日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.10.6「主に従う者の賢さ」

Posted on 2019. 10. 9, 牧師: 藤田 穰

聖書 ルカによる福音書16章1~13節
16:01イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 16:02そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 16:03管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 16:04そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 16:05そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 16:06『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 16:07また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 16:08主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 16:09そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 16:10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 16:11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 16:12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 16:13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

今日の16章の不正な管理人の譬えは、福音書の譬え話の中でも最も分かりにくいとされています。この後には、金持ちとラザロの譬え話があります。今日学ぶ譬えは、主人の財産を管理する管理人が、財産を使い込んだのが発覚し、解雇を宣言され、引継ぎのために、会計報告書の提出を求められたのです。彼は、首が繋がっている間に、主人の財産を使って債務者に恩を売って失業後に備えたのでした。主人は、怒るのではなく、その抜け目なさ、賢さに見習えと云ったというのである。
金持ちとラザロの話は、これと反対に、金持ちが生きていた間、贅沢三昧に身を費やし、死んだ後の準備を忘れて死んだのでした。地獄に行った金持ちが後悔していることを描いている。
 この二つの譬えは、この世の富と知恵を賢く利用した者と、その利用を誤った者とを述べており、信仰的には、いかに、この世の人生をいかに生き抜くかを教えようとしているのである。
 
 パレスチナには不在地主が多くいました。小作人が地主から土地を借りて農業をしていました。この主人も不在地主で、奴隷の一人を管理人として仕事を任せていたのです。この管理人は、主人に入るべき地代を使い込み、浪費していた。パレスチナでは、地主に払う地代を金ではなく物品で支払うことが多かった。この管理人の不正を訴える者がいた。主人は、管理人を呼んで、「お前のことで私の耳に入ってくるこの件は、いったい何事だ。会計報告を出せ、もうお前に管理を任せておくわけにはいかない。」管理人は考えた。「どうしようか、主人が俺から仕事を取り上げようとしている。土方をやって穴を掘る肉体労働はできないし、人に物乞いをするのは恥ずかしい。そうだ、こうすれば、自分が首になったとき、人々は俺を彼らの家に迎えてくれるだろう」そこで、この管理人は、主人の債務者たちを呼び出した。最初の者に、あなたは俺の主人にどれくらいの借りがあるのか。「オリーブ油百パトスです」管理人は、このあなたの借用証書に「50パトスと書きなさい。管理人は次の者に言った。あなたは、どれほど借りがあるのか。彼は言った。「小麦100コロスです。管理人はあなたのこの借用証書に80コロスと書きなさい。」
 この管理人は、借主の証文を オリーブ油 1パトスは40L、百パトスは、40kL、これを半分の20kLに書き換えさせた、また、次の借主の証文を小麦 1コロスは、393~525L、少なく見積もって200KL、を16klに書き換えさせた。こうしておけば、首になっても成果が得られる。第1に、借主に恩を売っておける。こうすれば借主は、何らかの形で、自分の面倒を見てくれるかもしれない第2に、証書の書き換えで借主を自分の共犯者に引き込めるのだ。
 これは、悪知恵である、犯罪の上塗りである。こうして、管理人は、自分の失業後の生活の安全を図ったのである。
しかし、主人は、この不正な管理人の抜け目ない、利口なやり方を褒めた。なぜならば、主イエスは、この世の子らは、この時代のことでは、光の子より賢いからと云った。どう見ても、これは、一般の常識では、考えられない。逆説である。反面教師である。
 「賢い」は、新共同訳で「抜け目のない」です。しかし、この悪徳を働いて、それで、人生を全うできるのでしょうか?
旧約聖書 イサクの息子のヤコブの物語を想います。ヤコブは、兄エサウと争い父イサクの祝福をだまし取ります。ヤコブは兄エサウを畏れて叔父ラバンのもとに逃げ込み、ラバンに仕えたのち故郷に戻ります。ヤコブは、ラバンの許を去るとき、叔父のラバンに「わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました。 もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」 (創世記31章40~42節)
 ヤコブは、やっと生き延びたのです。そして、老いたヤコブがエジプトの宰相となった息子ヨセフの許に身を寄せて、エジプトの王ファラオに拝謁する僥倖を得ました。ヤコブは自分の人生を振り返り、ファラオに告白します。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創世記47章9節)
ヤコブは兄から祝福をだましとっても、その生涯はヤコブにとって、生き延びるのがやっとでした。その罪の重荷を背負って生きたのです。
 不正な管理人とて同じ運命になるではないか。管理人は、悪事に抱き込んだ友人と共に信頼して生きてゆけるのだろうか。生き延びるのが精一杯ではないだろうか

 しかし、この地主の主人は、即、主イエスは、この世の子である不正な管理人を褒めた。この世の子らは、神を考えない世俗の人、管理人のことを言うのだろう。彼らは、この時代に対して光の子よりも利口だという。光の子は、イエスの弟子、クリスチャンを指している。
 このたとえではっきりしているのは、この男の頑なな態度です。悪いことに徹底している。悪いことを悪いと反省していない。中途半端でない。自分のやり方を徹底している。 そういう態度を考えると自分たちの信仰は中途半端かもしれない。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(黙示録3章15~16節)のような信仰に見えるかもしれない。私たちの信仰は腰がふらついていないか。背筋が一本通っているだろうか。自分に都合が悪くなったら逃げ出すつもりで、信仰の世界に片足を突っ込んでいないか。
 イエスの弟子たちがそうでした。十字架の主イエスの後に従おうと、シモン・ペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ福音書22章33~34節)ペトロは、そう決心したはずでしたが、大祭司の庭で、家の女中に、「あなたはあのナザレ人の仲間だ」と問われると「知らない」と3度も否定します。ペトロは、死ぬことを畏れ、主イエスを裏切り、逃げ出したのです。
 このひよわな光の子に比べれば、この不正な管理人は、堂々としております。管理人は、「ご主人様、二度としませんから勘弁してください」とは言わないのです。切羽詰まっても、自分の生き方を変えないで、生き抜こうとしたのです。彼は、そのために、他人を利用したのです。自分の仲間に率いれて、悪い友人を造ったともいえましょう。
 光の子はどうでしょう。光の子だからといって途方に暮れないことはありません。この世の荒波の中で行き惑うのです、その時に、覚悟が定まっているかどうかです。昨年亡くなられた、樹木希林さんは、全身をがんに侵されながら、死の間際まで泰然自若として仕事をしました。「覚悟を決めたら楽なものよ。…がんの手術じゃないわよ。…周りが育って、私がいなくても大丈夫、後は死ねると思ったら楽よ」とインタビューに答えていました。そういう生き方もあります。
 光の子の光とは何か。加藤常昭先生は、神の愛の光であると読むのだと言います。主イエスがもたらしてくださった光です。放蕩息子や失われた銀貨を求める女の物語の中に、神の愛の光が見えてきます。イエスの弟子たちは、その光の中で生かされ始めている。しかし、自分に苦しいことがあるとその光まで暗くなってしまう。光そのものは、少しも揺らめいていないのに、自分が揺らめくと光まで揺らいでしまい、あてにならないと思ってしまう。   
この世の子ら、不正な管理人は、金銭の力に信頼しました。この金さえあれば人の心も抱き込めるのだと思い、それを貫きました。それを主人は褒めたのでした。しかし、主イエスは言われます。神の愛の力は金銭に勝るではないか。何故、そのことに気づかないのか。何故、その光に生き抜く、賢さを持たないのか。賢さというのは状況を見抜くということです。何故、そこに立とうとしないのか。
 使徒パウロは、告白しました。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。  ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」 
ここに、十字架の愛の恵みによって光の子とされた弟子たちの生きる源が示されます。

 9節 不正に満ちた富で、自分のために友達を造りなさい。 新共同訳そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
 どのような友をもつべきか。この示唆を与えるのは、ラザロと金持ちの物語である。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。
金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
(ルカ福音書16章19~31節)
陰府で苦しむ金持ちが地上に残された兄弟のことを思い、彼らの悔い改めを願い、それを導くラザロの派遣を希望しように、私たちには神の前に正しく導いてくれる友が必要である。ここで、神の前に私たちを正しく導く、その友は、イエス・キリストあると示されるのです。
ヨハネ福音書では、十字架に向かう前に、主イエスは、弟子たちに約束している。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ福音書14章2~3節) 確実に神の許に導くと約束されるのは、イエス・キリストだけです。
弟子たちを私たちを友と呼ぶイエスは、私たちを、「永遠の住まい、父なる神の家に迎えるために、自分の命を棄てる犠牲を払うことをいとわなかったのである。
わたしたちがなりふり構わずに、求めていかなくてはならないのはイエスを友とすることである」。 讃美歌1 351
 友という友はなきにあらねど 類もあらぬは 主なるイエスきみ うからはらからも およびはあらじ たれがわかために命を捨てし 
此の世にましては 罪びとの友 昇りたまいては み栄のきみ 土くれに似たる わが身を清め 御国の世継ぎと ならしめ給う
み恵み受くれど さとりも得せず 心にもあらで 御名を汚せり かくまでまがれる 身をさえ棄てず 友と呼びたもう 君ぞとうとき
このイエスの恵みの光、救いを受けて私たちは生きている。主イエスにならい、私たちも、友のために、他者のために生きることを倣いたいと願うのである。