日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.4.14「父よ、彼らをお赦しください」

Posted on 2019. 4. 16, 牧師: 藤田 穣

聖書 ルカによる福音書23章32~38節
  23:32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 23:33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 23:34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 23:35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 23:36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 23:37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 23:38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
  
十字架上のイエスさま 
教会のカレンダーでは、今日から受難週に入ります。この週の金曜日にイエス様は十字架に架かられました。
さて、捕らえられたイエス様は、ユダヤ人指導者たちの裁判を受けました。彼らは、「人間であるイエス様が、自分のことを神の子だと云って神さまを汚した」と死刑にすることに決めました。神さまがイスラエルに授けた戒めに、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」とありました。
ローマに治められていたユダヤの国は、死刑を執行することはできませんでした。指導者たちは、イエス様を、ローマの総督ピラトのもとに連れてゆき、「イエスは自分を王さまだ」と云って、人々を惑わしています。」と訴えました。
ピラトは、イエス様を取り調べまた後、ユダヤ人たちに、「この人は別に何も悪いことをしていない。鞭で懲らしめてから釈放する」と言いました。しかし、ユダヤ人たちは、「その男を死刑にしろ。十字架につけろ、十字架につけろ」と一斉に叫びました。ユダヤ人指導者にピラトは何とかイエス様を助けたいと思いましたが、ユダヤ人たちは、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けます。このままでは暴動になると恐れたピラトは、その声に負けて、「あなたたちが好きなようにしなさい。」と言い、何も悪いことをしていないイエス様を十字架につけることを許してしまいました。
「されこうべ・どくろ」と呼ばれていた丘の上でイエス様は十字架に架けられました。イエス様の右と左には強盗の罪を犯した男の人たちが十字架につけられていました。十字架刑は、木の十字架に手と足を釘で打ち付けられ何時間も苦しんで死ぬのです。その苦しい息の下でイエス様はお祈りしました。「天のお父さま、わたしを十字架につけた人たちをお赦しください。あの人達は、自分が何をしているのかわかっていないのです。」
しかし、十字架を見に来た人たちは、「もし本当に神の子なら、自分で十字架を降りてみろ!」と云いました。強盗の一人も言いました。「お前が救い主なら、自分と俺たちを救え!」とののしりました。 すると、もう一人の強盗が、「そんなことを言うな。俺たちは悪いことをしたから罰を受けても仕方ないが、この人は何も悪いことをしていない。」そして、この人は、「イエス様、あなたが天国に行かれたとき、私を思い出してください。」この強盗は、自分が悪いことをしたと心から悔いていたのです。イエス様は、「はっきり言っておく、あなたは今日わたしと一緒に天国にいる」と言われました。

お昼の12時頃、辺りが急に暗くなり、暗闇は3時間続きました。イエス様は大きい声で、「父よ、私の霊をあなたに委ねます」と叫んで息を引き取りました。ずっと十字架上のイエス様を見ていたローマ軍の百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と言いました。多くの人たちが胸を打たれて、悲しみながら帰ってゆきました。
後に弟子のペトロは、その手紙ペトロⅠ書2章22節以下で、「この方は、罪を犯したことがありませんでした。そして、十字架にかかって、全ての罪びとの身代わりとなって、わたしたちの罪の罰を受けてくださいました。その犠牲によって、あなたがたは救われたのです。」と証しております。

ひそかにイエス様を信じていたユダヤ議会の議員アリマタヤ出身のヨセフが、総督ピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て許されました。ヨセフは、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、自分の墓に葬りました。その日の夕方6時から、安息日が始まろうとしていたので、それ以上葬りの準備はできませんでした。これが、イエス様の十字架の一部始終です。

天のお父様、イエス様が私たちを救うために十字架につけられたことを信じます。私たちの罪を赦してください。 イエス様のお名前によってお祈りします。                   アーメン。
                  (子どもの礼拝 おわり)

イスラエルの総選挙
先日、イスラエルの総選挙が終わった。ネタニヤフ首相率いる右派のリクードと空挺部隊出身のイスラエル防衛軍元参謀総長ガンツ氏率いる中道政党青と白が議席35の同数で並んだが、右派の少数政党連立で65、中道左派連合が55で、リクードネタニヤフ政権の続投がきまった。選挙前、ネタニヤフ首相は、選挙に勝利したら、パレスチナに展開するユダヤ人入植地は70か所以上あるが、イスラエルへの併合を行うと言明していた。その強硬路線がトランプ米大統領との連携でさらにすすむ危険が指摘される。青と白のガンツ氏は、ネタニヤフ首相の強硬路線では中東和平は実現できないと主張していた。選挙中のインタビューで、ガンツ氏は軍隊の経験で、パレスチナ紛争で多くの部下を失った。死んだ部下の家族を何度もお見舞いしたが、このような無意味な戦闘での死による個人と家族の不幸は看過できないと思った。強硬路線では、このような不幸が増えるばかりで、和平交渉を推進したいと訴えていた。ちなみに、イスラエルでは、イスラエル在住のユダヤ人(ユダヤ教徒)の男女とも18歳ころから男子3年、女子1年半の兵役義務がある。ますます強硬になり、中東地域の安定が崩すような事態になることを 憂慮する。創造主なる神が、和平の方向に導かれることを願う次第である。

聖書は、十字架上のイエスを中心に読んでゆきたい。
イエスと共に二人の犯罪者が十字架に架けられた。当時、十字架への拘束は、手足を十字架に釘で打ち付けるか、縄で縛るかのどちらかであったが、イエスは、手足を十字架に釘で打ち付けられた。
その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」イエスは十字架上で7つの言葉を発しているが、これが最初の言葉である。ギリシャ語本文では、繰り返し祈られたと示されます。この言葉は、イエスの地上の生涯の集大成ともいえましょう。先ほど歌った讃美歌280は、一つのイエス伝と云われます。 
馬槽(まぶね)の中に うぶごえあげ、木工(たくみ)の家に   ひととなりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし この人を見よ。
2 食するひまも うちわすれて、しいたげられし ひとをたずね、
友なきものの  友となりて、こころくだきし この人を見よ。
3 すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、
十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ。
 
 主イエスは、不当に逮捕、不正規な裁判で死刑を宣告された。しかし、
今、それを執行しようとしている人々のために、神の赦しを請われたのです。34節、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」かってイエスは云われました。「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ福音書6章27-28節)
今、イエスは自分の命が不当に奪われようとしている極限の状況のなか
で、身をもって示してくださったのでした。イエスは自分が助かるために祈ったのではなく、自分を殺そうとしている敵の罪の赦しを祈られたのでした。 マタイ5章43-48節、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
自分の命のために祈るのではなく、自分を迫害する者のために祈りなさ
い、と勧められております。マタイ18章21節以下では、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言われた。7度の70倍は490回ではない。7も70も完全数であるから、無制限の赦しを教えられたのです。 主イエスは、「無制限の赦し」を教えられ、それを自分自身を通して、身をもって実践されたのです。
 ペトロは、その手紙で証をしております。「 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(ペトロⅠ書2章23-24節)
 主イエスは、ユダヤの指導者祭司長や律法学者、ローマ総督ピラト のもとで裁判をうけましたが、正しく裁きをなさる方、神の御計画の中で裁かれているのです。それは、主イエスの罪のように思えますが、私たち人間の神に背いている罪のためです。主イエスは、私たちの罪の身代わりとして裁かれ、身代わりとして十字架につけられ、身代わりとして十字架上に死なれたのです。その犠牲、功しによって、私たちの罪はゆるされたのです。この赦され恵みに与った私たちも、主イエスが教えられ、身をもって示されたように赦しの生活を実践することを期待されているのです。 

 この十字架の周りにいるのは、あくまでも自分を助ける救い主を求めるのです。他人のために命を捨てる人はいません。
 35節以下、 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
 ここには、嘲笑う者たちの声が響きます。ユダヤの指導者たちは、メシア・救い主ならば自分を救え。何も文句を言わずに静かに死んでゆくメシアなど考えられないのです。まして、自分が死んで他人を救うメシアなどありえないのです。彼らは、イエスに向かって自分たちの考えるメシアを要求するのです。「今。十字架から降りてみるが良い、それを見たら信じよう」(マルコ福音書15章32節)人間は自分が納得できるようなメシアでなければ信じられないのです。
 イエスは捕らえられまいとすれば、祭司長の手の者やユダから捕らえられずにいることもできた筈だ。もちろん、十字架から逃げ出そうと思えばいくらでも逃げられたはずである。十字架の上でイエスが死ぬのを辞めようと決心したら死なずにすんだであろう。イエスはこのように嘲笑っている人たちを打ち倒すこともできたであろう。
 主イエスは仕方なく十字架に架かられたのではない。自分の命を、永遠の命として私たちに与えるべくご自分の命を捨てたのだ。
 「12:24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 12:25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ福音書12章24-25節)
15:13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
(ヨハネ福音書15章13節)
39節以下、十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
この強盗の一人は、主イエスの祈りに打たれたのです。何故、こんなことが起こるのか。それが何を意味するのか。この人が祈っておられたのは自分のことではないか。そのことを悟ったのです。「あなたの御国においでになるとき、天国においでになる時は、わたしを思い出してください。」
「あなたは、今日、わたしと一緒に神の祝福と喜びに入る」この強盗の上に救いが実現したのです。主イエスは、最後まで、ご自分よりも私たちの救いに目を向けておられたのです。主イエスの呼びかけに応えるのに遅すぎることはないのです。
十字架の処刑に立ち会っていた1ローマ軍の百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と告白しました。
4 この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、
この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。
十字架のイエスは私たちの救いを成就しようとして戦っている。このイエスの赦しの愛に生かされているときのみ、私たちは神を愛し、隣人を愛して生きることができるのです。