、出エジプト記における出エジプトの場面である。
出エジプト記は、エキソダスというギリシャ語の題名がついている。エキソダスは、出発の意味で、現代ギリシャ語では出口であり、ギリシャの飛行場の扉にEXODOZとあればそれは、出口の意味である。「エキソダス」は映画・小説の題名に「脱出」の意味で使われているが、本来は間違っている。しかし、聖書の出エジプトが、奴隷の地より自由となり、約束の地へのエキソダスは、脱出の意味が強くなったのかも知れない。(「旧約聖書」 山本七平著より引用)

 映画 「十戎」
 この箇所を学ぶときに想い浮かべるのは、セシル・デミル監督の聖書映画、「十戒」(1956年)である。主演は、モーセをチャールトン・ヘストン、エジプト王ファラオにユル・ブリンナーを配し、エキストラは2万5千人であった。時は紀元前13世紀のエジプト、イスラエルの民は強制労働を強いられ、虐げられていた。そんな抑圧に我慢ならず、モーセは数十万人のイスラエル人を連れ、祖父の地カナンを目指し、エジプトを脱出、許してなるものかとエジプトの王ファラオは、戦車隊と兵士を率いて追撃します。前は、海、後ろはエジプトの戦車隊、葦の海のほとりでイスラエルは、立ち往生、絶対絶命の危機に陥ります。その時、モーセが立ち上がって神に祈ると聖書では、雲の柱ですが、映画では火の柱が起こって追撃するエジプト軍を遮り、葦の海は裂けて海底に道が開けました。その物語は聖書と少し異なります。
モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。…夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。
この海が割れる圧巻のシーンが「紅海の奇跡」ですが、モーセ役のチャールトン・ヘストンが「神の力を見たか」と得意満面でしたが、ラメセス王のブリンナーは、がっくり頭を垂れました。この映画をキリスト教会は、「商魂たくましい聖書絵巻」と批判しました。しかし、聖書学者を動員して時代考証をしたのも事実、この映画はハリウッドの黄金時代を代表する映画の一つになりました。(「シネマで見る旧約」栗林輝雄著より引用)

危機にあったときの民の不満
14章8節 イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、14章10節以下、ファラオの軍が追いかけてきて、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、…荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。 我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
折角、エジプトを出たのに危機に遭った民は不平・不満を爆発させた。それは彼らのエジプトでの奴隷生活の結果である。軍隊生活が楽だという方がおられた。何故か?軍隊では、何も考える必要がない、言われた命令通りに行っていれば食事にありつける。奴隷の生活も同じであった。
勇躍エジプトを出発したイスラエルの民は、エジプト軍の追跡に遭った途端、「荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましだ」と云った。この後も、荒れ野で食物が不自由になると、「エジプトでは、肉鍋とパンを腹一杯食べたのに、この荒れ野で飢え死にさせようとするのか」と不平を言った。
自分たちが望んでエジプトの束縛から逃げた筈ではなかったか? これが奴隷根性であろうか。イスラエルの民に奴隷根性が染みついていたのではないか。負け犬根性というべきかもしれない。
イスラエルは、遊牧民であった。もともとヨセフの時代に、父ヤコブや兄弟たちがエジプトに移住してきたが、彼らは都に住まず、ナイル川ゴシェンの地に落ち着いた。イスラエルの家族は遊牧民として羊を飼って生計をたてていた。ゴシェンの地が牧畜に適していたから、ファラオがそう命じたのであった。
しかし、ヨセフのことを知らない王ファラオが、彼らを町の建設などの強制労働に駆り立て奴隷化したのでした。
もともと遊牧民は身体的拘束や義務を課せられることを好まない。勤勉の美徳も否定する。砂漠の民ベドウインがそうである。そう考えれば、強制労働がイスラエルをエジプトから脱出させたというより、遊牧民へ逃亡させたということの方が現実に即しているかもしれない。。失われた遊牧民としてのアイデンティティの回復が、出エジプトの別の意味であろう。
出エジプトが、奴隷の地からの解放であり、約束の地カナンへのエキソダス・脱出である。誇り高き遊牧民の誇りを取り戻すための旅であった。奴隷根性、負け犬から脱出するために、また、主ヤハウエへの信仰を確立するための荒れ野での38年という旅と、年月を要したということでもある。
私たちも人生の行程で多くの不平不満を言う。なかなか解決しないなかに神の御心が隠されているのではないか。私たちの困難、苦労の中に神は何かを期待されているのであろうか?

主の救いを見る
意気揚々とエジプトを出たイスラエルの民がエジプト軍の追跡を怖れ、おじ惑っている。イスラエルの民は、恐怖にかられてどうしていいか分からなくなっていた。真に恐るべきものは何か、分からなくなってしまったのである。
ある先生が、「不信仰は困難を通じて神を見る。しかし、信仰は神を通じて困難を見る」と云われる。この時のイスラエルは、不信仰の内に困難を見ていたのだろう、神の御心がわからなくなっていた。
モーセは、信仰を持ってこの困難を見ていたのです。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」    出エジプト記14章13~14節
モーセは、「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」と云った。神を信ずる者にはこのことがある。神が闘ってくださるのです。静かにしていれば良いのです。
神に信頼して、今、自分のなすべきことをすれば良いのです。静かにしていれば良いのです。
主は、この出エジプトの旅を全面的に導き、支援していたのでした。その証拠に、13章21節以下、主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。 昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった、とある。
見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。(詩編121篇4節)
神が共におられ戦っていてくださるのに、それなのに、イスラエルの民は、エジプト軍を怖れた。これが彼らの不信仰である。しかし、信仰において困難を見るとき、それは、神からの試練となる。
 パウロは告白している。ローマ書5章2節以下、「 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ書5章2~5節)

15節 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。 14:18わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
そして、主の云われた通りになった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。
14層31節 イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
モーセが言った通り、イスラエルは、その目で主の救いを見たのでした。