日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.3.2「栄光の主イエス」

Posted on 2019. 4. 1, 牧師: 藤田 穰

聖書 ルカによる福音書9章28~36節

  09:28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 09:29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 09:30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 09:31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 09:32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 09:33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 09:34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 09:35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 09:36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

  英国の作家オスカーワイルドの童話 「幸福な王子」

  ある町の高い塔の上に幸福な王子の像が建っていました。全身薄い金箔でおおわれており、目には大きな青いサファイアが二つ、王子の剣には赤いルビーがはめ込まれていました。町の人々からは、こんなに素晴らしい王子の像はいないと称賛されておりました。ある日、この幸福な王子の足元で、南の国エジプトに帰り遅れた一羽のツバメが休んでいました。すると水が一滴、一滴、ツバメの体に落ちて来ました。驚いて上を見上げると、それは幸福な王子の目から流れ落ちた涙でした。何故、泣いているのかツバメは、王子に尋ねました。王子は、「ずっと向こうに貧しい小さな家があります。幼い男の子が熱病にかかって、オレンジが欲しいと泣いています。けれどもオレンジを買うお金がありません。そこで、ツバメさん、私の剣の柄からルビーを外して持って行ってくれないか」と頼みました。ツバメは願いを聞き入れ、剣からルビーを外して病気に苦し男の子の家に運びました。その翌日、王子は、「向こうに貧しさに苦しんでいる若い劇作家がいる、僕のサファイアの目を届けておくれ」とお願いしました。 早く出発したかったツバメですが、王子の切なる願いを聞き入れ、王子の目の青いサファイアを貧しい劇作家に届けました。この町もすでに冬です。ツバメは一刻も早く出発しなければなりません。そんなとき王子は、「ツバメさん、下の広場でマッチ売りの少女が、溝にマッチを落として困っています。家に帰れば父親からぶたれます。そこで、残っている目のサファイアを、この少女のところに届けてくれないか。」頼みます。ツバメは、「そんなことをしたら目が見えなくなる」と心配しましたが、「貧しい人が救われるなら」と王子は考えを変えません。その優しい心に触れたツバメは、南の国へ渡ることを諦め、最後まで王子の願いを聞き遂げる決意をしました。願い通り、王子の目からサファイアを抜き取り少女に与えました。王子は目を両方とも失って何も見ることが出来なくなりました。ツバメは視力を失った王子の代わりに、町の様子を彼に伝えるようになりました。王子は困っている人たちに、自分の身体に貼ってある金箔を配るようツバメに願いました。ツバメはそのたびに王子の体を覆っている金箔を口ではがし、困った人たちに与えました。配れば配るほど王子の像はどんどん見すぼらしい姿に変わり果てて行きました。 そして王子の像からかつてのきらびやかな様子が消えた頃、町は本格的を迎えました。寒さに耐えられないツバメの身体はすっかり弱ってしまっていました。 死期を悟ったツバメは、最期に王子の願いが聞けて幸せだったことを告げ、最後の力で飛び上がり王子の像にキスをすると、ついに力尽きてしまいました。ツバメが死んでしまったことを知った王子は、大きなショックを受け、その鉛の心臓が割れてしまいました。
 町のお偉いさんたちは、目もなく、金箔もない見すぼらしくて役に立たない幸福な王子の像を引き下ろして、自分の像をその後に立てようと言い出しました。町の人たちは、王子の像を溶鉱炉にかけて溶かしてしまいました。しかし鉛の心臓だけは溶けなかったので、ツバメの死体と一緒にゴミ置き場に捨てられてしまいました。

そんなとき、神さまは、天使にこの町で一番良いものを二つ持って来なさいと命じました。天使は、王子の鉛の心臓と死んだツバメを持って神さまのもとへ行きました。神さまは「確かに、これぞこの町で一番美しいものだ。」と褒め讃え天国に受け入れたのでした。

  幸福な王子は、その美しい姿で町のシンボル的な存在でした。でも、自分のかけがえのない目を貧しい劇作家とマッチ売りの少女に与え、目が見えなくなってからもツバメのもたらす町の困っている人たちの様子に、身体を覆っている金箔をはがして与えました。そして、最後にはみにくい姿となり引きずり降ろされてしまいました。しかし、神さまは、見捨てることなくこの幸福な王子を、ツバメを大切な者として受け入れてくださいました。ここには、自分お体を犠牲にして、他者のために命を捨てる王子の姿が描かれています。この幸福な王子の姿は、キリストのようであり、死んだツバメはイエスの弟子たちのようにも思えます。

  栄光の山

  ここに記されている高い山はガリラヤの北方シリアにまたがるヘルモン山と思われます。この山の南麓にあるのが、風光明媚な町フィリポ・カイザリアであり、ペトロがイエスに対し、「あなたは神のキリスト」と信仰告白した町です。ヘルモン山の山域は100kmにわたりますが、そのうち70kmにわたる南の稜線が、今、問題となっているゴラン高原です。ヘルモン山2814mの最高点はシリアの支配下にあるが、ゴラン高原は、1967年の第3次中東戦争以来、イスラエルの支配下にあります。この321日米国のトランプ大統領は、ゴラン高原について、「イスラエルの主権を認める時が来た」とツイートし、物議を醸しだしております。トランプ大統領のイスラエルへの肩入れは、シリアを支援するロシアやイランとの緊張関係を高めるものであります。イスラエルは1981年、ゴラン高原の併合を宣言したが、国連安全保障理事会は、即時撤退を決議しております。イスラエルの主張を認めたのはトランプ大統領が初めてです。菅官房長官は、「我が国はイスラエルのゴラン高原併合を認めない立場にある」と談話を発表しました。戦争による領土の変更を認めれば、日本の固有領土である北方領土問題に対しても影響を与えざるを得ない。ゴラン高原からシリアの首都ダマスカスまでは60km、ゴラン高原は、戦略的要衝にある。聖なる山が戦争の具になっているのは慙愧にたえません。平和と静寂を願うばかりです。

  イエスとペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たちは、ヘルモン山系の山並みのどこのピークまで登ったのであろうか。祈るために山に登られたとあります。主イエスはしばしば山に登って祈られ、夜を徹して祈られたのでした。山の頂きに到着したのは、夕暮れに近かったかもしれない。   

  この山の頂でイエスが祈っておられる間に、イエスの御顔の姿が変わり、その衣がまばゆいほど白く輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

  今やイエスは、十字架の死を考え祈っておられたのです。そこにモーセとエリヤが現れました。モーセは、イスラエルの民のための律法の代表者でありエリヤは預言者の中で最大の人物である。それは、あたかも、イスラエルの最大の宗教家である二人がイエスの行くべき苦難の道を支えるべく話しておられたのである。イエスは、自分の成し遂げようとする苦難、十字架の道を進むことに確信を持ったであろう。そして、二人は、神がイエスの選んだ道を承認していることの証人でありました。

マラキ書に、「 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。 見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(322~23節)これは、マラキの預言の成就であった。

  モーセ、エリヤ、イエスの三人は、イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について話していたのです。最期と訳されている言葉は、エクソドスという言葉です。出エジプト記は英語でエクソドス、脱出という意味であり、旅立ちという意味です。それは、イエスが十字架の死を脱出し、復活の栄光へ向かって旅立つということでありましょう。

  そんなとき、イエスの姿が変わりました。「変わった」のギリシャ語、メタモルフェーは、さなぎが蝶になり、卵がひよこになるような変化を意味する言葉です。人間が人間でありながら。全く人間でないかのように変化したのです。並行のマタイ福音書172節では、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」とあります。イエスの死後、その空虚な墓に天使があらわれますが、その様子は、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」(マタイ福音書283節)とあり、天的存在にかわったことを示します。

  3人の弟子たちは、イエスの祈りの間、眠気に襲われておりました。眠気を堪えているときに、イエスの変貌が起こりました。

  このイエスの変貌、言い換えると栄化という意味でしょう。この姿が変わるというのは、この世のものとは思われない栄光の姿にかわったということです。この栄化の考え方は、パウロの手紙によって示される。

 それは、私たち信仰者に与えられるものでもあります。

ローマ322節以下、「アダムにおいて人間は罪を犯した結果、神の栄光を受けることができなくなっている。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。新しいアダム、神の似像であるイエス・キリストにおいて、神の栄光が回復される。コリント11543節、「栄光あるものによみがえらされる」コリント318節「わたしたちは皆、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」テサロニケ212節、「あなたがた一人一人に 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」テモテ210節。「キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。」

私たちは、イエス・キリストと同じ栄光を受ける、それは死を超えて生きる、復活の栄光であります。ですから、この変貌は、イエスの十字架の死と復活の栄光を示すものであります。この山上で3人弟子たちは、死後の世界、天国の姿を垣間みたのでした。そして、弟子たちも恍惚状態になり、「いつまでも、この山の上にいたい」と思ったのです。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。

モーセは律法の代表者、エリヤは預言者の代表です。モーセは、イスラエルの民をエジプトから救い出し、荒れ野の40年の旅を導いただけでなく、

神から旧約宗教の根本となる十戒を授けられ、人々に伝えました。火の柱が煙るシナイ山で神の人と呼ばれ、多くの奇跡を起こしました。

エリヤは、イスラエル北王国が王妃イゼベルによってバアル信仰に堕落したとき、バアルの預言者450人と一人対峙して、ヤハウエのために戦い勝利しました。エリヤはつむじ風に乗って天にあげられたと言われます。

ユダヤでは、メシアに先駆けて預言者エリヤが再び地上に遣わされると信じられておりました。

モーセとエリヤの同時出現は、律法と預言が止揚されて、対立ではなく、調和される、成就の幻を見たのです。

34節 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

モーセやエリヤが去り、イエスのみが残りました。すると雲の中の声、神の声は、ただ、キリストに聞けです。これは、モーセの預言した「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申命記1815節)の成就です。わたしたちは、ただイエスに聴き、信じ、従うことが求められるのです。

 ペトロは、この時のことを思い出して、ペトロの第2の手紙で、「 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(11621)とこの時のことを回顧しております。ペトロは弟子として、主イエス・キリストに聞き従う生涯を全うしました。ペトロは、 ローマで迫害による殉教の死を遂げましたが、神の栄光、聖霊に満たされて、信仰の生涯を閉じたのでした。 

 私たちは、主イエスに聞き従う者です。そして、主イエスに聴き従って生涯を歩んだ主イエスの弟子たち、証人たち、信仰の先輩に囲まれております。私たちもこれに倣う者となりたく願います。