日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.1.27「主の恵のとき」

Posted on 2019. 1. 29, 牧師: 藤田 穰

ルカによる福音書4章16~30節

  04:16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 04:17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 04:18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 04:19主の恵みの年を告げるためである。」 04:20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 04:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 04:22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 04:23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 04:24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 04:25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 04:26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 04:27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 04:28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 04:29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 04:30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

  美術展はしご

先々週、ルーベンス・ムンクの二つの美術展をはしごした。美術館ではチケット購入に時間が掛かるので、上野駅構内のチケット売り場に並んだ。それでも30分待ちである。行列の中での情報によると、チケット売り場の行列も同じくらい、ムンク展は、入場待ち40分であるという。 現地でムンクを見たがもう一度見たいという地方から上京した女性もいた。ムンク展の待ち時間が分かったので、先に、ルーベンス展を見ることにした。チケット売り場は並んでいたがチケットを持っているので並ばずにすぐに入れた。ルーベンス展は、館内が広く大作が多く楽に鑑賞することが出来た。ルーベンスは、16世紀、ルネッサンス後のバロック時代の画家として活躍した。私たちは、アニメの「フランダースの犬」の最後のシーン、ベルギーのアントワープ大聖堂でネロとパトラッシュが「キリストの降架」(キリストの死後、十字架から降ろされる場面)を見ながら、ネロが、「ああ、マリア様、僕は思い残すことはありません」、ネロとパトラッシュは、この絵の前に横たわり、天使に囲まれて昇天してゆくのです。他にも、キリストが十字架からおろされる場面の絵があるが、描かれているキリストがふくよかなのがイメージと異なりました。

  午後2時過ぎに、東京都美術館のムンク展にゆきました。相変わらず入場待ち40分、館内に一列10人で100m弱の行列、大きな扇風機が回っていましたが、暑くて気分が悪くなりそうでした。中に入るとムンクの作品は、小品が多く、特に、人気の「叫び」の前は、一列に制限され、係員が止まらずにお進みくださいと誘導していました。わたしが作品の前に来たとき、急に列が途切れたのですが、すかさず係員に途切れずにお進みくださいと言われ、思わず、ここは絵を見るところか、歩くところかと思わず声に出してしまいました。絵をどのように鑑賞させるかが、美術館の見せどころと思うのですが、ムンクの前で思わず文句を言ってしまいました。日本での美術展での何が本質的なことか考えさせられました。

  イエスの宣教の始まり

  ヨルダン川でバプテスマのヨハネから、イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のようにイエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中をによって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。04:14イエスはの力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。

イエスの郷里ナザレから宣教が始まる。時は安息日、所はユダヤの会堂・シナゴグ、ユダヤ人の住むところ、信仰共同体の中心に会堂があった。信仰者の基本的な課題は、古今東西を問わず、神に対し礼拝を捧げ続けることである。そこに、週に一度の安息日がある。礼拝の様式が決まっていた。会衆一同が定められたシェマの祈りを唱え、何人かが祈ったのち、律法が輪読され、その後、預言書が読まれ、説教がなされる。

 この安息日礼拝は、神の定められたものでした。神は、この礼拝の時を通して私たち会衆に出会ってくださいます。神の真実は不変です。神は、今も、救い主を待ち望む人々のため、イエス・キリストにおいて、私たちと出会ってくださいます。私たちは、期待と忍耐をもって、この安息日、主の日を守り続けなければなりません。この日に、主イエスは私たちと共におられ、語り掛けてくださいます。

 

 その日、イエスは、イザヤ書6112節を読まれた。 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 イザヤ書が伝えるのは、歴史的には、バビロン捕囚の苦しみのなかにあるイスラエルの民に、預言者が出て、バビロンからの解放とイスラエル帰還の喜びが語られ、その喜びは50年に一度の神の恵の年、全ての借財が許されたヨベルに比べられる、と云うのです。

 イエスは、この聖書の言葉(預言)を耳にしたこの日に、この時に、言葉が実現した、成就したと語られ、このために自分が遣わされていると宣言した。

 イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、宣教を開始した。(マルコ福音書1章15節)。

 18節の 私は主の霊を受けた。貧しい人々に福音を告げ知らせるために。捕らわれている人の解放は、病気や悪霊に束縛されている者の解放にほかならない。 それは、罪の囚人状態からの解放、霊的盲目状態からの解放、うちひがれた悲しみ、心の傷から解放されます。これは、主イエスによる神の国の到来と二重写しになります。

 聖霊に導かれた主イエスがそこに臨在しておられるのです。それは、将来のことではなく、この時なのです。この日に、この時に、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださいます。

 このイエスの人々を圧倒する「新しい権威」ある教えが、聞く人々の心を打った。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた。しかし、それも束の間であった。彼らは我に帰ると、「この人はヨセフの子ではないか。」微妙な故郷の人々の心、極めて人間的である。

  故郷の人々はイエスを、その家族も知っていた。マルコ福音書では、「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。また、その姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか。」(マルコ福音書63)と疑問が湧いてきたのでした。

 イエスは、「預言者は自分の郷里では歓迎されないものである。」と答えられました。どんな大人物であっても、余り、近くにいるとその偉大さは分かりません。 04:23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 ナザレの人々は、「医者よ自分自身を治せ」よその町で奇跡を行うより、「まず、自分の町で奇跡を行って、救い主であることを説明せよ」とイエスに迫ったのです。ナザレの人々は、言葉だけでなく、カファルナウムで行われた奇跡に期待しました。奇跡を行うならば信じてやろう。かもしれません。イエスは、福音書にあるように、その期待に何度も答えられましたが、故郷ではそれをなさいません。

 北森嘉蔵先生が仰っておられます。

ヘーゲルが「女中にとって英雄はいない」(原文は、「従者の目に英雄なし」の引用と思われる)ということを言ってます。女中という言葉は死語ですが、たとえば、英雄中の英雄ナポレオンの女中にとって、ナポレオンは絶対に英雄などではない。ただ、だらしなく、世話の焼ける、どうしようもない男性だったに違いないのです。これは、人間の真相を言い当てた言葉です。歴史が経過した今では、ナポレオンは英雄です。

この村の大工と言われたイエスも、キリスト教が確立されると救い主

イエスは大工であった過去があっても、問題になりません。歴史が経過

し生身の大工イエスから、イエス・キリストになったからです。

 ルカのこの個所、ここには、生身の人間、イエスが描かれています。ナザレの大工イエスが世界の救い主になっていく初期の過程です。ナザレの人々にとってイエスは、救い主ではありえないのです。裏も表も知っている、家族もそこに住んでいる、そこに含まれる人間が、どうして救い主として仰がれるだろうか。郷里ナザレでは力ある業をなさいません、故郷の人々の不信仰にあきれ果てたのでしょうか。

 しかし、イエスは、故郷の人々の思いと衝突し、それを拒否しましたが、それを単純に拒否したのではありません。それを退けるのに、旧約聖書の故事、預言者エリヤとエリシャの物語を取り上げます。

 04:25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 04:26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 04:27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

 サレブタのやもめも、シリアのナアマンも異邦人です。神はご自身の民が神に絶望するような状況で、異邦人に向かう新しい道を開かれたのです。イエスも然り、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(4章43節) 神の目には、ユダヤ人も異邦人も平等なのです。

神の恵みは、民族に縛られない、自由なめぐみであることを示されたのです。主イエスが、全く自由に相応しくない者をも恵んでくださることへの驚きを覚えずにはおられません。神の国の福音は、ユダヤ教の、ユダヤ人の狭さを超えるのです。

イエスのこの思いは、アブラハムの子孫、選びの民との信仰に立つ、その上に胡坐をかいている聴衆に向かう鋭いとげとなりました。ナザレの人々の怒りが沸騰したのです。

04:28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 04:29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 04:30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

恵みから救いを約束された選民イスラエルが漏れて異邦人がこれに与る。これが、ルカの追求するテーマの一つです。このテーマがどこから生まれるのか。

イエスの「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」に示されるのです。しかし、ナザレの人々の心には実現しなかったのです。恵みを受け入れない心、評価しない心が、恵みの実現を妨げるのです。

あの「君の名は」で有名な劇作家菊田一夫は、とても貧しい学生時代を過ごし、いつもお腹を空かせていたそうです。ある雪の降る日、空腹を抑えて歩いていると、ふと目の前に屋台のめし屋がありました。菊田青年は、ありったけの小銭をかき集めて、何とか御飯につゆをかけたものだけを一杯、注文して一気に食べてしまいました。でもこれだけでは空腹を満たすことができません。もう一杯食べたのですが、お金がありません。もし、あなたが屋台のおじさんだったら、この目の前にいる菊田青年に何と云うでしょう。この話は、上智大学の霜山という先生が、将来、カウンセラーになりたい3人の学生に尋ねたものです。一人目の学生は、「今日は私が奢るから食べて行きなさい」と答え、二人目の学生は「出世したときに返してくれれば良い、食べて行きなさい」と。3人目の学生は、世間の厳しさ教えたを方が菊田青年にいいと思い「お金がない人はダメです」と答えました。どれもそれなりに、温かい言葉です。でも、霜山先生は、これらの答えに対して、3人とも違うのだと云います。

菊田一夫は、その屋台のおじさんから何かを言われて、帰りの夜道、涙がとめどなく出て、家路に着いたと云ってます。その屋台のおじさんは、菊田青年に、「学生さん、生憎今日は大雪で、客が少なくて困っていたんだ。すまねえが、もう一杯やってくんねえか」といったのでした。 

若き日の菊田一夫が受けた言葉は、博愛的でも、強制的でも、義務的でもないのです。屋台のおじさんの立場は、相手を見下げたものではなく、相手の立場を受け入れたものでした。菊田青年の涙は、名もない見ず知らずの自分を無条件で、受け入れてくれたということではないでしょうか。あるいは、お金のない自分の立場までおじさんが下りてきてくれたからではないでしょうか?(渡邊純幸・ルカによる福音書説教、「私は愛の南風」ルカ 41421節より引用。)

主イエスは、神の子であるにも関わらず、私たち人間の立場にまで下りてきてくださいました。その愛と憐れみ恵みの上に、救うに相応しくない罪にある私たちを命を捨ててまで救い、神の子にまで引き上げてくださいます。そうまでして、自分の許に回復したい神の思い、この恵みを私たちは、どう受け止め、受け入れるのでしょうか。

パウロは、「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。と告白しおります。

この言葉を素直に信じられる人は幸いです。主のイエスが共におられます。