日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.2.17「苦しみと讃美」

Posted on 2019. 2. 18, 牧師: 藤田 穰

聖書 ヤコブの手紙5章13~18

 5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。5:17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。5:18 しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。

 昨年は、世界中に災害が発生した。温暖化等により世界が大きく変わりつつある。台風などはその動向が予測できるのだが

 知人Aさんの御主人、定年退職、子どもたちも成長、不自由のない生活に入った。彼は自転車が趣味、坂で転んで股関節を負傷、退院、リハビリを続けたが、以前のように自転車に乗ることはできない。ついに車椅子の生活となった。

 クリスチャンのAさんも教会から足が遠のき、奉仕もできなくなり、信仰を失うのではないかとさえ考えている。Aさんは、信仰には行いが伴うことをモットーにしている。やがて、Aさんも病気に罹り、杖をつかなければならなくなった。こんな人生、人の世話にならねば生きて行けない。教会の人の慰めも

彼女には届かない。 最後に、苦しんで神に祈った。ごめんなさいと祈り、讃美歌を歌うと元気が出るという。いつも祈っているという。

 クリスチャンの行いとは何を意味するのか。主の兄弟ヤコブの手紙、ヤコブの名を借りて離散のクリスチャンのために書かれた手紙である。

 パウロは「信仰義認」を唱えました。信仰があれば人は義とされる。と言うものです。その事で多くの人々が救われてきました。しかし、時が過ぎると

信仰義認が独り歩きしだしました。 離散したキリスト者が世俗的になっている現状に、心を痛めた著者ヤコブはキリスト者の生き方を勧告したのです。

「行いをと伴わなければ信仰は死んだも同然である。」「信仰は行いを伴うのだ」とヤコブ書の著者は主張したのでした。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。(28~9節)神や隣人に

何もしなければクリスチャンではない。

 しかし、ヤコブの手紙は、「信仰義認」を第1とする宗教改革者ルターからは、「藁の書簡」として、激しく糾弾されました。

 信仰はもっていれば行いが伴う。ヤコブの主張です。信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。

富んでいる者、人の悪口を云う者、兄弟を裁く者、驕り高ぶる者、裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。(512節)

 人間は強くない。それほど実行するのは難しい。そのようにできない自分を告白し祈りなさい。苦難の時に祈り、喜びの時に讃美しなさいと勧める。

 だからヤコブは、「苦難の時には祈り、喜ぶときには賛美をしなさい、そして何よりも神様に罪を告白し、赦して頂きなさい。お互いに助け合って苦難を乗り越えなさい」。と記します。それこそが神様への応答、行いである、と言っているように思います。

 礼拝は、神との交わり、聖書の言葉を通し、一人一人と応答する。信仰を

同じくする者が、神に祈り、神を賛美する。

祈りや賛美する生活の中で、病をいやすために祈る。人に言えない悩みを共に祈る。嬉しいことを共に喜び、神に感謝する。この当たり前のことが出来なくなっている教会。グループに分かれて権力争いをしている。それは、神の悲しむことなのに。今の社会、教会も同じである。一人一人は、信仰が養われ、信仰が次に引き継いでゆかなければならない。

高齢になるとできることが少なくなる。信仰に行いが伴わない。しかし、苦悩の時に祈り、嬉しいときに讃美する。しかし、これが行いであり、神への応答であり、神さまが一番喜んでくださることだ。

Aさんの介護も行いである。人の世話になることは、人をつなぐ行いである。

そこに、信仰と行いが伴うのだ。

 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。エリヤは、

何度も何度も祈り、祈りを恵みに変えた。

 大人も希望を持てない。行うことで自分の存在を感じる。何もできない自分は、必要ないのではないか?しかし、神さまは一人一人に役目を与えてくださる。そこにいるだけの役目の人もある。教会は、そういう場所であれば良い。 キリスト者は、兄弟姉妹に自分をさらけだす場所が必要だ。

キリストの体なる教会、神さまが共にいて下さる。一人ではない。一人一人が神さまにとって大切。神さまは、苦しみ、喜びに働きかけてくださる。助けてくださる。神さまは、苦しむ者を御翼さのかげに隠してくださる。神を讃美しつつ、この年を歩みたい。