日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.11.24「私達が与えられているもの」

Posted on 2019. 11. 25, 牧師: 杉村 和子

申命記26章1~11節  
私達も含めて生きとし生ける者は、水と食べ物が無くては命を繋ぐことは出来ません。私達が住んでいるこの日本では、四季折々の植物や食べ物があり、豊かな生活を営んでいますが、その恵みは全て神様からの賜物だと私達は捉えています。
今日は収穫感謝礼拝という事で、旧約聖書申命記から共に学びたいと思います。申命記はモーセが神様の言葉としてイスラエルの民に与え、この26章はその締めくくりとされ、信仰の原点でもあると言われています。 ご存じの様にイスラエルは、アブラハムの時代から国を持たない流浪の民でした。ある意味その都度、神様が与えて下さった土地に住み、子孫を増やしてきたのです。ヤコブの時代、飢饉が起こり民たちはエジプトへ逃れてきたのですが、それはエジプトに売られたヤコブの息子、ヨセフの尽力によるものでした。しかしエジプトで増えていく民たちに、王は怖れを感じる様になり、人々の苦難が始まったのです。奴隷とされて呻き苦しむ人々の声を神様は聞かれ、そこからモーセを用いて脱出させました。これが出エジプトと言われている事柄なのですが、 しかし必死の思いでエジプトから脱出したイスラエルの民達は、その間どうだったでしょうか。
荒野の40年と言われたその旅は、飲む水も無く飢えに苦しみ、想像もつかない苦難でありました。その度に民達はモーセに不満を言い、モーセはその度に神様の声を聴き、民をカナンまでひき連れてきたのでした。そしてやっとカナンを目の前にして、モーセが神様の言葉を示したのが申命記なのです。
26章11節からは、人々が収穫の感謝として初物を、神殿の中央聖所に捧げなさい、と記しています。その方法は祭司にお願いする場合と、自分自身で捧げる場合、この二通りに限られていました。祭司に仲介するよりも、自分達それぞれが捧げた事の方が古いとされていますが、その時に必ず行うべき事がありました。それは長い信仰告白をすることです。その内容は出エジプトの事柄と土地の授与でした。申命記6章21節にも記されている信仰告白をするのです。それは自分達の先祖が、どの様にしてこの土地を与えられたのかを思い起こす為でした。滅びゆくアラム人、ヤコブの事ですが、その子孫がエジプトで繁栄したけれど、それを恐れたエジプトの王は民たちを虐げ奴隷として扱いました。人々は神様に救いを求めて叫んだのです。その人々の叫びを神様は聞かれエジプトから脱出させて、カナンの土地まで導きました。その感謝を忘れることなく実りの捧げものをするよう戒めたのです。この神様から救われた感謝は、出エジプトの出来事ではなく、今も自分達の事としてユダヤ人は信仰を告白します。そして何よりも忘れてならないのは、この全ての恵みをレビ人と寄留者と共に喜び祝いなさい、と記していることです。 モーセの死後、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、カナンに入った時ヨシュアがくじ引きをして、ヨルダンの西側を9つ半の部族に分けました。他の2部族はすでに東側を与えられていたのですが、レビ人には、礼拝を司る仕事を与えられたのです。その為土地を持たず、神様と人々が生活を支えました。今で言う神父や牧師になるのでしょう。そして寄留者とは他国からの移民や難民の事です。その人達は自分の土地が無い為、他の人の土地で働きました。その人達と共に喜び祝いなさいと神様はおっしゃいます。そこには自分達祖先も、寄留の民であった事を忘れない様に、という神様の計らいでした。そして何よりも、どの様な人間をも深く愛し、憐れむ神様の姿を見る事が出来ます。その為に、この信仰告白には神様からの救いと祝福、そして豊かな恵み、それらは全て神様からの賜物である、という神様への感謝がありました。そして人々はその事を後々まで子孫に伝えていくのです。それが神様との約束でもあったからでした。 やがて人々はその土地から豊かな実りを得、周りの国の様に王を願い、王達は戦いに明け暮れます。段々神様を忘れ、異教の神々を礼拝する様になりました。預言者たちが戒めても聞く耳を持たなかったのです。やがてバビロンに捕囚となっていきます。その間人々は異国で祖国を思い、涙を流しながらも希望を捨てませんでした。それは神さまが必ずイスラエルを救って下さる、という信仰に他ならなかったのです。ところで申命記の言葉は、イスラエルだけに神様がおっしゃったことなのでしょうか。考えてみれば現在の私達も、大昔は中国や朝鮮半島から来たという説や、全ての人はアフリカから来たという説も有り、いろいろな困難をして、今の場所に住んでいると言えるでしょう。そもそも人間は移動しながら生きて来たと言えるのではないでしょうか。どこに住んでもどの様な事があっても、沢山の恵みを与えて下さる神様に、感謝を忘れてはならない事を、私達にも示しているのだと思います。そして周りの人と仲良く助け合って生きるよう神様は促すのです。しかし人間は満足りるとそれが当たり前になり、イスラエルではありませんが感謝する事を忘れて、もっともっとと心がささやくのです。それでも収穫の大切さは誰もが感じているでしょう。日本でも初物は初セリをし、マグロなど1本が300万とか、目の飛び出るような値段で落とされます。それを多くの人々と分け合うのですが、そこには自然に対する恵みの感謝があるのではないかと思うんですね。またその年に初めて収穫されたお米や果物を、仏様にお供えをして感謝します。その豊かな実りは私達の体と心を満たしてくれます。「美味しいね、美味しいね」と言って頂く食事、その時私達は必ず言いますね「頂きます、ご馳走さま」それは育ててくれた人、作ってくれた人に感謝するのだと、幼い頃から教えられてきたことでした。宗教や人種が違ってもこの事だけは共通しているなあと感じます。 今は食生活も変わり、スマホで注文すると宅配をしてくれる、そんな時代になりました。便利にはなりましたが、いわゆる家庭の味という物が消えかかっている様な気がします。お漬物、みそ汁、煮物、カレーなどそれぞれのおふくろの味がありました。それは懐かしく年老いても心に残っている味です。その様な意味では皆さんも時代の変化を感ずるのではないでしょうか。しかし変わらない事があります。人は働かなくては食べていけないという事です。しかし現実の世界では戦争があり、住む家も無く、仕事さえも見つからない、その様な人がなんと多い事でしょうか。そう考えると人生そのものは、いつ何が起きるか分かりません。時には神様は苦しみも悲しみも与えられるのです。でもその事を糧に人間は新しい歩みをするよう助け手も与えて下さいます。 申命記8章3節にはこの様に記されています。「あなたの神が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。神さまが民たちを苦しめたのは、ご自身の戒めを守るかどうかを知ろうとした。神様は先祖が食べた事のないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての言葉によって生きる事を知らしめる為である」と記されています。不満ばかりのイスラエルの民でしたが、それでも神様は人々を約束のカナンの地まで導かれたのです。「人は
パンだけで生きるのではない」、それはイエス様も引用された言葉ですね。ここにはイエス様の誕生が繋がっている様に私には感じられるのです。まさにイエス様は神様の言葉そのものだからです。イエス様は「私は命のパンである」ともおっしゃいました。私達が若い時にはお腹が空いても、お腹一杯食べられない時期がありました。特に戦後の日本は貧しかったので、食べられるだけでも人々は感謝をしたのです。やがて豊かになり、今は食べる事には不自由しなくなりました。でも不思議な事に、段々年を重ねると食が細くなると申します。しかし少しの物でも心が満たされ元気が出る事もあるんですね。それは「私は一人ではない、いつも誰かが傍にいる、という安心感です。そのイエス様の愛が、心も体も元気にしてくれるのではないでしょうか。 神様はご自分を忘れ無い様にと、最も愛するイエス様を私達に与えて下さいました。イエス様は愛そのものだからです。そして私達が忘れるか忘れないかに関わらず、ずっと傍にいて下さるのです。その事に私達は感謝の外ありません。 それにしても今年は災害の多い年でしたね。大型の台風が2度も上陸し、住む家も土地も、尊い命までも失った方々が沢山いらっしゃいました。そこに輪をかけ豪雨があり、私は思わずノアの洪水を思ったほどでした。精魂込めて田畑を耕し、豊かな実りを手にする筈の果物やお米は、全て泥の中に埋まってしまいました。家も流され、呆然と佇む人々の姿を見る度に、大変心を痛めました。これから寒さに向います。でも、前に進むしかない、と土地を整え、災害の後片づけをする高齢の方、そしてその方がたを支えるボランティアの方を見て、本当に頭が下がり、神様の導きを祈るばかりです。ある人が、土地さえあればまた植えればいい、来年にはもっと美味しい物を作ります、とおっしゃった農家の方に、私は希望を見たような気が致しました。人は一人で生きているのではありませんね。また一人では生きる事は出来ません。土地も家も食べ物も水も、そして家族や隣人も、全て神さまが与えて下さっているのだと思います。 今日本では農業を継ぐ人がいなく外国人に頼っています。私の家の前の畑も広い所に僅かの作物が植えられていますが、この余った土地を人々に貸す事が出来たら良いのに、と思う事があります。世界では戦いの為に土地が荒れ、人々は国を追われているのです。また緑豊かな土地は木が伐採されビルが建てられています。神さまが与えて下さった自然を大切にするのが、私達一人一人の責任なのかも知れませんね。今改めて申命記の言葉をかみしめ、全ての物を与えて下さる神様に感謝して歩みたいと願います。