日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.3.17「友のために」

Posted on 2019. 3. 19, 牧師: 杉村 和子

聖書 ヨハネによる福音書15章11~17節

 15:11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 15:12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 15:13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 15:14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 15:17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 3月6日から受難節に入りました。5月には年号が変わり、10連休があります。しかし、時給や契約社員には厳しいものがありましょう。底辺に生きる人の幸せを願ったのがイエス様でした。

福音は良き知らせといいますが、それは、イエス様の歩いた道でした。マルコによる福音書が書かれたのが、紀元60年代、マタイ、ルカによる福音書が書かれたのは70~80年代、ヨハネによる福音書は90年代に書かれました。ヨハネによる福音書は、他の福音書と異なった視点で書かれている。それは、イエスの決別説教を長く記している。この中で、イエスが伝えたかったことは、

イエスの新しい掟でした。そして、それは、神の御心でした。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

15章の初めには、「わたしは真のブドウの樹、あなたがたはその枝である」

とあります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(15章9~10)「人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(155)

 イエス様は私たちを「友」と呼んでおります。僕とは、主人に仕える者ですが、その僕を友としてくださるのです。友とは何か。単数形で故人です。友達は複数形です。あなたがたがどうであれ、わたしはあなたがたを友と呼ぶと云う。無条件の愛です。一人一人を友としてくださるのです。

 それは、イエスがなさったように、「互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここには、このようなイエスを十字架に架けた、十字架の意味がふくまれております。弟子たちが十字架の意味を知ったのは、イエスの十字架の死の後でした。

 童話作家 浜田廣介の作品に、「泣いた赤鬼」があります。

 村から離れたところに赤鬼が住んでいました。赤鬼は村人と仲良くなりたいと思い、家の前に立て札を立てました。「お茶とお菓子が用意してあります。気軽にお立ちよりください」しかし、誰一人立ち寄る人は居ません。赤鬼は

怒って立札を壊してしまいました。そこに、友人の青鬼が訪ねて来ました。

赤鬼は、人間と友だちになりたいという一部始終を話しました。青鬼は、一つの提案をします。青鬼が村で暴れるから、そこに、赤鬼が来て青鬼を退治するというシナリオでした。何かをするには、誰かが犠牲(身代わり)にならなければならない。悪い青鬼を退治した赤鬼は、村人と仲良くなりました。

 しかし、これ以降、青鬼が遊びに来ません。青鬼の家を訪ねると戸が閉まり留守でした。玄関に赤鬼宛の張り紙がありました。「ボクがキミと付き合っていれば、君が悪者にされる。僕は旅にでます」

 赤鬼は、大切な存在を失って初めて友だちの大切さを知りました。赤鬼と人間が仲良くなるために自分を捨てることをした青鬼、赤鬼はそのことを考え続けました。イエス様の思いを通して、浜田廣介がクリスチャンかどうか知りませんが、浜田廣介は人間として一番大切なことを教えてくれているのです。

アウシュビッツの収容所で他者のために犠牲になったコルベ神父、一生を他者のためにささげたマザー・テレサのことを思います。

弟子たちはイエスの思いを理解せず、十字架に捨ててしまいました。そうしないつもりでも、気づかないうちに罪を犯してしまいました。弟子たちの罪は私たちのことでもあります。

イエス様は十字架の上で、「「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書2334節)と祈られました。作家の遠藤周作は、「人間が求めるのは同伴者、母のような神をイエスのうちに見る」といいました。ユダヤ人は、裁きの神、罰を与える神をみていました。

イエスの弟子たちはすべてをゆるしてくださる神をイエスの中に見ました。

「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」大切な関係をイエスは私たちと結んでくださる。そのように選んでくださった。神さまを忘れ、つぶやき、道を外れようとしている私たちさえ、友と呼び、選んでくださった。

神の愛を示すために生きられ、十字架に架かられた、十字架はその愛の極みである。この愛はこれからも語り続けられる。人々を通し、出来事を通して伝えられる。「互いに愛し合いなさい」これを少しでも実行することが、イエスへの答えになるでしょう。