日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.3.10「信仰の薄き者」

Posted on 2019. 3. 12, 牧師: 藤田 穣

マタイによる福音書14章1~13節
 14:22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 14:23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 14:24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 14:25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 14:26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 14:27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 14:28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 14:29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 14:30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 14:31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 14:32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 14:33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 水の上を歩く
 皆さん、ボートに乗ったことありますか。オールで漕いで進みますね。でも風が前から吹いてくると進みません。先生も若いとき、CSの生徒さんと3人で金沢八景の海でボートに乗っていました。漕いでいたのですが、風が強く沖に流されてしまいました。近くにいた何人もの人が泳いで助けに来てくれたので、岸に戻ることができました。
 今日はガリラヤ湖での出来事です。ある日の夕方、イエス様の言いつけでお弟子たちは、ガリラヤ湖の対岸に向かって舟を漕ぎだしました。彼らの中のペトロ、アンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟は、この湖の漁師でしたから慣れたものです。「イチ、ニ、イチ、ニ」と声を出してオールで漕ぎだしました。イエスさまは、岸辺に残り、お話を聞きに集まった大勢の人たちを解散させ、山に登り、お祈りをしておられました。暫くすると急に風が強くなってきました。嵐のようでした。弟子たちは、「イチ、ニ、イチ、ニ」と力を合わせて漕ぎますが、なかなか進みません。「びゅー、びゅー」風が鳴り、ザブーン、ザブーン」大きな波が立ち、舟はぐらぐら揺れだしました。「ちっとも進まないよ」夜になって辺りは真っ暗でした。もう皆くたくたでした。暗闇の中、ビュー、ユー吹く風とザブーン、ザブンと打ち付ける波しぶき、声を出す者もいなくなりました。 何時間も経ちました。うっすら夜が明け始めました。舟は湖の上です。その時、誰かが叫びました。「あれは何だ」誰かが湖の上を歩いてくるのです。「幽霊だ、幽霊だ」弟子たちはぶるぶる震えました。 その時、声が聞こえました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」聞き慣れた声でした。何とその人影はイエスさまでした。「水の上を歩いて来られたのですか?」弟子たちはますます驚きました。すると、ペトロが声をあげました。「イエス様、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 イエスさまが、「来なさい」と言われたので、ペトロは、そっと舟から湖の上に足を下ろしました。水の上に立つと、一歩、一歩、イエスさまを見つめて歩きました。その時、強い風がビューと吹き、大波がザブーンとうねりました。途端に、ペトロは、怖くなり、思わず、イエスさまから目を離すと沈み始めました。「イエス様、助けてください」と叫んだ。 イエスさまはすぐに手を伸ばしてペトロを摑まえ、「何故、私から目を離したのか。信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 イエスさまとペトロが舟に乗り込むと、風は静まり、波も静まり、湖は穏やかになった。弟子たちは驚いて「本当に、あなたは、神さまです」といってイエスさまを拝んだ。

神さま、いつもイエスさまから目を離さないでいることが出来ますように、わたしたちをお守りください。卒園式、卒業式の季節、一人一人を守り祝福ください。イエス様のお名前によってお祈りします。
 アーメン
                  (子どもの礼拝 終了)

 2~3のことを考えます。
 イエスは、強いて弟子たちを舟に乗りこませた。何故か、イエスも弟子たちも群衆から逃げる必要性に駆り立てられていました。イエスの教えと力ある業は、多くの人々を引き寄せておりました。
 ルカ福音書6章17節 おびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。今日の箇所の前には、5千人の給食の記事がある。
並行記事のヨハネ福音書6章14節以降、「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」とあります。
 マタイには、このとき、群衆がイエスを王にしようとした記事はないが、弟子たちをすぐに、強いて弟子たちを群衆から引き離して、舟に乗せた理由はそこにあろう。興奮している群衆、弟子たちもこれに感染してイエスを王に擁立せんとする動きに出るかもしれない。弟子の中には愛国主義者、熱心党に共鳴するユダのような者もいる。イエス山に退き祈り、父なる神の意志を問いただされたのかも知れない。

この湖上歩行という奇跡は本当に起きたのか。昔から議論がある。
これは、精神的真理である。主イエスは、人生の荒波のなかで我らを救い給う。
 合理的説明は、弟子たちは沖に出たと思っていたが風のため吹き戻されて湖岸近くにいたのである。イエスは、浅瀬を歩いて弟子たちの所に行かれた。イエスは、湖上を歩いたのではなく泳いだとする説。
 似たような説が沢山ある。
しかし、私たちは神の子イエスが、「自然を自由に支配される」のはむしろ自然であると信じこの出来事を見たい。 荒れ狂う波の上を、畳の上を歩くように歩きえるのは神の子なればこそとより頼むのである。イエスが、湖上歩行をせずとも、霊界の精神界の荒れ海を自由に歩き、これを鎮め得るならば、それで充分であるとの考えは多くある。神学者たちは、説明しがたいイエスの自然界における能力、奇蹟を制限、あるいは否定し、霊界のみ、精神界の王者にせんとする。しかし、それは、分かりやすく説明はできるが、自然界のことを物理学の機械的法則に一任し、精神界だけを司るものに、神やキリストを閉じ込めてしまう。それでは、果たしてキリストは、私たちに何の平安と力を与えようか? 
塚本虎二先生は、信仰は説明ではない。力である。理論ではない命である。頭の中で組み立てられた神の子は、私たちの玩具になっても、私たちを救うことはできない。という。まさに、然りである。

私たちの信ずるイエスは湖上を歩いて行かれる。ペトロも歩き出す。
「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。マルコ福音書では、6章47節以下、「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」とある。他にも通り過ぎる記述がある。
それは、復活の日曜の夕方、エマオへ行く二人の弟子と道連れになり、一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。(ルカ24章28節) ここでも通り過ぎようとされているのです。多分、幽霊のように通り過ぎようとされたのです。幽霊だとおじ惑い恐怖の余り声をあげた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 私である。エゴー エイミー 人格存在としての断言でした
主が通り過ぎようとしたから、ペトロは声を掛けたのです。彼は敬愛するイエスの傍に行こうと願ったのです。
小説「クオヴァデス」 シェンキビッチの作品 ローマ皇帝ネロの時代、クリスチャン迫害の時代、ペトロはローマで宣教しておりました。  ローマ伝道に疲れたペトロがアッピア街道をローマから離れようとしたとき、イエスがローマ方向へ歩き過ぎて行かれる。「クオヴァデス・ドミネ」(主よ、いずこへ)「お前が見捨てたローマに行き、もう一度十字架に架かろう。」過ぎ去るイエスを追いかけるペトロにその信仰の情熱を見る気がする。

エッカーマン著「ゲーテとの対話」を加藤常昭先生が引用している。
 ゲーテはエッカーマンに対し、私が最も愛している物語の一つは、このガリラヤ湖の出来事の物語である。この物語における崇高な教えとは何か。それは、人間というのは、どんな困難なことを企てても、そこで信念と真正な勇気があれば、必ず勝利する。しかし、ほんの僅かでも、疑いが忍び込んでくると、その企ては失敗する。
 ゲーテは、真っすぐにイエスに、向かって歩いていたペトロが、信仰と神聖な勇気を持っていたのだと理解しました。しかし、嵐を見たときにほんのわずかの疑いを抱いたので失敗したと見たのです。ここにあるのはペトロへの称賛の言葉です。ペトロあなたは偉い。一度溺れかかったけれども、立ち直ることができた。沈みかかったペトロが、自分で疑いを克服して、水の中から這い上がったのではないのです。沈みかかるペトロに手を伸ばしたのは、主イエスであります。ゲーテの見解は、信仰的ではない。
 何故なら、ペトロがいかに情熱と確信があろうと湖上を歩くことはできない。水の上を歩く力はただ神から来るのだから。

ペトロは、イエスの「来なさい」との命令を聞いて歩き出した。ペトロがイエスを信頼していたので、イエスが神の子の力をもってペトロを歩かしめたのである。故に、ペトロは神業ができたのです。
何故、歩きえなくなったのか。吹き来る風と波を見て信念が揺らいだのです。真っすぐにイエスから力を受けていたのに、嵐のゆえに、彼が疑ったときに神の力のつながりがが切れ、水中に沈んだのです。
主イエスは、これを見て信仰の薄い者よ、何故疑うのか と言われたのです。ペトロの失敗は信仰の動揺でした。力の源であるイエスを見ずして、嵐に動く波を見たからです。怖れたとあります。神に信頼する者に恐れはない。怖れは不信である。目をイエスから離して、風を見、波を見、自分を見るとき恐れが生まれる。疑いが生まれる。死への恐怖が生まれる。死の海へ沈んで行ったのです。

自然奇蹟は、分かりにくい。イエスの復活との関連で理解できる。
究極的に、神は主イエスを死から復活させられました。私たちは、主イエスの教えも十字架も理解できます。しかし、復活となるとなかなか理解できません。ついて行けません」
しかし、それは逆です。弟子たちは復活のイエスに出会って力を受けたのです。それが信仰の始まりでした。主イエスは湖上を歩き、墓をけ破って復活され、私たちと共にいて下さるのです。
32節 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 14:33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
私たちが歩んでいるこの世の人生、それは、湖に漕ぎい出で。嵐や波に翻弄されることがあるかもしれません。その中で、イエスの呼びかけに応えてイエスの許に歩いて行く時があるかもしれません。しかし、沈みかけたのです。「主よ、お助け下さい」いえすは、こう叫ぶペトロを見捨てず、手を伸ばし助けました。ペトロの信仰は主に叫ぶことでした。ペトロは再びイエスを見つめて歩みだしました。イエスにしがみつき、掴まって歩むという生き方があるのです。これがペトロの信仰でした。