日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.11.17「主イエスは命の糧」

Posted on 2019. 11. 20, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨハネによる福音書6章22~35節
06:22その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。 06:23ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。 06:24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 06:25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 06:26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 06:27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 06:28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 06:29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 06:30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 06:31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 06:32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 06:33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 06:34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 06:35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

近年まで、農業国フランスでは、玉ねぎは自分の庭で栽培するのが当たり前でした。「ベル神父のフランス食物誌」(ヨハネ・ベル著)によれば、玉ねぎは大変身近な野菜でした。それが証拠に色々な格言になっていますが、自分のプライバシーを守る表現に「自分の玉ねぎの面倒を見ろ」というのがあります。玉ねぎは、フランスの個人主義の象徴でもあります。
玉ねぎは良い土がなければ育ちません。ですから、善い個人主義は良い土壌がなければ育たないという訳です。良い玉ねぎが育つのも良い土壌があればこそです。神さまの備えてくださる朽ちない土、永遠の命の大地が、私たちをこのように生かしてくださっていることに気づきます。命のパンなるイエス様の畑で生きる玉ねぎは、必要な物すべてが備えられます。
(渡辺純幸著 「人生の峠は山の下」より、引用)

今日の聖書箇所に入ります。6章の初めに5千人への給食の記事があります。山の上で説教されていた主イエス、夕方になって弟子たちは、パンの心配を始めた。そこで、主イエスは、少年の持っていた5つの大麦のパンと2匹の魚から、男だけで5千人、それに加え、女も子供もいましたが、彼らを満腹させたのでした。11節、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 どんどんパンと魚が配られて、配られても減ることなく、むしろ余るほどであった。人びとは興奮し、イエスのことで驚いた。12節、人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 06:13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 14節、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、この人こそ、我々の王にふさわしいと叫んだのだ。 06:15イエスは、人々が、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりで姿を消された。
この出来事が、まだ、今日の聖書の個所、カファルナウムの町まで続いている。群衆は、ティベリアスから船団を組み、乗り込んでイエスを探し求めて、カファルナウムに来たのである。、25節、カファルナウムでイエスを見つけると、「ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 わたしたちは、あなたを王として担ごうと考えていた。ローマ皇帝に対抗する預言者、王として頂こうと思ったのに、あなたは、いつの間にか姿を消してしまった。いつからここにいるのですか?群衆は、興奮冷めやらぬままにイエスに説明を求めます。
イエスは答えられた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
イエスは、彼らの求めに応えず、彼らの求めが正しくないことを批判する。群衆はパンの奇跡を体験したが、それを飢えを満たす食べ物としてしか見ていない。
それは、祖先のイスラエルが出エジプトの旅路の中で天からのマナによって養われた故事を指摘している。いみじくも31節で群衆がこのマナの故事に触れている。このことは、詩編78篇でも詩人が指摘している。
詩編78篇17節以下、(イスラエルの民は)は重ねて罪を犯し、砂漠でいと高き方に反抗した。78:18心のうちに神を試み欲望のままに食べ物を得ようとし78:19神に対してつぶやいて言った。「荒れ野で食卓を整えることが神にできるのだろうか。78:20神が岩を打てば水がほとばしり出て川となり、溢れ流れるが、民にパンを与えることができるだろうか。肉を用意することができるだろうか。」78:21主はこれを聞いて憤られた。火はヤコブの中に燃え上がり、怒りはイスラエルの中に燃えさかった。78:22彼らは神を信じようとせず、御救いに依り頼まなかった。78:23それでもなお、神は上から雲に命じ、天の扉を開き78:24彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり、78:25人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。
 このように詩人は語っている。イスラエルの民は、荒れ野の中で、モーセや指導者たちに、エジプトにいる時の方が良かった。あの時は肉鍋を食らい満腹できたではないか。今はどうか。彼らは、空腹のゆえに、自分たちが奴隷で、自由を奪われていた過去のことなど頭から消えているのです。食べて満腹することが人の心を誘うのです。イエスによるパンと魚で満腹した。そのことがイエスを捜し求めた人々の心から消えないのです。
27節、主は云われた。「 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
口語訳は、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。」と訳しています。ギリシャ語の原典では、「食べればなくなる食べ物、食べてもなくならない食べ物」と対比するように書かれています。過日の説教で学んだイエスとニコデモの対話では、「肉から生まれたもの」、「霊から生まれたもの」という言い方です、サマリアの婦人には、「自然の水」、「生ける水」です。今日の新共同訳では、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とあります。働きなさいと言われたので、28節、群衆は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞きます。彼らはこころのなかで救われるために何か行いを積み重ねなければと考えている。自分の能力や功績に頼って、救いを見出そうとしている。

朽ちない食べ物のために働くとは、神の求め給う行いとは何か。
イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者(御子イエス)を信じること、それが神の業である。」 それに対して群衆は、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」
信じることを手に入れるためのしるしを見せてくださいますか。彼らは父祖モーセが荒れ野でマナをふらせたような奇跡をイエスに求めるのです。
「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32節以下、 イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 天からのパンを与えたのはモーセではなく、神御自身である。49節「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 (朽ちる食べ物だからだ。)しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。(朽ちない食べ物だからだ)」34節そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」
民衆の繰り返しの要求は自分たちの空腹を満たすパンのことでしかない。しるしによって自分が納得できなければ、信じようとしない。ですから、信仰は、すべて自分の理解力と判断力にかかってくる。あくまでも、納得するのは自分でしかない。しるしを求めるとはそういうことである。これが朽ちる食べ物なのだとうことです。イエスは、天から与えられる命の糧を考えている。信仰は天から与えられるものである。それを信じるかどうかにかかっている。イエスが十字架につかれたときも、ユダヤ人はしるしを求めて言った。「今すぐ十字架から下りてくるがよい。見たら信じてやろう」(マルコ福音書15章32節)神を信ずることのできない人間の性とも言うべきなのでしょうか?

イエスは、朽ちるパンを軽んじてはおられない。イエスの5千人のパンの奇跡は、群衆が求めたものではなく、イエスが配慮してなされたのです。イエス御自身、人間が霞を食べて生きられるとは思っていない。主の祈りに、私たちの必要の最初に、我らの日用の糧を与え給えが入っているのも主イエスが重要と考えている証拠だ。
しかし、群衆は、いつも飢え乾くことのないようにパンを与えて欲しいと思っている。イエスは、天から与えられる命の糧を考えている。信仰は天から与えられるものである。それを信じることである。
35節、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」決して飢えることはない。あのマナは保存がきかず、一日食べたら、残ったものは取っておけないのです。これは、毎日を、神によって養われしるしであります。人間はそれを忘れるのです。神のパンは、天から降ってくる。与えられる賜物であって、あなたがたが自分で確保するものではない。「わたしが命のパンである。わたしを食べなさい。わたしを飲みなさい。わたしを信じなさい。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 06:48わたしは命のパンである。」(ヨハネ福音書6章47~48節)
イエスは、命、神につながる永遠の命を与えられる。いえすは、ここで、自分の肉を食べ、自分の血を飲む者のなかに自分がいつもおり、その人には命があり、その人と共に生きている。ここには、聖餐のパンに与り、ブドウ酒に与ることによって、イエスが共に生きておられることを実感しつつ生きるという一面が示される
イエスを知り、イエスを受け入れ、迎え入れるなら、全ての満たされない渇望や、心と魂の飽くことのない願いは消え、全てが満たされる。
イエスによる給食は、食べてもなくならないパンです。見えないものに目を注ぐ、神の下さる霊的なパンです。神さまの与えて下さる賜物を素直に受け入れることです。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 06:48わたしは命のパンである。
パウロも言ってます。
04:16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。…04:18わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
(Ⅱコリント書4章16節)

信仰を持つとは何か。神学校時代、キリスト者の植物学の先生は、「神の視点」を持つということだと言われました。自分の思いと同時に、神さまはどう思われるか。この多視点に立つことであるという。
加藤常昭先生は、先生の師匠ボーレン教授の説教を引用しておられる。
「新しい眼鏡」という題の説教です。「信仰を持つということは、新しい眼鏡を神から頂いて、新しい物の見方が身につくということです。その眼鏡で最初に見なければならないのは、自分が罪に対して死んだということである。」パウロがローマ書6章4節で、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」ボーレン教授は、罪に対して死体になっていなければならない」と強調されたというのです。新しい目の中で、「罪に対して死んだ人間だということを見抜く、死体になっている現実が自分に起こっていること」を見抜くということです。それが指し示している「神の御業」を見抜くということです。