日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.6.23「わたしがあなたを選んだ」

Posted on 2019. 6. 27, 牧師: 安藤 脩

聖書 ヨハネによる福音書15章14~17節
15:14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 15:17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

私たちが生きると言うことは決断、決定の連続です。皆さんも今日既に、幾つもの選択と決断をした事でしょう。
今日これまでに何百回、それ以上、選択と決断をしている。朝、目が覚めて、起きようか、もう少し眠ろうか。起きて何をするか。顔を洗って、散歩をしようか。等々です。
私は牧師を隠退してから、朝の食事は自分が作ります。ヨーグルトをいつも作ります。牛乳に種菌を入れて、1日でヨーグルトが出来ます。次の日は、残ったヨーグルトに牛乳を継ぎ足してゆきます。リンゴ、バナナ、>アロエとナッツを切り刻んで入れる。
今日、ここに来るのに車で来ました。車は、選択と決定の連続、選択し続けています。何年間も選択と決定をして生きている。
大事な選択もあれば、 日常的選択もあります。

私たちは自分で選択し、決断し生きている。それは、故人の遺志です。75年の間、自分で意志し、選択し、決定してきた。大きな選択は歌を歌いたいということであった。
鹿児島で生まれ、地元の小学校、中学校、高校に学んだが、何も考えずに通学していた。高校3年の1学期までは、防衛大学に行くつもりでした。鹿児島は、そのような気風の土地で、防衛大の人たちが来て招いてゆく。7人兄弟の末っ子としては、負担をかけたくない。防衛大に入れば、何の心配もない。
高3の夏休みも終わりの頃、歌を歌いたくて、その衝動をとめられなくなった。高3では音楽の時間はなかった。今から音楽の道へ行きたい。音楽の先生にピアノを教えてくださいと言った。断られるかと思ったが、「いいよ」と言ってくれた。9月の終わりころから、学校が音楽室を開放してくれた。朝、5時半から学校で、ピアノ練習。バイエルから始めた。授業が終わって、午後6時から9時まで練習した。
バイエルのハ長調が終わらないうちに、宮崎大学の課題曲が提示された。「ツエルニー30番練習曲23番」ベートーベン、モーツアルト、ハイドンのどれか一つのソナタの選択曲。頑張り続けて2月に試験、コールユーブンゲン、コンコーネ、受験で学科はうなづけるほど手ごたえがあった。実技、23番ツエルニー 始まったときから左右の指がずれた。ハイドンのソナタは、最後まで弾けない。途中でそれまでとなった。
鹿児島出身の先輩たちに、「安藤、どうだった」と聞かれ、ポロっと涙が出た。「そうか、残念だったなあ」 それにも関わらず、合格通知が来た。大学が受験番号を間違えたと思っていた。入学式が終わってほっとした。
宮崎大学の学生寮、4人部屋、先輩から新入生の歓迎コンパに誘われた。それは、キリスト者学生会の歓迎会であった。集会に出るようになり、聖書を読んだ。ギデオン協会配布の分冊、マタイ、ヨハネ福音書、詩編、箴言があった。マタイ福音書を読むと、心に刺さるものがあった。自分の傲慢さを思い知らされた。
小学生の時、友だちと喧嘩をして大けがを負わせた。割瑠香ったのは友人だったが、アルミの下敷きでたたけば良いものを、振りおろして、頭がスパッと切れた。救急車で運ばれる大怪我だった。それ以来、喧嘩はしていない。
わたしは人を裁いた心の中の裁きの思いは、そのまま裁きである。
よその畑のスイカをとって海辺で食べた。母の釣銭入れから、小銭を盗む。そのような人間が、「あいつ、何してんだよ」と裁いている。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイによる福音書5章21~22節)
大学生活で心の動きを抑えるのに苦労した。「女性を見る思い」の罪である。大学の茶道部に属し、茶事に没頭したが、外に出れば元の木阿弥。神の裁きを受けねばならない。同時に、イエス・キリストが、私の罪を背負って、身代わりとして裁きをうけてくださった。頭ではわかりながら、心では受け入れられない。「イエス・キリストの犠牲の功しを信じるか。」牧師から勧められ決断をした。一種の賭け、信じて変われるならば儲けものである。20歳の誕生日を過ぎて、受洗した。実家は、熱心な仏教の家、毎日、お経をあげていた。
帰省して、両親に「クリスチャンになった」と言った。その時には確信が与えられていた。洗礼を受けるその時、讃美の中で、「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。」との神の言葉を聞いた。イエス・キリストが罪を取り除いてくださった。そのイエスが友と呼んでくださる。共にいて下さる確信を得た。
両親に話したとき、姉が、「私もよ」と言った。姉は、カトリックのシスターになった。
主がわたしを選んでくださった。自分で決断をしたと思っていたが
  「主があなたを見出し、あなたを選んでくださった」からである。    だからここにいるのだ。