日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.2.10「神さまに委ねたダビデ」

Posted on 2019. 2. 12, 牧師: 藤田 穰

サムエル記上26章21~25節

  26:21 サウルは言った。「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。わたしは愚かであった。大きな過ちを犯した。」26:22 ダビデは答えた。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。26:23 主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。26:24 今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」26:25 サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。

  

  サウル王に追われるダビデ

  ペリシテの巨人ゴリアトを倒し勝利したダビデは、その後も次々と戦いに勝ち、イスラエルのヒーローになりました。ペリシテに勝利して帰って来たダビデを大勢の人が出迎えました。186節以下、イスラエルのあらゆる町から女性たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、琴を奏で、歌い踊りながら迎えた。彼女たちは、「サウルは千人を討ち、ダビデは万人を討った。」と歌い囃した。サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって「ダビデには万、わたしには千。あとは、ダビデに王位を与えるだけか。」と云った。 この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。サウル王は、国の人気者になってゆくダビデ憎しとして、ダビデの命を狙うようになりました。

命を狙われたダビデは、サウル王のそばから逃げ出しました。4百人もの部下がついてきました。辛い旅が始まりましたが、ダビデは神さまが 守ってくださることを信じて怖れませんでした。ダビデとその部下たちは、エン・ゲディと呼ばれる荒れ野に逃げ込みました。

サウル王は、3千人もの兵隊を引き連れて追ってきました。途中でサウル王はトイレの用を足すために、一人で洞窟に入りました。なんとその洞窟の奥に、ダビデと仲間たちが潜んでいました。サウル王は気が付きませんでしたが、ダビデたちが気が付きました。部下がダビデにささやきました。「今こそ、サウル王を倒すチャンスです。」しかし、ダビデは、「神さまが王さまに選んだ人を傷つけてはいけない。」とサウル王の後ろから、そっと近づき、サウル王の上着の裾を切り取りました。

サウル王が洞窟から出てゆくと、ダビデも外に出て呼びかけました。「わが主君、サウル王」「あっ、お前はダビデ」 ダビデはサウル王にひれ伏したあと、切り取った上着の裾を見せて云いました。「王さま、私はあなたに逆らうつもりはありません。わたしには、今あなたを倒すチャンスがありましたが、そうはしませんでした。」サウル王は、「ダビデよ、私が悪かった。神がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。 自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今わたしは悟った。お前は必ずイスラエルの王となるものだ」と言って帰ってゆきました。

ところが、暫くすると、サウル王は、また、ダビデを憎みはじめました。ダビデがジフの荒れ野にいることを知ると3千人の兵隊を引き連れて追ってきました。その知らせがダビデの耳に入りました。夜、サウル王が、キャンプをし、テントを張って休んでいる所に、ダビデは、家来のアビシャイと二人で忍び込みました。サウル王と兵士たちはぐっすり眠っておりました。サウル王の枕元の地面には、槍が突き刺してありました。アビシャイが囁きました。「チャンスです。わたしがサウルを刺します。けれども、ダビデはそれを赦しませんでした。ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。神さまが油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない。主は生きておられる。神さまがサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。」 

ダビデは、とアビシャイはサウル王の槍と水筒差しをもってそっとテントをでました。見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もいませんでした。神さまから送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいたのでした。 ダビデは、遠く離れた山の頂に立ち、大声で叫んだ。「サウル王よ、さあ、枕もとの槍と水筒がどこにあるか見てみよ。」サウルが見ると、地面に突き刺していた槍と水差しがありません。 サウルはダビデの声と気づいた。「この声はわが子、ダビデではないか。」ダビデは答えた。「わが主君、王よ。わたしの声です。なぜわたしを追いかけるのですか。わたしが王さまに何か悪いことをするとでも思うのですか?」サウル王は考えました。「眠っている私を殺すこともできたのに、ダビデは私を赦してくれた。」それに気づいたサウル王は、「ダビデ、赦しておくれ、私が間違っていた」と謝りました。結局、この後、サウル王は、ペリシテ人との戦いで戦死することになります。

ダビデは、最後までサウル王に対する裁きを神さまに任せました。正しいことをしていれば、神さまが救ってくださると信じていたからです。 私たちも、神さまの前に正しいことを行うならば、いつも神さまが共にいて助けてくださるのです。 

お祈りします。

神さま、意地悪されても仕返ししないで、友達と仲良くできますように。インフルエンザが流行っておりますが、罹らないで元気に過ごしことができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン

2つのことを考えます。

ダビデの子キリストの信仰

ダビデは、「主から油注がれたサウル王」に対し、どんなに命を狙われようとも報復をしようとせず、神さまに委ねました。2623節、「主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。」と告白しています。

ダビデの子孫であるイエス・キリストも、敵対するユダヤ人達の手痛い仕打ちにも拘わらず、一切のことを正しく裁かれる御父の手に委ねられました。

キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された。「キリストは、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅すことをせず、正しくお裁きになる方にお任せになった。       

ペトロ書221-23節)

パウロは、「 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』(レビ記1918節)と主は言われる」とある通りであります。(ローマ書1219節)と語っております。

サウルとダビデの信仰について考えます。

サウル王は、イスラエルからペリシテ人を追い払うべく戦闘に明け暮れました。イスラエルは、戦争を始める時に祭司サムエルが来て祭儀を行い、民を奮い立たせてから、戦闘を開始することになっていました。  

サウルは、サムエルが、命じたように、七日間待ったが、サムエルはギルガルの陣地に到着しなかった。 サウルは、「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を持って来なさい」と命じて、焼き尽くす献げ物をささげ、終えたそのとき、サムエルが到着した。 サムエルは言った。「あなたは何をしたのか。」サウルは答えた。「兵士が敵を恐れてわたしから離れて散って行くのが目に見えているのに、あなたは約束の日に来てくださらない。しかも、ペリシテ軍はミクマスに集結しつつあり、ギルガルのわたしに向かって攻め下ろうとしている。それなのに、わたしはまだ神に嘆願していないと思ったので、わたしはあえて焼き尽くす献げ物をささげました。」
サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。 しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」
 サウルは、自分の判断で、戦闘の機会を失わず、民を奮い立たせようとしたが、サムエルは、これを越権行為とし決裂した。

サウルは、何度も戦争で勝利したが、1512節には、アマレクとの戦いに勝利したときに、自分のために戦勝記念碑を建てさせたことなどが問題とされます。それは、自分の名誉を誇示するためでした。さらに、

 この戦いで、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようとかすめとり、主の目に悪とされることを行ったのでした。

サムエルはサウルに言った。「あなたは、自分自身を取るに足らぬ者と思っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主が油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。それにもかかわらず、その自分を取るに足らぬ者としている。」

サムエルはサウルに言った。「わたしはあなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ。」

王としてのサウルは、主なる神から見放されたのでした。彼は、主によって油注がれた者、主の務めを託された者でした。しかし、サウルは、戦勝記念碑を建てて、自分を誇りました。戦利品に目がくらみ、掠め取り、主の御心に逆らい自分を貶めたのです。残念なことです。わたしたちにとって、果たしてこのことは他人事でしょうか?考えさせられます。

16章にダビデの選びが記されています。主なる神はサムエルに、「角に油を満たして、ベツレヘムのエッサイの息子たちの中にその人物を見出したので訪ねよと命じました。イザヤ書111節、「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊が留まる」とあります。主はエッサイの息子たちの中に油注ぐ人物を見出したというのです。エッサイには8人の息子がありました。サムエル長男はエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さ1月に目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 ここで容姿や背の高さに目を向けるなとあります。サウルの選びで失敗したことが反映されているのでしょうか?主は心によって見ると云います。7人の兄弟が退けられました。 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」「人をやって、彼を連れて来させてください。」 エッサイが、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」これがダビデでした。

 「人は目に映ることを見るが」は、口語訳では、「人は顔の形を見、主は心を見る」、新改訳では、「人はうわべを見るが、主は心を見る」です。現代では、見た目で差別やいじめが発生しています。ダビデも、「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。」(1612)と言われているのです。リュティ牧師は、サムエル記解説教でこう述べています。「この箇所は次のように訳されるべきです。「人は自分の目によって物を見る。しかし、神は自分の心によって物を見る」と。4物をご覧になるのに、神は目だけでなく、それ以上に心を用いられます。神ん御心は、憐みに満ち溢れています。ダビデの澄んだ目や清い心のゆえに、神はダビデをお選びになったのではありません。そうではなく、憐みの故です。神が憐みの心をもってご覧になったからこそ、ダビデが御心に適う者とされたのです。 されば、「主は、私たちの心を見る」ではなく、「主はご自分の恵の心によって、わたしたちを見る、ご覧になる」です。主は、ダビデの心を主を畏れる信仰をご覧になったのでしょう。

 わたしたちはどうでしょうか。コリント書126節に、「1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」とパウロが言っている通りです。主の憐み、主の恵の心によって選んでくださり、今日まで導いてくださったことを感謝して顧みなければなりません。