日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.12.22「神に栄光、地に平和」

Posted on 2019. 12. 25, 牧師: 藤田 穣

聖書 ルカによる福音書2章8~20節
 02:08その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 02:09すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 02:10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 02:11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 02:12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 02:13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 02:14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 02:15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 02:16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 02:17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 02:18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 02:19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 02:20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 グレタ・トゥンベリさん
 地球温暖化問題に取り組む16歳のグレタ・トゥンベリさんは、今年のタイム誌の表紙の顔となった。これに対して、パリ協定を草々脱退したトランプ米大統領がかみついた。「馬鹿げている。グレタは自分の怒りのコントロールする問題と取り組むべきだ。友達と良い映画を見にいった方がいい。落ち着け」これに対し、グレタさんは自分のツイッターのプロフィールを更新、「怒りをコントロールする問題に取り組むティーンエイジャー。落ち着いて友達と良い映画を見に行ってます。」と応じた。
 グレタさんにむきになるのは、トランプ大統領だけでない。ブラジルのボルソナロ大統領は、「小娘」と呼び、ロシアのプーチン大統領は、「世界が複雑なことを誰も教えていない」と非難した。大人げない。頭を冷やさねばならないのは指導者たちだ。
 また、裏読みのうがった見方によれば、米国大統領選が関係している。
環境問題を争点にしているのが民主党だ。グレタさんを支援しているのは、ワン・ファアンデーションという2004年中国の俳優ジェットリーが立ち上げた自然災害援助の団体の広報担当者だという。2010年のダボス会議で、ブレア英国前首相、クリントン前大統領、マイクロソフトのビル・ゲイツ、著名投資家のジョージ・ソロス氏らがジェトリーに、資金提供を申し出た。今年、環境活動に先鞭をつけたゴア元副大統領もグレタさんと対面している。グレタさんから、中国が石炭政策、炭酸ガス排出大国だというのに、何の言及もないのはこのせいだと裏読みしている。
一番素直に、このグレタさんに共感したのが、かのスーパー・ボランティアの小畠春夫さんだ。小畠さんの新たな挑戦は、腕に書かれたグレタ・トゥンベリの名にある。一番興気になる人の名を書くという。現在、小畠さんは、別府の海岸に流れ着いたペットボトルを仲間と拾い集めている。ウミガメがペットボトルを呑み込んで死んでしまうニュースに心を痛めたからだ。
 独善的政治家たちが、グレタさんを批判、攻撃しているのは欺瞞としか思えない。頭を冷やすのはどっちだ。 静かに天の川の流れる星空を見ながら、未来を考えた方が良い。

今日の前奏曲はパストラーレでした。パストラーレは、牧歌的な性格を持つ音楽を指す。またこれのみで、ベートーベンの交響曲6番田園を指すこともある。ギリシャの詩人に歌われた田園詩、羊飼いの詩が、中世、ルネッサンスの時代に復活、羊飼いのの恋を描いた文学とともに,世俗歌曲やオペラで盛んになった。これをパストラルものという。のちにコレリの《クリスマス協奏曲》の終楽章など,羊飼いたちの幼子イエス礼拝の場面と結びついたクリスマス音楽として愛好された。J・S・バッハ『クリスマス・オラトリオ』第二部冒頭のシンフォニア、ヘンデル『メサイア』の器楽間奏曲シンフォニア・パストラーレなど、とくにクリスマスと結び付いた作品が有名だ。

聖書の羊飼いの現実は、パストラルのように抒情的ではない。
ベツレヘム、昔、イスラエルを統一したダビデ王が羊飼いをしていた村である。この地方では、3,4月に羊を牧場に出し、11月には羊を囲い場に追い込むという。イエス誕生時代の羊飼いは、わずかな土地を所有していたものの、それだけでは、家族の生生活支えを、税金を負担するのは無理だった。彼らは金持ちに雇われて夜通し羊の群れの番をしていた。彼らが飼っている何百頭もの羊はほとんど金持ちのものだ。彼らは夜になっても、家に帰れず、一晩中、羊の番をしなければならなかった。彼らは、当時、最も貧しい世の中の底辺に住む民でした。
彼らは人口登録をする権利も持たない疎外された民でした。
この貧しい名もない羊飼いたちに神の御子の誕生が真っ先に、知らされるのです。
9節以下、すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
ここで知らされたのは、幼子の誕生でした。その子は救い主である。
飼い葉桶の中に寝かされているのがその徴である。
マリアの讃歌の中で、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、」(ルカ1章51~52節)と詠われておりますが、皇帝アウグストゥスと羊飼いとの対比のなかで現実となる。これが神の御心であろう。300年後ローマ帝国はキリスト教を公認している。しかし、貧しい者は減らない。戦後の日本は、一億総中流階級と言われた時代があった。しかし、現代は逆に格差が拡大している。ある経済評論家は競争社会である限り格差は拡大、競争と協力が調和されない限り、格差の是正は図れないと云っている。
どう捉えるべきだろうか。

御使いに加え、天使の大軍が加わり、神を讃美して言った。
13節以下 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」一瞬の間に、天使が歌い、それを羊飼いたちが聞いたのでした。そして、天の軍勢が去り、野原には再び、闇と静寂が支配したのです、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。8聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

普段、救い主の話も、神の言葉にも無縁だった羊飼いたちに、神のお告げが知らされる。何も知らない者たちが、心動かされ、救い主なる赤子を探し、探し当てたのでした。
 私たちのクリスマスもそうであろう。この礼拝の中に、クリスマスのなかに救い主をさがしあてようと考えている人は少なくない。
ペトロは、Ⅰペトロ書1章8節以下で、「 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。 この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。 預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。
この最後は不思議な言葉である。「天使たちも見て確かめたいと願っている」 天使は人間よりも神に近い存在である。その天使たちまで、イエス・キリストによる人々の救いに関心を寄せていることを示しています。
新約聖書は、イエスの御業、出来事を預言の成就と理解しています。福音書には、旧約の預言者や信仰深い人もイエスの救いを見ることが出来なかった。(マタイ福音書13章17節)、ヘブライ書は、「彼らは手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げたと記しています。 
「見て確かめる」この言葉は、口語訳では、「うかがい見る」で身をかがめてのぞき込むということです。神に近い天使たちでさえ、イエス・キリストの救いの御業、人々に対するゆたかな祝福を羨望の目をもって見ているということです。
旧約の預言者、信仰者になされなかった救いがイエス・キリストにおいて実現するという神の福音、喜びの知らせなのです。

14節 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 イエスのエルサレム入場の際に群衆に沸き上がった歓呼の声は、「「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」(ルカ福音書19章38節)この後半のところが天使の讃美に似ている。ここでは、平和も栄光も両方、天に、即ち、神にあれと呼びかけている。地の上には、平和がないことが前提とされている。それは、今日も同じである。
新約聖書神学者J・Bグリーンによれば、栄光、神にあれは、神の栄光の讃美に加わるようにとの一つの招きと理解する。平和は、御子の誕生において示された神の働きによってもたらされるものであるから、この「平和」は、地上が神の支配のもとにあり、正義と公正が行われるときにほかならない。(イザヤ書52章7節)
平和は御心に適う人にしかないのか。この平和は、イスラエルの平和にとどまらず宇宙的な平和である。神が好意をもって、善意をもって遇する人に平和あれです。平和を得る資格が問題にされるのではありません。
パウロは、ローマ書5章10節で、「わたしたちは、神の 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのでる。」と述べています。私たちが、神に敵対する者であった時から、その時、神は御子をこの世に生まれさせ、また、死なせ、私たちと神の間の和解の道を開いてくださいました、と告白した。クリスチャンを迫害していたパウロ、その時、既に神は、イエス・キリストにおいて救いの道を切り開き、備えていてくださったのだと証しているのです。神の御心とはそういうものです。
キリストが誕生されたことは、キリスト御自身が私たちの罪の根っこを押さえつけるために、私たちの罪を背負い、十字架において打ち破ってくださったということです。そこに、地に平和と讃美する世界を指示してくださったのです。ここに、クリスマスの意味があります。
ルターは、この御使いの歌がわかればすべてが分かると申しました。果たして、どう理解すべきなのだろうか。