日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.1.20「進展する教会」

Posted on 2019. 1. 21, 牧師: 北島敏之

使徒言行録1章6~9節

  01:06さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 01:07イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 01:08あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 01:09こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

  01:08あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

  この18節は、使徒言行録の縮図といえる言葉です。この言葉通り、聖霊が降り、弟子たちは地の果てに至るまでキリストの福音を宣べ伝えた。使徒言行録は、教会の進展して行く様子を描いている。

  キリスト亡きあと、弟子たちは聖霊降臨を受け、教会を形づくり、今日の教会に至っている、吹けば飛ぶような小さな初代教会が、神の力により、使徒言行録を形づくった。使徒言行録が描いているのは、使徒

たちの働きではなく、使徒たちを用いて導いた神の業である。

 使徒言行録には、12弟子たちの活動が書かれている訳ではない。書かれているのは、ペトロとパウロの二人だけだ。使徒言行録の前半はペトロ、後半はパウロが主体で書かれている。ペトロとパウロの言行録である。12章になると、ペトロは消えている。この辺りからパウロが中心、最後にローマで2年間、福音の宣教をしているが、その後、どうなったか描かれていない。後は、伝説があるばかりである。

 それは、使徒たちのことではなく、使徒たちを用いて神の御業を描くのが目的だからだ。最初の記述は、紀元29年、パウロがローマに赴いたのが紀元62年、この間の記録が使徒言行録である。この僅かの間に、教会は、ローマにまで進展して行った。それに比較し、東戸塚教会は、献堂4周年、使徒言行録は教会が進展して行った途中を描いている。

 第1段階は、エルサレム教会のこと、教会の始まりである。2

1節以下、ペンテコステの時が描かれている、02:01五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 02:02突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 02:03そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 02:04すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 キリスト亡き後、弟子たちは力なく、神の業を求めて熱心に祈っていた。五旬祭(ペンテコステ)の日に、聖霊が降った。

キリストを失い困難な時、神の助けを祈るしかない。ペトロを除けば既婚者はなく若い青年たちであった。彼らは、群れをなして福音を伝える

母体となる。聖霊によって満たされ、その力によって教会は進展して行った。教会の始まりは聖霊の働きにある。

 第2段階は、ユダヤとサマリア全土への展開である。8章1~4節、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」

 ステファノの殉教のあと、教会が迫害を受けた。信徒たちは難を避けて疎開した。サウロがエルサレム教会を迫害していた。小さな教会への

大きな嵐、しかし、散って行った先で信徒たちが福音を告げ知らせた。

 8章5節以下、信徒の一人、フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。 町の人々は大変喜んだ。

 ステファノの殉教を悲しんでいたエルサレム教会のクリスチャン、迫害がキリスト教を進展させて行って、教会の喜びだけでなく、町の人も喜んだ。 イザヤ書55章8~9節に、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。 天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」とある。

 神の思いは、道は、あなたたちの思い、道と異なり、あなたたちを高く超えている。 使徒言行録8章は、まさに、イザヤのこの言葉を示している。エルサレムの迫害が、サマリア伝道を生んだ。

 使徒言行録111921節、「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」

 散らされた人々は、ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人に福音を伝えた。その結果、信じて主(キリスト)に立ち帰った人が多かった。ユダヤ人以外に、福音が伝えられた。異邦人伝道である。ユダヤ人、異邦人混合の教会が出来、キリスト教が世界宗教に進展してゆく礎となった。シリアのアンティオケ教会を基点として世界伝道につながってゆく。

 この出来事も神が支配している。イザヤ書55章の言葉の発露である。教会を導き給う神の御業、教会を進展してゆく聖霊の力である。

 第3段階は、地の果てに進む

 使徒言行録166節以下、「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。」 異邦人伝道の担い手、使徒パウロは、西へ西へと行きつつあった。しかし、小アジアでは、御言葉を語ることを聖霊により禁じられた、神からのストップもあり、港町トロアスまで来た。海峡を渡ればヨーロッパ大陸である。 9節以下、その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。

 すぐにマケドニア人福音を伝えることが神の御心である。パウロがマケドニアに行くことは、キリスト教がヨーロッパに伝わる契機となった。

 パウロが行き詰まって、幻を与えられて出て行った先がヨーロッパであった。 私たちとは、パウロ、シラス、テモテ、そして、ルカの4人である。この4人が決断して、海峡を渡った。初めてのヨーロッパ。パウロのわびしさが、ヨーロッパがキリスト教化される門戸となった。

 そこに、神の導きがあった。18節以下、第1、第2、第3段階の各節に、神の導き、聖霊の導きがあった。学ばなければならないのは、聖霊の導きの記録である。

 クリスチャンは、神さまのおかげと考える。しかし、使徒言行録には、一生懸命働いている使徒、信徒たちがいる。なすべきことをよく考え、自分たちのなすべきことをなし、祈りをしていた。使徒の補充、教会の体制を整備するところに、聖霊の力を受けた。8章では、迫害のなかで、そこで福音を証ししつつ、巡り歩いた。サマリア伝道をしたのは使徒たちではなかった。使徒たちはエルサレム教会に残り、信徒たちだけでサマリア伝道をした。フィリポは、信徒のフィリポ、信徒たちの並々ならぬ働きがあった。

 シリアのアンティオケ教会は、パウロたちのためだけに祈り、断食をし、強い志を現した。行き当たりばったりではない。人的努力が傾注された。パウロの3回にわたる伝道旅行が、成果をあげた。努力があった。ただ、大事なことは、何がその原動力か。そこに、聖霊の力が働いている。これは、使徒言行録のみではない。その後の教会の歴史も、こんにちの教会のことでもある。使徒言行録の終章は終わりらしくない終わり方をしている。使徒言行録は、その後の教会の続編が綴られている。

 紀元1世紀だけでなく、21世紀、2000年の物語、教会の進展の

歴史を教えるのみでなく、それを通しての導き、進展させるのは、神の御業、聖霊の力であることを示す。16章のように、聖霊に禁じられて、ストップをかけられても教会は進展していった。このことの方が大事である。使徒言行録のメッセージは、ここにある。

 調子よく行っているときは、心地良い。そうでないときは、神の恵みが与えられていない。16章、あっちへ行き、こっちへ行き、トロアスに着いた。その奥にあるものをみなければならない。調子良いときは、信仰を持っている人が、同じストップを命じられた時は、我は聖霊を信ず、聖霊の信仰が必要である。繰り返す聖霊の働きの物語。1世紀、21世紀の物語、東戸塚教会の物語、一人一人の人生の物語である。受け継がれ、今も継続している物語である。こんにちの私どもの教会に、聖霊の導きを信ずることが問われている。使徒言行録の続編が、これからも書き綴られてゆく。使徒言行録続編が書き綴られてゆく、そのことを願ってやまない。