日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.12.15「共にいて下さる神さま」

Posted on 2019. 12. 25, 牧師: 杉村 和子

さて今日の説教箇所を読んで皆さんは、きっと不思議に感じた事と思います。何故かというとこの場面はイエス様が復活されたあと、弟子達に顕れて、これから福音を宣べ伝えて行きなさい、とおっしゃった事が記されているからです。あれ!これはイースターの事でクリスマスとは関係が無いのでは?と思った事でしょう。ただ、ここでイエス様は何とおっしゃっているのでしょうか。「私はいつもあなた方と共にいるからね」とおっしゃいました。私は共にいる、これはインマヌエル、という言葉なのです。ああ!思い出しましたよね。そうです。ヨセフに天使が顕れ「あなたの妻マリアは男の子を産みますよ。その子をイエスと名付けなさい。イエスとは人々を救う、それはインマヌエル『私はいつも共にいる』という意味ですよ」と天使が告げた言葉です。
イエス様はお生まれになってから復活されるまで、いえ、復活されてからもずっと「インマヌエル」私達と共にいて下さるお方なのです。確かに2千年前にイエス様はお生まれになりました。しかし、人々はイエス様を受け入れず、信じることはなかったのです。共に伝道をしてきた弟子達さえも、心から救い主だと信じる事は出来ませんでした。そうです。イエス様が自分達を救う為に十字架にかかり、復活された時、弟子達の心にイエス様がお生まれになったのではないでしょうか。そしてそのイエス様はずっと共にいて下さったのです。
さて、話は変わりますが、今の世界では戦いや少数民族の虐殺、テロや人身売買、目的のない殺人など目に余る事が多く、おまけに災害による苦しみなど心痛む事ばかりです。その反面文明は発達し、AIによるロボットもある、それも人間の言葉に対応してくれるのですから驚きです。私達の時代から考えたら夢の様な世界でしょう。宇宙への旅も、果ては住む時代が来るのかもしれません。そこで私は独断と偏見で、今日一日は幼い頃にタイムスリップをして、絵本の世界に入ってみようと思うのです。皆さんは笑われるかもしれませんが、マリアの胸に眠るイエス様を思いながら聞いて下さい。
皆さんも一度は手に取ったことがあるでしょう。新見南吉が書いた「手ぶくろを買いに」という絵本です。私は北海道で育ちましたから、この絵本には特別な思いがありました。内容はこうです。
寒い冬が狐の親子の住んでいる森にもやってきました。ある日ほら穴から子狐が出ようとして、あ!と叫んで母さん狐の所へ転げてきました。「母ちゃんおめめに何かが刺さった早く抜いて頂戴」母さん狐はびっくりして子狐の手を取り除けてみましたが、何も刺さってはいませんでした。そしてその原因は、あたり一面の銀世界に、お日さまの光が反射して、眩しかったからでした。「大丈夫雪が降ったからだよ」その声に初めて見る雪が珍しく、子狐は駆け回っていました。やがて帰ってきた子狐は「母ちゃん、お手々が冷たい、ちんちんするよ」と母さんの前に差し出しました。濡れてボタン色になった子狐の手を、母さんは、は~っ」と息を吹きかけて、ぬくとい手でやんわり包んでやりながら、かあいい坊やの手にしもやけが出来てはかわいそうだから、夜になったら街まで行って、毛糸の手袋を買ってやろうと思いました。
夜になって親子の銀狐は洞穴から出ました。子狐はお母さんのおなかの下に入り込み、目をぱちぱちさせ、あちこちと見ながら歩いて行きます。やがて明かりがぽつんと見えてきました。「母ちゃん、お星さまがあんな低い所にも落ちてるのねえ」「あれは町の灯なんだよ」その時母さん狐は、ある時友達と街へ出かけて行き、とんだ目に遭った事を思い出し足がすくんでしまいました。子狐が「母ちゃん早く行こうよ」と言うのですが、母さん狐はどうしても足が進まないのです。そこで仕方なく坊やだけを町まで行かせることにしました。そして母さんは坊やの手をしばらく握って、可愛い人間の手にしてしまいました。「何だか変だな」と言いながら、雪明りにしげしげと見つめている坊やに「それは人間の手よ。いいかい。町へ行ったらまず、まあるい帽子の看板の家を探し、見つかったらトントンと戸を叩いて『こんばんわ』って言うんだよ、そしたら中から人間が戸を少し開けるから、戸の隙間からほら、人間の手の方を差し入れてね『この手に丁度いい手袋を頂戴』って言うんだよ。わかったね!決してこっちのお手々を出しちゃだめよ!」と母さん狐は言い聞かせました。どうして、と聞く坊やに「人間は狐だと分かったら、捕まえてしまう怖い者なんだよ」「ふ~ん」母さん狐はもう一度念を押してから、二つの白銅貨を人間の手の方へ握らせてやりました。
子狐は街の明かりを目当てによちよちやってきました。明かりが一つ二つと増えて、明かりも星と同じ様に赤や黄色、青など色々あるんだなあと思いながら、やがて町に入ってきました。通りの家はみんな戸を閉めていましたが、小さな電灯が灯っていたので帽子屋を探しました。お母さんに教えてもらった通り、帽子屋の戸をトントンとたたきました。『( 今晩は!』すると戸が少しあいて、光の帯が道の白い雪の上に長~く伸びたのです。子狐はその光がまばゆかったので面食らって、母さんが、決して出しちゃいけないよ、と言っていた狐の手を差し込んでしまいました。「このお手々に丁度いい手袋下さい」帽子屋さんのおじいさんは「おやおや、これはきっと狐が木の葉で買いに来たんだなあ、と思いましたので、「先にお金を下さい」と言いました。子狐は素直に持ってきたお金を渡しました。帽子屋さんはその銅貨をカチカチ合わせてみると、チンチン良い音がしたので本物だと思い、子供用の毛糸の手袋を取り出して、小狐の手に持たせてやりました。子狐はお礼を言ってもと来た道を帰り始めました。
「お母さんは人間は恐ろしいものだとおっしゃたが、ちっとも恐ろしくないや、だって僕の手を見てもどうもしなかったもの」と思いました。でも子狐は人間がどんなものか見たいと思いました。ある窓の下を通りかかると、人間の声がしていました。何という優しい、美しいうっとりした声なのでしょう。「ねむれ ねむれ 母の胸に、ねむれ、ねむれ母の手に・」子狐は、その声はきっと人間の母さんの声に違いないと思いました。だって子狐が眠る時にも、やっぱり母さん狐は優しい声でゆすぶってくれるからです。すると子供の声がしました。「母ちゃん、こんな寒い夜は森の子狐は寒い寒いって啼いているでしょうね」すると母さんの声が「森の子狐も母さん狐のお歌を聞いて眠ろうとしているでしょうね。さあ坊やも早くねんねしなさい。森の子狐とどっちが早いかな、きっと坊やの方が早いですよ」それを聞くと子狐は、急にお母さんが恋しくなって、母さん狐が待っている方へ飛んでいきました。
母さん狐は心配しながら、坊やの狐が帰ってくるのを、今か今かと震えながら待っていましたので、坊やが来ると、暖かい胸に抱きしめて、泣きたいほど喜びました。二匹の狐は森へ帰っていきました。「母ちゃん、人間ってちっとも怖かないや」どうして?「坊、間違えて本当のお手々出しちゃったけど、捕まえなかったもの、ちゃんとこんないい暖かい手ぶくろをくれたもの」と言って、両手をパンパンとやって見せました。母さん狐は「まあ!」とあきれましたが、「本当に人間はいいものかしら、本当に人間はいいものかしら」とつぶやきました。
さて、皆さんはどうお感じになりましたか?
この原作者の新見南吉は4歳で母を亡くし、母の温もりを知らずに育ったという事です。彼は結核にかかり24歳の若さでこの世を去るのですが、彼の作品には母を描いたものが多いのもそのせいかもしれません。この手袋を買いに、には親子の愛が、温もりがとても滲み出ているなあと私は感じるんですね。そして帽子屋さんのお爺さんも優しかった。それに、窓の明かりからこぼれてくる、お母さんと子供の会話に、子狐は人間を始めて感じたのでしょう。人間はとても優しい物なのだと。それを聞いた母狐は、人間は怖い物だと思っていたけれど、本当は優しいのかも知れないと感じたのでは・と私は思うのです。
ぼk私は母狐と子狐の中に神様を感じるのです。帽子屋さんのおじいさんの中に、そして窓から漏れる親子の中に神様を感じるのです。それが愛そのもの、イエス様そのものだと思うからです。ある方が仰いました。神様って父であり、母であり、隣人なんですね。私も本当にそうだと思いました。そしてこんな当たり前の親子の温もりが、今の時代には欠けているのではないでしょうか。子供の貧困や犯罪が社会問題になっています。いじめが当たり前の様に繰り返され、追い詰められた子供達が自ら命を絶ってしまう、そんな痛ましい事件も起きています。孤独なお年寄りも多いと聞きます。 世界が、人が余りにも忙しいのです。目まぐるしく変わる今の時は、相変わらず差別があり貧困があります。どこまで行っても貧しいものが飢え、豊かな者が富む、イエス様がお生まれになった時と変わりがありませんね。そう思うといつの時代でも私達は、救い主を求めていると言えるのではないでしょうか。
私達はなぜ毎年クリスマスがあるのでしょう。イエス様は2千年前にお生まれになられたのに、なぜ今でもクリスマスをするのでしょうか。それは人間が愛することを忘れない為ではないでしょうか。私達は神様をつい忘れてしまうのです。本当の愛がなんであるかを忘れてしまうのです。それを思い出させるためにクリスマスがある、幼子イエス様を与えて下さった神様の深い深い愛を思いだす為です。
なぜ私達は命を与えられたのでしょうか。誰かを愛する為に、誰かと共に生きる為に命を与えられました。人は愛されて初めて愛を知ります。では誰から愛されているのでしょう。それは家族であり友人であり隣人でしょう。でも、もし私なんか誰も愛してくれない、と感じたとしても、神様が私達を愛して下さっている、いつも傍にいて下さっているのです。その証がイエス様なのです。イエス様は神様の愛そのものだからです。ですから、幼子のような心で神様の愛を思い出しましょう。そして「マラナタ」主よ来てください。私の所へ、あなたの所へ、世界中の人々の所へ、と祈りたいと思います。 

お祈り致します。
主なる神様、誠に至らない私達を救うために、イエス様を与えてくださり心から感謝いたします。でもなかなか御こころに沿えず、自分中心に生きてしまいます。世の中が余りにも忙しく、自分の事だけで精一杯になってしまうのです。そのような私達をどうぞお許しください。今年1年も災害が多く苦しみや悲しみを抱えた年でした。そして今この時も、病の床にある方、心に重荷を抱えている方がおられます。その所にあなたが共にいて、豊かな慰めと励ましが与えられます様に切にお祈りいたします。あなたは私たち人間を良いものとして命を与えて下さいました。しかし、あなたを忘れ、争いや貧困が絶えることはありません。幼子イエス様を与えて下さったあなたの愛で、私達が家族や友人、隣人を大切にする事ができますようお守りください。イエス様というバラがいつまでも心に咲き続けますようにとお祈りいたします。この感謝と願い尊き主、イエスさまのお名前によってみ前にお献げいたします。 アーメン