日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.3.3「神を試みてはならない」

Posted on 2019. 3. 4, 牧師: 藤田 穣

ルカによる福音書4章1~13節
 04:01さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 04:02四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 04:03そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 04:04イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 04:05更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 04:06そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 04:07だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 04:08イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 04:09そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 04:10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 04:11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」 04:12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 04:13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 今週の水曜日から、受難節に入ります。
本日は、受難節第1聖日の聖書暦に従って、この季節に必ず読まれる、イエスが荒れ野で悪魔に試みられた出来事から学びます。
 イエスは、ヨルダン川で洗礼を受け、救い主としてのしるしを聖霊の降下によって与えられ、ナザレへ帰る途中で荒れ野をさ迷い歩いたのでした。それは、聖霊によって促されたとあります。イエスは、40日の飢えを経て、悪魔の試みに遭うのです。
 その悪魔の試みは3つありました。第1は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」これは、人間の貧しさや病気などからの救い、第2は、「もしわたしを拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄とをあなたに与えよう。」、世界制覇という力による救いであり、第3は、イエスを神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」これは、神への信頼による救いでありましょう。この誘惑に対して、イエスは、第1に、「人はパンだけで生きるものではない」とお答えになった。第2は、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とお応えになった。」第3は、「あなたの神である主を試してはならない」と語っている。
 この聖霊のうながしによる悪魔の試みとはどういうことでしょうか?
聖霊は神の霊ですが、その聖霊の導きが悪魔の試みと結びついているのです。悪魔は、人間を神から引き離す方向へ導く、神に導く聖霊とは正反対の方向に働くのです。なぜ、そんなことが起こるのでしょうか。
聖霊の中に、悪魔による誘惑が含まれているという発想があると、北森嘉蔵先生は言われます。
 聖霊を遣わすのは神さまです。神さまの御心には、悪魔の誘惑を単純に退けるというのではなく、悪魔の誘惑を包み込んでいるのです。否定的なものでさえ神ご自身のなかに包み込むという真理です。主イエスの十字架は、敵を愛する究極の行為ですからこの矛盾も分かる気がします。
 ヨブ記の中に、神さまとサタンの会話があります。01:01ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。01:08主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 01:09サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。 01:10あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。 01:11ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 01:12主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
こうして、ヨブとその家族は、神さまの制約条件のなかでサタンの試みに遭ったのでした。
 
  そして、イエスは、荒れ野の中を聖霊によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。私たちが、働く原点は、空腹を満たすためです。それが生きるということです。主イエスといえども、空腹を覚えられたはずです。
3節 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある」とお答えになった。
しかし、イエスはご自分の空腹だけを考えておられるのではないでしょう。福音書の中に、5千人、4千人の給食により人々を養われました。パンの問題を解決されたのです。悪魔の誘惑は、イエスにパンの解決を使命にしたらと勧めているようです。パンのために植え、苦しんでいる人たちが今でも沢山います。パンの問題を使命としている人は今でも沢山います。そういう意味の救い主となることをイエスに勧めるのです。
イエスの答えは、「人はパンだけで生きるものではない」これは、申命記8章3節、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
の引用です。空腹を満たすのは、パンだけではない。主の口から出る言葉によって生かされているのである。イエスは、この言葉に立つのです。
この後、イエスはガリラヤで貧しさや病気、差別に見捨てられている人達に出会い、飢える者に食物を、病む者を癒し、差別に苦しむ者を慰めた。イエスは、そこで神の言葉を与え、信仰を与え、罪の赦しを神の祝福を与えたのである。それは、人がパンだけでは生きられないことを知っておられたからだ。神の子なら石をパンに変えてみよ。それは、イエスにとって自明のことです。

 渡辺純幸先生はこんなことを記しております。
私たちは、神さまから一人一人に与えられている賜物、恵みというパンを受けている。しかし、それを石としか見ていないかもしれない。悪魔は既に、石がパンに変えられているのに、そのパンを石としか見ていないのかもしれません。

米国カリフォルニアの砂漠を飛ぶ鳥は、ハゲタカと小さなはち鳥の二種類だそうです。ハゲタカが大空から探すのは動物の死体です。小さなハチ鳥は、動物の死体に心を奪われることなく、サボテンの周りを飛びながら、とげの間に咲いている花を見つけると、細くて長い嘴で花から蜜を吸うのです。
ハゲタカのように死体をみつけるだけに留まらず、ハチ鳥がサボテンの花をみつめるように、信仰の視点を変えてみたらと思う次第です。
第2の試みです。5節 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
悪魔は、もし、主イエスが、自分・悪魔を拝むなら、全世界のすべてをあなたに差し上げましょう、とイエスに言った。
イエスは、今、公生涯、福音宣教のスタートに立っています。ご自分の使命は、全世界の、全人類の救いのためであり、いつかご自分が、全世界から、全人類から受け入れられる日が来る、それは信仰においてですが、全世界が主イエスにぬかずく日が来るということです。
それを悪魔は洞察して、早くそうされたらどうですか。わたしには、それだけの力がありますと誘惑したのです。 イエスは、悪魔に言われた。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。と答えられました。これは、申命記6章13節、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」の引用です。
力を誇る悪魔に膝を屈めることによって、全世界を力で>従えるという誘惑を退けられたのです。
イエス・キリストは、パンの問題と権力の問題を退けました。これにより、キリストが主であるということ、全世界がキリストの僕であることは、権力の道、力の道とは違う道を辿ることを決意されたのです。否、
マタイ20章20節、「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」ご自分の使命を確認されたのです。

第3は、9節以下、そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
ここで驚くのは、悪魔が聖書の言葉を引用していることです。御言葉は悪魔の誘惑の言葉にも利用されているのです。これは旧約聖書」詩編91篇11,12節の言葉です。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び足が石に当たらないように守る。」
イエスよ、あなたは、どんな危ない目に遭っても肉体は傷つきません。こういう神への信頼で行動してみたらどうかという誘惑です。神の信頼を証明するために、神殿の頂きから飛び降りてごらんなさいというのです。 
これは、神への信頼を奪い取ろうとする悪魔の企みである。主イエスは、この誘惑が神を試みるものであると見抜かれた。この悪魔の誘いに乗っていたら、イエスが十字架に血を流すことはなかったでしょう。
 主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と答えられた。
これは、申命記6章17節、「6:16 あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」
 イスラエルの民が荒れ野を旅していた時、水が無くなり、モーセに詰め寄って「我々に飲み水を与えよ」と訴え出たことに対して、モーセが答えた言葉です。
 神の自由と力を与えられている神の子が、その行使に自信を持ち、神への信頼の中で奇跡を行うとき、イエスは救い主としてすべての者の支持を受けるだろう、これが悪魔の誘いである。
このような救い主であることは可能である。悪魔の試みは、巧妙である。神への信頼を獲るか、不信仰を獲るかと言われたら信頼を選ぶ以外にない。これが悪魔の狙いだ。試みは不信仰にあるのではなく、信仰のなかにあるのだ。
 私たちも神さまの愛を確かめたい、試したいと思うことがあるかもしれない。しかし、愛を試みられるのは、愛する者には屈辱です。そんなことをしなくても神さまの愛はかわりません。私たちが神の愛に相応しくない
不信仰に陥っても神さまは変わらぬ愛で愛してくださいます。
 イエスは、ここで神を信頼することを拒んだ。神に信頼するという仕方で人間のエゴイズムが極まることを知っておられる。信仰と信頼の押し付けがましさを知っておられた故に、「あなたの神である主を試してはならない」と答えられたのです。こうして、悪魔の誘惑を退けました。この決意が、十字架への道に繋がるのです。十字架は神を試みることをしない主イエスの信頼に立っているのです。悪魔の試みに対するイエスの闘いは、十字架上で成就し、その勝利のしるしが復活であります。