日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.11.3「神の愛」

Posted on 2019. 11. 8, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨハネによる福音書3章13~21節
03:13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者
はだれもいない。 03:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人
の子も上げられねばならない。 03:15それは、信じる者が皆、人の子によ
って永遠の命を得るためである。03:16神は、その独り子をお与えになっ
たほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の
命を得るためである。 03:17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くた
めではなく、御子によって世が救われるためである。 03:18御子を信じる
者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じ
ていないからである。 03:19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いの
で、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 03:20悪
を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の
方に来ないからである。 03:21しかし、真理を行う者は光の方に来る。そ
の行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

ヨハネによる福音書3章16節の言葉は、わたしの愛唱聖句である。そ
して、この聖句は 子どものとき、日曜学校で覚えた。「それ神はその独
り子を給うほどにこの世を愛し給えり、すべて彼を信ずる者の永遠の命を
得んためなり」終戦後間もないころ、日曜学校で貰ったきれいな聖句カー
ドと共に覚えた。 高校卒業後、日曜学校でならった牧師のもとにその聖
句カードを持参して喜ばれたのを覚えている。だから、3章16節は、わ
たしの三つ子の魂みたいなものである。この聖句は、小さな聖書といわれ
る方がある。宗教改革者ルターは、この聖句を「福音のミニチュア」と云
いました。まさに、そのとおりだと思います。この聖句は、神さまの御心、
その御心を体現したキリストの生涯・十字架を指し示しているのです。

先週、ヨハネ福音書とそれ以外のマタイ・マルコ・ルカの福音書を共観
福音書と云いますが、これらとは異なると申しました。共観福音書は、イ
エスのなされたことを客観的にみて、解釈してつたえています。しかし、
ヨハネによる福音書の著者ヨハネは、そうではありません。ヨハネは、師
であるイエスの言動を、自分の理解した思想をもって説明したのです。
この3章では、ユダヤ教の指導者であり、ユダヤ宗教議会の議員であっ
たニコデモがイエスを訪ねてきて聞きます。イエスは少数者でありました
が、ニコデモは、イエスの言動が神と共にあることを否定できませんでし
た。それ故、直接、イエスに会いに来たのです。
イエスは、ニコデモに悔い改めて、新しく、上からの力によって生まれ
なければ、「神の国」、天国を見ることはできない。聖書に精通していた
ニコデモでも、悔い改めて、新しく生まれるということは理解できません。いくら聖書に精通していても、神との霊的交わりを知らない、ニコデモ
は、神の霊によって新しく生まれることは理解できませんでした。イエス
は、水と霊による洗礼を受け、悔い改めて180度方向転換し、神にのみ目
を向けて生きる時に、神からの聖霊を受けて神の御心を知るならば、全く
新しく生きることが出来ると云われたのです。
神の国に入る門となる新生の体験の啓示は、イエスご自身についての
啓示にならざるを得ない。
イエスは、ご自身の十字架の意義について触れられる。13節以降、かっ
てイスラエルの民が荒れ野を旅した故事にたとえて話された。03:13天か
ら降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいな
い。 03:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げら
れねばならない。 03:15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命
を得るためである。
イスラエルの民は、神に背いて罪を犯したため、火の蛇にかまれて苦し
んだ。そのとき、モーセは、神の憐みの指示により、青銅の蛇を造り、す
べての人々に見えるように、それを竿の先に掲げた。その青銅の蛇を見た
ものは、死の刑罰から免れたという。(民数記21章4~9節)
この記事に見られる青銅の蛇のように、人の子であるイエスもすべての
人々に見られるように上げられねばならない。即ち、人の子イエスは、重
罪人のように十字架に上げられる、つけられなければならない。
この「人の子も上げられねばならない。」そして、イエスがニコデモに
言われた、7節、『あなたがたは新たに生まれねばならない』と言われ
たことは、神の必然の言葉である。必ず、そうならねばならないというこ
とです。 イエスの十字架の死こそ、神が私たち罪びとに対する真実な憐
み、赦し、愛の方法である。罪が支払う報酬は死です。しかし、(神は、
罪の報酬のために御子イエスを死に渡された、身代わりの死により、私た
ちは神の賜物、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命(を受け
継ぐ)のです。」(ローマ書6章23節)

16節以降は、ヨハネは、神の独り子イエスの生と死の目的を記してい
る。16節は、ルターの言うように福音の縮図である。繰り返し読めば読む
ほど、繰り返し唱えれば唱えるほど、神の愛がどんなに広く大きいかを感
じずにはいられない。十字架の縦木は、イエスの愛の深さを、横木は、イ
エスの愛の広さを示すという。
神はその独り子をお与えになった、この与えるのギリシャ語ディドーミ
ですが、パウロは、パラディドーミという強調した言葉を用いて、「死に渡す」と表現しています。「 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ書8章32節)
神の私たちに対する愛は、御子イエスを十字架の死に引き渡すことなのです。神が独り子を死に渡す、この自己犠牲、これが神の愛です。
ヨハネの手紙Ⅰ 4章10節、「わたしたちが神を愛したのではなく、神
がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお
遣わしになりました。ここに愛があります。」と告白しております。また、
同書3章16節で、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててください
ました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」と証しして
おります。
自分の子供を犠牲にすることは、耐えがたい苦痛です。しかし、現代で
は、平気で自分の子供を虐待する親がおります。旧約聖書 創世記に22
章に神がアブラハムを試された出来事があります。神が、「アブラハムよ」
と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、 22:02神は命じられた。「あな
たの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさ
い。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげ
なさい。」イサクは、アブラハムが年老いてから授けられた独り子です。22:03次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を
割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行っ
た。アブラハムの心中はいかにです。そして、アブラハムがモリヤの山で
独り子イサクを犠牲としてささげようとしたとき、神の御使いが言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であ
ることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、
わたしにささげることを惜しまなかった。」とイサクをささげることを止
め、代わりに雄羊をささげることを赦されました。
その神は、我が子イエスの十字架の死を止めませんでした。ここに神の
愛があります。神さまはどんな思いでイエスの我が子の十字架を見つめておられたのでしょうか?
ヨハネの手紙1 3章16節は、「神は、その独り子イエスを、わたした
ちのために、命を捨てさせ、私たちの身代わり、犠牲の捧げものとしてく
ださいました。」なのです。それは、独り子を信じる者が一人も滅びない
で、永遠の命を得るためである。 03:17神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
神はこの世にある私たち人間のみならず、生きとし生ける者、神の作ら
れたものを救うために御子イエスを遣わしてくださったのです。私達は、
その恵みを愛を受けなければなりません。
「人の子イエスは、(人々の救いのために、十字架に上げられねばなら
ない。」これが神の必然の言葉でした。それは私たち神から離れ、神から背く罪を重ねる私たちに対する神さまの救いの必然なのです。
「8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ書8章32節)

本日は、永眠者記念礼拝です。教会では毎年11月第1聖日を永眠者記念礼拝と定め、既に、天国に召された方々を覚えます。
ここに飾られている写真の方々は、神に愛され人生を送られた方々です。
私たちもこの方々から神の愛を教えられたものです。
讃美歌1 87Bは、「神は愛なり」と詠います。1 めぐみのひか
りは わがゆきなやむ やみ路を照らせり 神は愛なり われらも愛せん
愛なる神を 3 うれいのときにも のぞみをあたえ さやかに照りいず
神は愛なり われらも愛せん 愛なる神を

元恵泉女学園理事長、神学者の一色 義子氏が神は愛であるという一文
を書いておられる。彼女の母ゆりは、恵泉女学園の創始者河井道子の弟子
であった。母ゆりは、16歳の時、河井道子先生に会い、>キリストに結ば
れた。父との結婚も河井先生と共にという条件で、初志貫徹した。それは
毎日のことで、朝7時ゆりは河井先生の家に出向いて食事の間にその日の
連絡を取り、夕方は先生がゆりの家に>立ち寄って、一日の出来事を話合う。
といった日常。そして、二人が寄ると、弥次喜多もどきに愉快で楽しく笑
い転げた。「愛」とは血縁ではないとわたしは無言のうちに教えられた。私の洗礼の前夜、母が」「私たちはイエス・キリストによって初めて神
さまの愛が分かるとやさしく言った言葉が忘れられない。「神はわたした
ちを愛してくださって、御子をお遣わしになった」それゆえ、河井道子と
母と父の生涯があった。父は召される1週間前、私の結婚式の15分前、
祝いの装いの皆に囲まれて、「イエス・キリストの救いのしるしのバプテ
スマ(洗礼)を受けた。
わたしは、どんなときにも私の喜びを喜ぶ3人の愛の支えがわたしを支
えた。河井先生は、私の幼い嬉しい報告を聞くと、とびあがるように喜ん
で、「さあ、神さまに感謝しましょう。お恵みを頂いたのだから。」とす
ぐに言われた。そして、その場でひざを突き合わせて主の祈りを祈ってく
ださった。先生は2才にもならないわたしに、遊びの中でも、「神は愛で
ある」と聖書を開いたり、閉じたりしながら教えてくださった。

本日は、天国におられる故人に思いを馳せ、わたし達地上に残された者のよすがを確認し、その生き、死にを偲び、自分の人生を想う時として備えられております。 故人と顔と顔を相見合わせての交わりは今は叶いませんが、わたし達が故人を想う時に神さまのお助けにより、その交わりに預かることが出来ます。日常生活のふとした出来事の中に故人を思い出す時、人生の歩みの中でこのような時には故人ならどうするだろうかと故人の姿に自分を重ねる時、兄弟姉妹ははあなたがたと共におられます。私たちの敬愛する故人に思いを馳せる時、彼らは天から私たちを見守ると共にあなたがたの中に共に生きておられるからです。「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」と約束されたイエス・キリストと共に、天からわたし達を見守っておられる故人の願いに倣い、わたし達も人生の行程を一生懸命に走り抜き、天国に凱旋する者でありたいと願います。