日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.4.7「悲しみの祈り」

Posted on 2019. 4. 8, 牧師: 藤田 穰

聖書 ルカによる福音書22章39~47節
  22:39イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 22:40いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。 22:41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 22:42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 22:43すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 22:44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕 22:45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 22:46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

  桜2題
  福島県富岡町・夜の森の桜並木は、今年も見事な桜満開を見せた。しかし、2,2kmにわたる桜並木のうち1.9kmが原発事故の帰還困難区域で立ち入り禁止ゲートのなかにある。町の配慮でゲートの中も観光バスで桜を愛でることが出来た。区長さんがインタビューに答え、「桜並木は毎年見事に花を咲かせているが、禁止区域の住宅が年々空地化している」と嘆いておられた。政治の貧困が垣間見える。
  今年の桜の満開日が、富山と静岡で同じ日になった。平年は静岡の方が速い。原因は共に冬の気温が高かったことによる。冬期休眠状態にある桜は低温が一定期間続かないと花芽が休眠から覚めない。これを休眠打破というそうだ。静岡の場合は、冬の間、気温が高く、休眠打破が遅れたのだという。自然界は低温期間がないと綺麗な花芽が眠りから覚めない。人生においてはどうだろうか。

  ゲッセマネの祈り
  今日の聖書の場面は、オリーブ山中腹のゲッセマネの園です。オリーブ山は、ギデロンの谷を挟んでエルサレム旧市街の城壁と相対峙する山で800mの高さがある。イエス当時は、山全体がオリーブで覆われていたと言われる。神学校の卒業前に仏教の講話に来られた禅宗の講師が、エルサレムにお寺を建てるなら寺院の山号は橄欖山で決まりだと言われたのが頭に残っている。私も勝手に橄欖山西方寺などどうかと思ったものだ。カトリックの作家 加賀乙彦の「聖書の大地」によると、「そもそもゲッセマネとは、オリーブ油の圧搾機のいみである。私たちはオリーブの繁る園に入った。樹齢200年と案内書にあるから、イエスの時代のものではないが、樹皮のこぶ奇怪に重なる目通り1.5mほどの大木である。(現在は、8本の大木のみが残っている。)目の前には城壁が迫っていた。私はそこで月夜の晩にイエスの見た城壁を想像してみた。深夜の満月。月は頭上にあって城壁は暗い。黒々と奥深い神殿の王の廊下の屋根が銀色に輝く。…堅固に創られた建造物の向こうに大祭司や祭司長の繰り出す一隊が動き出している。イエスの血の祈りは神殿に象徴される旧式の権力と対立しようとする決意の表現であった。」この園の隣に、4世紀に建てられた教会は別名、「苦悶の教会」といわれた。現在は1925年12か国の寄付により再建されたので、万国民の教会と名付けられている。
  
苦難の道行き
  私たちはルカによる福音書を通して、受難節の聖書箇所を学んで来ました。ルカによれば、イエスの地上の生涯は、神さまの御計画のうちに決まっておりました。フィリポ・カイザリアでの弟子ペトロの信仰告白
 「あなたは神のキリスト」です。」ペトロを始めとする弟子たちは、期待を込めて告白したことでしょう。しかし、その後すぐにイエスは弟子たちに十字架の受難の予告をしました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 このことになっているは、neverである。避けてとおることのできない必然的な出来事だと言われたのです。成就する父なる神の「ねばならない」のもとに置かれているのです。それは、「このねばならない」がイエスの身において成就されるということなのです。
それは、ペトロが後に、ユダヤの人々に説教したとき、「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのです、…あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(使徒言行録2章23節)で証しております。イエスの運命は神の御心の中で定まっていたのでした。そして、イエスは、その父なる神の御心を第1に生きられ、十字架への道を進まれるのです。

オリーブ山の祈り
  イエスの十字架に向かって歩む道、最後の晩餐の後イエスはオリーブ山に行き」いつもの場所に行き、イエスは弟子たちから少し離れた場所で祈り始められた。エルサレムの市内はとても狭く、庭園を造るような空き地はなかった。そこで、富裕層は、オリーブ山の中腹に自分の庭を持っていた。ある金持ちが、そのような庭を自由に使うことを許してくれたのであろう。ここは、マルコ福音書に、ゲッセマネの園とある。ゲッセマネは、油絞りという場所で、そこには、オリーブの木が茂っていた。俳優メルギブソンが私財を投じ作ったキリストの最後の12時間を描いたパッションでは、オリブ山のオリーブの木が当時のイメージに合わないとイタリアのオリーブ園で撮影している。うっそうと茂ったオリーブの森の中でイエスは祈られた。エルサレムでイエスは、このゲッセマネの森が いつも祈られる場所でした。「いつもの場所」は、弟子たちと一緒に祈ったいつもの場所であり、イエスを裏切った弟子イスカリオテのユダも 良く知っていた場所でした。イエスは弟子たちとともに祈る最後の場所にいつもの場所を選ばれたのでした。それは、イスカリオテのユダが手引きし、イエスを捕縛しようとする祭司長たちの手の者が、近づきつつあることを予知し、その時を待っておられたとも考えられるのです。
  イエスの十字架への道行きをイザヤ書53章7節の預言のように、「毛を刈る者の前に黙する羊のように、」黙々と進まれます。
  
  主イエスが弟子たちにかけた言葉
死ぬ前の最後に、イエスが弟子たちにかけた言葉は、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。誘惑に立ち向かう力は、神に祈ることです。主の祈りにも「我らを試みに遭わさず」とあります。祈りは神に向かう時であり、私たちの思いを超えた神の御心を発見するときでもあります。
イエスは、「石を投げて届くほどの距離の所で、ひざまずいて祈られた。「ひざまずく」それは、普通の祈り方ではない。ユダヤ人は祈る時に立って祈った。
イエスも二人の人の祈り(ルカ福音書18章)の譬えで、「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 18:11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』…ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない、とあります。(10~14節)
祈りの時に立つのは、キリスト教会の伝統です。と加藤常昭先生が書いておられます。今でもギリシャ正教の教会や古い伝統に立つカトリック教会には、礼拝堂に座るための椅子がありません。ヨーロッパの教会では礼拝のとき、讃美歌を座って歌い、祈りましょうと言われるとみな立ちます。私は暫くドイツの神学大学の寮で学生たちと一緒に過ごしましたが、食堂に集まり、テーブルマスターが「食前の感謝をしましょう」というとそれだけですぐに皆立ちます、とあります。
イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。弟子たちは主の苦しみの本当の意味が分からないでいた。弟子たちも分からないながら、悲しみの内に祈っていた。しかし、主の苦しみの意味は弟子たちの与り知るところではない。イエスと弟子たちの間に大きな断絶があった。それが、神の子イエスの苦しみ悲しみであったに違いない。祈り続けることのできない、集中できない弟子たちの前途は大丈夫なのか。
46節 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」この「起きて」は眠っていたのを起きてと取りがちですが、原文は、「立ち上がる」です。
 いつものように祈るは、いつもの習慣に従いですから、立って祈ったということです。それ故、イスカリオテのユダの一隊が、イエスと弟子たちをすぐに見つけられたのです。46節の起きてと45節の立ち上がっては同じ言葉です。イエスの復活、甦りにも起きるという言葉が使われています。そこに一つの大事な言葉があります。復活のギリシャ語は、アナスタシス 起き上がらせる、再び立ち上るなのです。このアナスタシスから、アナスターシアという女性の名前が生まれました。「甦りに生きる者」という意味の名前です。
 これを読み込むと、「起きて、立ち上がって祈れ」は、「復活の命の中に立って祈れ」、そうすれば、誘惑と戦うことが、全ての戦いに勝利できるということに行き着くと思いますが。読みすぎでしょうか?
 弟子たちは、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。悲しみの果てに寝込むだろうか。弟子たちは主イエスの苦しみの意味が分からない。他の福音書では、「心は熱しているが、肉体は弱いのである。」祈り続けることの大切さを云われながら、肉体は弱い。」とある。
 イエスは、ルカでは、弟子たちが悲しみのあまり眠りこけているのをごらんになったが、お叱りにはならなかった。この弟子たちが、福音を伝える者の中心にならねばならないのである。心中どんなおもいであったろうか?

 御心のままに
42節 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
 主イエスは、跪いて祈る。他の福音書では、地にひれ伏してであり、うつ伏せである。いつもとは異なる祈り方である。イエスに相応しくない祈りの姿勢である。そこにイエスの苦しみが現れている。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」来るべき十字架の苦い杯を私から取り除けてください。」この苦い杯は神の怒りです。その杯は、罪人の死であり、英雄的な死ではありません。ソクラテスが自分の名誉のために毒杯を飲んだのとは異なります。
本来自分にない罪のために杯を飲まなければなりません。主イエスは、罪人である人間が神に裁かれて滅びに至る辛い道を歩まなければなりません。何という悲しみの道行きでしょうか?その苦渋が人間として試練に遭われた姿、苦しみ悶えて、苦渋の汗が血の滴るように落ちる姿でした。そこに、主イエスの傍に天使が現れ、主イエスが苦しみに耐え、戦い抜かれるために励ましたておられたのでした。それは、御子イエスのために遣わされた天使でした。
主イエスの苦難の道行きの成就により、私たちは罪人の死に苦しみ悶えることはなくなったのです。主イエスは、改めて、神の御心を確認します。
ヨハネ福音書6章38節以下、
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ福音書6章38~40節)

  最後に、バッハのマタイ受難曲 ゲッセマネのシーンのコラール 19~25曲の抜粋を読んで終わりにします。マタイ受難曲、それは、バッハの信仰告白でもあります。

  私の救い主であるあなたの怖れとおののきを和らげ、 重荷を背負う手助けをできないものでしょうか。  こうした全ての苦しみは、一体どうして生まれたのですか? ああ!あなたを殺したのは私の数々の罪… 私こそ…ああ、主イエスよ…私こそ、あなたが耐え忍ばれる苦しみの責めを負わねばなりません。
  イエスとともに目覚めていよう。そのとき我らの罪は眠りにつく。
私を死から贖(あがな)ったのは、あのお方の心の苦しみ…。私を喜びで満たすのは、あのお方の悲しみ。イエスは、少しだけ歩みを進めると、地にひれ伏して祈りながらこう言った。
「父上。できることなら、この杯を私のもとから過ぎ去らせてください…。しかし、私の心が望むようにではなく、あなた様の御心のままになさってください。」
 救い主が、父なる神にひざまずいておられる。救い主は私と全ての者を引き上げて、 我らの堕落した境涯を 神の慈愛へと再び引き上げようとされている。救い主は心を決しておられる…死の苦い杯を 飲もうとされている。 その杯は、この世のありとある罪を注がれ、 いとわしい臭いを放っているというのに…しかし、それもまた愛する神が望まれたこと。 「父上、この杯が私のもとから過ぎ去ることが叶わないならば、私は飲みましょう。どうぞ御心をお果たしください。
神の御心こそ至高のものなのです。いつでも神の御心が果たされねばなりません。神を信じ、堅く心を寄せる者を神が見捨てるはずがありましょうか。