日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.1.6「新しい酒は新しい革袋に」

Posted on 2019. 1. 7, 牧師: 藤田 穣

ルカによる福音書5章33~39節

05:33人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」 05:34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。 05:35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」 05:36そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。 05:37また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 05:38新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 05:39また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

今日は24節気の小寒である。1月は、日本酒の寒仕込みの季節であり、日本酒の新酒の季節である。静岡で働いていた時に、酒蔵の新酒の発表会に参加したことがある。新酒は若く荒々しい。ブドウ酒のボジョレヌーボと同じかもしれない、日本酒も1年位寝かせた方がおいしい。 新年は、おせちのお供に「獺祭」の大吟醸を一口舐めた。

今日の箇所は、この前の箇所の徴税人レビ(マタイ)の弟子入りの記事につながる。当時、徴税人は売国奴のように思われていた。レビは、ローマ帝国のために通行税を徴収していた。レビのような徴税人たちは、ローマ帝国でかかる税金の4倍を、例えば、250円ならば、1,000円を徴収、ローマには、250円、後の750円はレビの懐に入っていたのです。ですから、手っ取り早く金持ちになるなら徴税人になれでした。 しかし、世間では徴税人は泥棒と同じ部類に入れられており、いくらお金があっても心はうつろで寂しかったのです。

主イエスは、徴収所に座っていたレビに、「わたしに従いなさい」と言われます。それは、レビが志願したからではない。イエスの方から声をかけたのです。レビはその召しに、直ちに何もかも捨てて立ち上がったとあります。その言葉通り、職を捨て、財産を処理し、レビは、イエスに従い、新たな人生に向かって歩み始めたのです。レビは、税金を取るものから、ペンをとりイエスの福音を書き溜めるものになり、マタイ福音書を残したと云われております。

そして、レビが家でイエスのために、盛大な宴会を催し、徴税人やほかの人々が大勢招かれておりました。何故、盛大な宴会が開かれたのか。それは、レビがこれまでの罪を悔い改めたことでした。この悔い改めが宴会を開く喜びを生んでいるのです。

これを見たファリサイ派の人々やその派の律法学者たちは、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」

当時、普通のユダヤ人は、罪人や異邦人と食事の席を一緒にしない。徴税人は、ローマのための税金を取り立てるだけでなく、不正に税金を上積みして稼ぐなど罪人の代名詞とされていました。この徴税人やその仲間と聖書を教える教師であるイエスが食事を共にするなど常識的にあり得ないことでした。罪人と席を共にするだけで穢れるとされていたのです。それをイエスと弟子たちは平気でおこなっている。これがファリサイ派や律法学者のいいぶんでした。

イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

イエスは、徴税人だけでなく、ユダヤ教社会で罪人とされていた不健全と言われていたあらゆる人々たち、それは、娼婦や地の民と言われた律法を守れず軽蔑されていた人々、病人、異邦人等ユダヤ社会で疎外されていた人を招いて悔い改めさせるためにこの世界に来たという。社会から見捨てられていた人々の神への回復がイエスの使命である。マタイ1814節では、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と断言しております。

イエスが目を向けられたちいさな者は世の中の落ちこぼれです。この劣等生に対し、ファリサイ派や律法学者たちは優等生であります。イエスの使命はこの落ちこぼれた者たちの回復です。悔い改めて、神に立ち帰る、神と向かい会える者とすることです。

更に、今日の箇所では、ファリサイ派や律法学者に近いユダヤ人が、イエスの所に来て断食について尋ねました。

「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしているだけで断食をしていないのは、どういうことか。」

これは、事実でした。ユダヤ人は、古くから断食の習慣を守っていました。はじめは、年に2回、大贖罪日とエルサレム神殿崩壊記念日が断食日でしたが、ファリサイ派の人々は、その宗教的熱心さの故に、

 それを年4回とし、イエスの時代には、月曜日と木曜日の週2回が断食日として守りました。ヨハネの弟子たちは、あのバプテスマのヨハネの弟子たちのことですが、彼らは、ファリサイ派のように自分の信仰の功績のためではなく、悔改めの印として断食を守っておりました。

  

  イエスは断食を否定してはおりません。イエス自身も断食をし祈る生活をされました。しかし、断食が信仰生活の中で、不自然さを伴うならば信仰の本筋から外れます。例えば、ヨハネの集団が人里離れて、その禁欲生活のなかで断食をする、浮世離れした宗教生活は不自然ですし、また、ファリサイ派の人々が、信仰深さを見せびらかすために断食するのは、もっと不自然、もってのほかでした。

  イエスは、結婚式のたとえ話をされます。結婚式に招かれたお客は、新郎新婦と喜びを共にしているのですから、結婚披露宴で断食をするはずがない。その喜びのために飲んで食べての宴会になるのです。

花婿がいる間は、断食はできないではないかと言われたのです。

花婿イエス・キリストによる新しい時代が始まったのですから、断食をしたり、古い伝統に生きるのではなく、第1に花婿キリストと共に生きることが大切だと語られたのです。

「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。

キリストによる新生・救いとは、古い人生に新しい布切れの継あてをするのではなく、今までとは異なる全く新しい人生、全く新しい服の生活の始まりなのです。イエス・キリストを信ずるとは、質的に異なる新しいスタートなのです。

新しいブドウ酒を古い革袋に入れたりはしない。この時代、ブドウ酒は羊や山羊の革袋に入れられました。ブドウ酒は発酵しておりますので、古い革袋はそれに耐えることが出来ずに破裂してしまいます。革袋もブドウ酒も駄目になってしまいます。

ヨハネまでの禁欲:断食は、古いブドウ酒、革袋も古い革袋なので、新しいブドウ酒が入るとすぐにボロボロになる。禁欲・断食という古い酒は、イエスの救いという新しい酒の前に必要なくなったのです。しかし、今は新しいブドウ酒イエス・キリスト来臨の時ですから、ブドウ酒をいれる革袋も新しくならなければいけないのです。

イエスの評判は、大酒のみの、大食漢という噂です。凡そ、禁欲主義とは、異なっています。それならば、新しい酒の担い手は、一切、禁欲と無縁な自然主義者かというと、そうではなく、新しい形の禁欲がここで展開される予告がなされています。それが、35節の花婿の奪い去られる日です。

花婿イエスと共に神の国、神の支配がすでに来ているのだから、主イエスと共にある人生は悲しみの取り除かれた喜びの人生です。だから、断食の必要はない、新しく恵みに応えて、喜びに満ちたて生きるのです。

 

05:35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

この花婿が奪い去られる日とは、その絶望の時は、主イエスの十字架から復活の時までと考えられます。復活のイエスは、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ福音書28章20節))このように約束されました。花婿は、その後、今まで、これからも、ずっとおられるのです。

主イエスは、14:16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 14:17この方は、真理の霊である。 真理の霊、聖霊が今も主イエスと共におられると約束くださいます。

そして、「01:08あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節) これが教会の始まりでした。

  39節は、ルカ固有の言葉です。

 05:39また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

「古いものは良い」ということわざ(旧約外典のベンシラの知恵915節)、「古い友を見捨てるな。新しき友はそれほどの価値がない。新しい友は新しい酒のようだ。古くなったとき、あなたはそれを喜んで飲む」(ベンシラの知恵910節)ここでは、古きは古きままであればそれでよしという肯定と共に、しかし、古きに固執続けるユダヤ教保守主義は、イエスのもたらした新しさと接合することはないとの意味があります。イエスのもたらす福音の喜びは、既存のユダヤ教やヨハネの禁欲的な生活の行動体系には収められないのです。

古い革袋であることを固守しようとするユダヤ教保守派には、イエスという新しい酒を怖れる姿がありました。それ故、35節の花婿が奪い去られる日が来る。古い勢力によってイエスが十字架につけられることが予告されます。しかし、それで終わりにならない。復活されたイエスが弟子たちの所に帰り、昇天、聖霊降臨を通して、弟子たちによるあたらしい酒の時代、キリスト教会が誕生するのです。

さて、私たちはどうでしょうか。自分の古い革袋に未だ拘っていないでしょうか。そのような私たちに主イエスは恵みという新しい酒を注ぎ続けてくださいます。そのイエスにすべてを委ねる時、私たちは新しい革袋に変えられてゆくのです。

パウロは、「05:17だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント書5章17節)「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(コリント書4章16節)

私たちの歩みは、日々新たにされているでしょうか?日々の信仰生活がキリストの恵みうぇお受けてさらなる新しさを求めるものでありたいと思います。キリストによる新しい恵みのなかでどのように生きるのか。イエスキリストにあって、己の内に更なる新しさの創造できる年でありたいと願います。