日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.10.27「はじめに言葉ありき」

Posted on 2019. 10. 30, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨハネによる福音書1章1~5節

  1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光

を理解しなかった。

東大宇宙研究機構長、物理学者の村山 斉(ひとし)氏の講演を聞く機

会があった。「宇宙はどこまでわかったのか」の著者でもある。宇宙のことをやさしく解説してくれるので、テレビで見られた方も多いと思う。

宇宙の年齢は137億年といわれる。私たちの住む銀河系宇宙は、132億年、太陽の年齢は40億年だから、宇宙の年齢からするとまだ若い。

宇宙を構成する物質は。私たちが把握しているのは全体の5%程度に過ぎないという。即ち、私たちを構成している元素、太陽や地球を作っている物質は宇宙の5%を構成しているに過ぎない。後の95%は、ダークマター、ダークエネルギー、暗黒物質、暗黒エネルギーなのである。この暗黒物質には、光まで閉じ込めてしまう力があることが分かっているが、これらの暗黒の世界についてはほとんど分かっていない。

宇宙は、まさに、創世記の最初にある闇が深淵を覆っている状況なのだ。広大な宇宙のその片隅で私たちは生きている、生かされている不思議を思う。最近は、小さな日常生活、風景、不思議に思いを致している。

私が静岡から引き上げて6年になるが、毎年、9月になると我が家の小さな庭先に一匹の黄色い蝶が飛んでくる。短い期間なので、誰かが、訪ねて来てくれたような心境になる。今年は、夏が長かったので、来ないかとおもったが、9月の終わりに訪ねてきてくれた。

また、私が乗るバス停の近くに舞岡川がながれており、停留所に行くたびに、川を覗き、泳いでいる鯉の数を確かめる。現在ここには、真鯉が10匹位、緋鯉が1匹、色鯉のまだらなもの1~2匹住んでいる。真鯉は時々浮気をして帰ってこないことがある。こんなたわいのないこと楽しくもある。

神様の大能の御手のなかの日常生活、平安を願う。しかし、最近は百年に一度とか50年委一度の豪雨という言葉が氾濫している。先日の台風19号の洪水被害は何なのか。さらに、再び大雨が降り被害を増幅させた。市街を被災された方々無念、苦しみを思う。地球温暖化の影響が懸念されている。神がその創造の業を良しとされ、その管理を私たち人間に任された自然界がざわついているのだ。一刻も早く、世界が協力して打開策を見つけてゆかなければならない。神が私たち管理者に警鐘を鳴らしているように思えてならない。

今日から教会暦は、聖霊降臨節から降誕前の主日に入る。なんとなくクリスマスムードを感じる時、示されたのがヨハネ福音書1章である。聖書研究的にアプローチしてみたい。

この個所は、文語訳聖書では、太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。

福音書記者ヨハネは何故、この福音書を書いたのか。ヨハネ福音書が書かれたのは紀元100年の頃である。

紀元100年頃、キリストの福音は小アジア、現在のトルコからギリシャにまで進出しておりました。各地の教会には、一人のユダヤ人に対して1万人のギリシャ人がいたといわれます。聖書はまだ旧約聖書の時代です。旧約を知らないギリシャ人にも、キリストの福音として聖書を伝えなければなりません。

W・バークレーによれば、四福音書の著者たちは、黙示録の著者が御座のまわりに見たという4匹の獣の像(獅子、雄牛、人のような生き物、鷲)に例えられるという。この4つを福音書に割り当てると、「人のような生き物」は、福音書の中で最も簡潔・率直で、人間的なマルコを象徴し、獅子はマタイをあらわす。それは、マタイがイエスをメシア、また、ユダの部族の獅子とみているからであるという。また、雄牛は、ルカを表わす。雄牛は労働と犠牲の動物であるが、ルカはイエスを人間の偉大な僕、また、全人類の普遍的犠牲とみているからである。鷲はヨハネを表わす。それは、すべての生き物のなかで、鷲だけが太陽を直視しても目が眩まないと信じられていたからである。また、ヨハネがすべての新約の著書のなかで、永遠の神秘と永遠の真理、また、神の御心そのものに対して、もっとも深い洞察力を持っているからである。

多くの人々が、ヨハネを通して神とイエス・キリストをより身近に感じているのである。ヨハネがこの福音書を書いた目的は、その20章にあるように、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ福音書20章31節)

しかし、この紀元100年代、教会に、ギリシャ思想からくる異端思想が入ってきました。ケリントスというグノーシス主義者は、「世界は神によって創られたものではなくて、神からまったく孤立した、すべてのものの上にいます神について、無知なある力によって作られたのである」と主張しました。彼は、神は世界の創造と関係がないと主張したのです。ヨハネは、これに対して、世界は神によって創られたことを聖書の言葉を通して、ギリシャ人に分かるように、福音書の初めに語ったのです。ヨハネは、「すべてのものは、言(神)によってできた。できたたもので、一つとして言(神)によらないものはなかった。」(1章3節)として、このヨハネ福音書をはじめている。ここに言と訳された、ギリシャ語ロゴスが使われております。ギリシャ人の理解を得ることこれがヨハネ福音書の書かれた目的の一つでした。イエス・キリストがどのようなお方かを説明するために、ギリシャ人の好んだ言葉を用いたのです。ヨハネは、自分の使用目的に合わせて、ギリシャ人の理解できる言葉を使ったのでした。

言と訳されたロゴス、わたしが目白の神学校に通っていた頃、駅の近くにロゴス英語学校がありました。今は、川村学園の大学の敷地の一部になりました。ギリシャ語のロゴスが英語を学ぶ学校の上についているのが不思議でした。調べてみると英語学校を開始したのは牧師で、日曜日は、教室を使用してロゴス教会があったそうです。その教会は、1983年、八王子の方に移転し、教団のロゴス教会となっております。

ロゴスには、理性と原理という意味があります。ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、「万物は流転する」といいました。万物は絶えず変化し、生成流転してゆくが、何か法則があるのか、なぜか全くの混沌に陥ってしまわないことに目をつけ、万物の変化の背後にあって、これを導いているものがある。それが、ロゴス・理性・原理であるというのです。ロゴスは、ギリシャ人が神と理解する言葉です。ヨハネはこの言葉を用いました。

このロゴスは、旧約聖書の箴言にある知恵を思い出させる。「22 主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。23 いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。24 まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、25 山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。 26 すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。27 彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。 28 彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、29 海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、30 わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、」(箴言82230節・口語訳) ここには、言(ロゴス)と理性・知恵、神と理性・知恵の関係がみられる。

そして、ヨハネは、創世記1章と同じように、初めに言があったと記しました。しかし、ヨハネの伝えるロゴスは、ギリシャ人の考える法則や原理とは似て非なるものです。しかし、ギリシャ人に神をキリストを理解させる橋渡しになるものです。

このヨハネ福音書1章にある「言」を貫いているのは、イエス。キリストその人です。1章にある言葉をイエス・キリストに置き換えて読んでゆくとよくわかります。イエス・キリストは、神の言葉です。神はイエス・キリストを通して私たちに働き買え、語りかけ暗闇の中にいるわたしたちをその命の光で照らすのです。

 初めに言があった。

ゲーテは、「ファウスト」の中で、博士ファウストが「初めに言があった」というルターの訳が気に入らず、色々言い換えてみました。最後に到達したのは、「初めに行いがあった」と訳したのです。何故、「言」(ロゴス)が行いになるのか。言の葉のと書く、吹けば飛ぶようなものではありません。

日本語でも言を言霊といいます。言霊は言葉に内在する霊力を示します。

言葉に宿っている不思議な力、言葉通りの結果となる力とされたとあります。そして、ロゴス、言・神の言には実現する力があるのです。

神が「光あれ」と言葉を発すると「光があった」のです。神が語られることが、必ず出来事となる。神ご自身が預言者イザヤの口を通して、「このようにわが口から出ることばも、空しくは我に帰らない。わたしの喜ぶことをなし、わたしの命じ送った事を果たす」(イザヤ書55章11節)とあります。言葉として使われるヘブライ語の「ダーバール」は、言葉と出来事の両方に用いられているのです。天地創造そのものです。

 天地の創造

1初めに、神は天地を創造された。 2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 3神は言われた。「光あれ。」

5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 神は混沌とした闇の深淵に向かって言われた。闇の深淵とは、暗黒エネルギーであろうか。「光あれ」、すると闇を切り裂いて光があった。この光の中で言葉による神の創造の業がなされる。「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。」(詩編336節)「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。」(詩編1914節)これは、このヨハネの3節の言葉に繋がる。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ福音書1章3節)あらゆる存在に神の意思があり、それによって神の命が息づいている。

 ヨハネ福音書

 1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言

は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、

言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は

人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解

しなかった。

 初めに言があった。即ち、言は、天地創造の前から創造主なる神とともにあった。言は神であった。言はすべてのものを創った。言葉によらずにできたものはなかった。その言葉のうちに命があった。この命は、心臓が生きている命(ビオス)ではなく、神の命(ゾーエ)であり、神の国の命である。このロゴス・御子イエス・キリストを信じる者は永遠の命を持つのです。(ヨハネ福音書316節)、それ故、わたしたちの毎日の生活に、この永遠の命が宿っているのです。

そして、この命は光であった。ロゴス・キリストが光であるということは、第1に、暗黒を打ち破る光(創世記13節)であり、人を照らし導く光なのです。(ヨハネ福音書1236節)   

 光は暗闇に

 5節に「光」と反対の闇という言葉が出てきます。暗闇は光を理解しなかったとありますが、「暗闇は光に打ち勝たなかった」という方がはっきりすると思います。打ち勝たなかった(カタランバノー)の直訳は「捕らえる」です。クリスマスの物語には、暗闇の中に輝く光、星がとどまって光が輝いたこと、羊飼いがひざまずいたときに天の軍勢の光が示されたのです。悪に満ちたこの世に、光として来られたイエス・キリストに捕らえられる必要があるのです。パウロは、「3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(フィリピ書312節)と語っております。

 この言によって父なる神が万物を造られ、今も万物の中にこのロゴスの力が働いている。この言(ロゴス)は、イエス・キリストに置き換えられる、これがヨハネの示すところです。

 このロゴスは、父なる神と共に万物と人を造り、万物の中に働き、そして、罪に堕ちたこの世の暗闇の中で、人間の歴史の中に光として導き、最後にこのロゴスの意思が受肉して人となりその救いを成就するのです。

01:14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。01:18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ福音書114節、18節)肉となったロゴス・イエス・キリストがその十字架の犠牲を通して、罪人たるわたしたちを救い出してくださったのです。私たちは、イエス・キリストを通して、神の意思・御心を知ることができるようになったのです。

イエス・キリストの誕生・受肉は、わたしたち一人一人のために、神が宿られたことであり。一人一人の救いのためにイエス・キリストの救いを用意して下さったということなのです。

このことについて、渡辺純幸牧師が参列された葬儀について記しています。ある牧師の娘さんが36歳で天に帰られた、その故人のお別れのことばが御主人によって読み上げられた。その引用です。「大好きな皆さまへ 長い間お世話になりました。健康で活躍している頃は、他人と自分を比較し、高い目標をもって、それに向かうように努め、忙しく余裕もなく、自分の置かれている状況に満足することなく、自分に咲いている花に気づきませんでした。力を入れる必要もなかったのです。私はこの短い人生の中で、神さまを忘れて、自分の道を行こうとした時がありました。でも神さまは、いつ、どんな時でも、わたしを見守って下さり、こんな私の罪をすべて赦してくださいました。小さい子供を二人残すことは悔やまれてなりませんが、わたしの思いは彼らに届いていると思います。子供たちに母がいなくても、神さまの守りの中で、強く優しく育つと信じて心配しておりません。しかし、もし彼らが困っていることがありましたら、言葉を掛けていただけたら幸いです。彼らに嬉しいことがありましたら、共に心から喜んでやってください。彼らの目には皆さまのなかに母親がだぶって見えてくると思います。最後に、神さまのもとに帰ることが出来ることを喜んでいます。だから寂しがらないでください。私はいつまでも家族や皆さまと共に生きています。どうぞ、お元気で私の分まで長生きしてください。本当にありがとうございました。」

 この女性は、死と向き合うなかで、神さまが彼女に宿られていることを知りその同じ救いを、残されるお子さまの中に見ておられたことでしょう。イエス・キリストの誕生・受肉は、わたしたち一人一人のために、神が宿られた」、一人一人の救いのためにイエス・キリストによる救いを用意してくださったということなのです。